最近ネットで何かと話題の、
ものみの塔 2007年5月1日号「読者からの質問」全文です。
今回の新しい光(教理変更)を知らない人も多いと思うので全文引用しときます。
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ものみの塔 2007年5月1日号 30-31ページ
読者からの質問
天の希望を抱くようクリスチャンを召すことはいつ終わるのですか
聖書は、この質問について明確な答えを述べていません。わたしたちが
知っているのは、イエスの弟子たちに、天の相続財産を受ける見込みの
ある者として油をそそぐことは西暦33年に始まった、ということです。(使徒
2:1-4)また、使徒たちの死後、真の油そそがれたクリスチャンという「小麦」
が、「雑草」である偽のクリスチャンと「一緒に成長」した、ということも知っ
ています。(マタイ13:24-30)その後、1800年代の終わりごろから、油そそが
れたクリスチャンの活動が再び目立つようになりました。1919年には、「地
の収穫物」の刈り取りが始まりました。それには、油そそがれた者たちの最
後の人々を集めることも含まれます。−啓示14:15,16。
1800年代の終わりごろから1931年にかけて、宣べ伝える業の主な目的は、
キリストの体を構成する残りの者たちを集めることでした。1931年に聖書研
究者たちは、エホバの証人という、聖書に基づく名称を選択し、「ものみの
塔」誌(英語)、1933年11月15日強で、類(たぐい)まれなこの名称はマタイ
20章1−16節のイエスのたとえ話で言われている「デナリ」である、という考
えが示されました。そして、そのたとえ話の中の12年間は1919年から1931
年までの12年間に相当する、と考えられました。その後何年もの間、天の
王国への召しは1931年に終了し、キリストと共同の相続人となるように1930
年と1931年に召された人々が「最後の者」である、と思われていました。
(マタイ20:6−8)しかし、1966年に理解が調整され、そのたとえ話とは関
係がない、ということが明らかになりました。
1935年に、啓示7章9−15節の「大群衆」は「ほかの羊」、つまり地上の希
望を抱くクリスチャンたちで構成されている、ということが分かりました。「終
わりの日」に世界の舞台に登場し、一つの集団としてハルマゲドンを生き残
る人々です。(ヨハネ10:16。テモテ第二3:1。啓示21:3,4)その年以降、
人々を弟子とする業の主な目的は、大群衆を集め入れることに変わりまし
た。そのため、特に1966年以後、天への召しは1935年に終わったと考えら
れるようになりました。1935年以降にバプテスマを受けた人のほとんどすべ
てが自分は地上の希望を抱いていると考えていたため、その説明は確か
であるように思われました。それ以後に天の希望へと召された人は、不忠
実になった油そそがれたクリスチャンの代わりに補充された人、と考えられ
ました。
もし油そそがれた者の一人が悪行を悔い改めずに離れ落ちるなら、エホ
バはその人の代わりとなる別の人を召される、ということに疑問の余地は
ありません。(ローマ11:17−22)しかし、真の油そそがれた者で不忠実
になった人の数は、多くはないと思われます。一方、時たつうちに、1935年
以後にバプテスマを受けたクリスチャンの中にも、自分は天への希望を持
っている、と霊によって証し(あかし)される人が出てきました。(ローマ8:
16,17)したがって、天への希望を抱くようクリスチャンを召すことがいつ
終わるかに関して、明確な時を述べることはできないように思われます。
だれかが、自分は今や油そそがれていると思い、記念式の時に表象物
にあずかろうと心に決めた場合、わたしたちはその人をどう見るべきでしょ
うか。裁くべきではありません。これは当人とエホバとの間の事柄です。
(ローマ14:12)一方、真の油そそがれたクリスチャンは、特別な配慮を
要求したりはしません。また、自分は油そそがれた者だから大群衆の中
の経験ある人々が持つ以上の特別な「洞察力」が与えられている、と考え
ることもありません。さらに、仲間であるほかの羊の人たちより必然的に
多くの聖霊を受けている、とも考えません。特別扱いされることを期待した
り。表象物にあずかるのだから会衆の任命された長老たちより上の立場
にあると主張したりすることもありません。むしろ謙遜(けんそん)な態度で、
1世紀の油そそがれた男子の中にも長老や奉仕の僕(しもべ)とし仕える
資格のなかった人がいたことを思い起こします。(テモテ第一3:1−10、
12,13.テトス1:5−9。ヤコブ3:1)油そそがれたクリスチャンの中には、
霊的に弱い人さえいたのです。(テサロニケ第一5:14)また姉妹たちは、
油そそがれているとしても、会衆内で教えることはありませんでした。−テ
モテ第一2:11,12.
ですから、油そそがれたクリスチャンは、ほかの羊である仲間と共に、霊
の実を培って会衆の平和のために働きながら、霊的な強さを保つように努
力します。油そそがれた者であろうとほかの羊であろうと、すべてのクリス
チャンは、統治体の指導の下、良いたよりを宣べ伝えて人々を弟子とする
業に励みます。油そそがれたクリスチャンは、エホバの僕として地上にとど
まることが神のご意志である限り、その業を行うことに満足するのです。
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※今回の新しい光の重要ポイント。
■教理変更部分。
「1935年以後にバプテスマを受けたクリスチャンの中にも、自分は
天への希望を持っている、と霊によって証し(あかし)される人が出てきました。
したがって、
天への希望を抱くようクリスチャンを召すことがいつ終わるかに関して、
明確な時を述べることはできないように思われます」
※今まではこれがハルマゲドンが来て楽園になる「終わりの日」の
重要な判断ポイントだったので、これにより楽園は無期延期になった。
■その後のだらだら説明は今回の教理変更を矮小化するための目くらまし。
(以下の説明はベテラン兄弟姉妹にとって常識でありごく当たり前の話)
だれかが、自分は今や油そそがれていると思い、記念式の時に表象物
にあずかろうと心に決めた場合、わたしたちはその人をどう見るべきでし
ょうか。裁くべきではありません。これは当人とエホバとの間の事柄です。
(ローマ14:12)一方、真の油そそがれたクリスチャンは、特別な配慮を
要求したりしません。(以下略)
ものみの塔 2007年5月1日号「読者からの質問」全文です。
今回の新しい光(教理変更)を知らない人も多いと思うので全文引用しときます。
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ものみの塔 2007年5月1日号 30-31ページ
読者からの質問
天の希望を抱くようクリスチャンを召すことはいつ終わるのですか
聖書は、この質問について明確な答えを述べていません。わたしたちが
知っているのは、イエスの弟子たちに、天の相続財産を受ける見込みの
ある者として油をそそぐことは西暦33年に始まった、ということです。(使徒
2:1-4)また、使徒たちの死後、真の油そそがれたクリスチャンという「小麦」
が、「雑草」である偽のクリスチャンと「一緒に成長」した、ということも知っ
ています。(マタイ13:24-30)その後、1800年代の終わりごろから、油そそが
れたクリスチャンの活動が再び目立つようになりました。1919年には、「地
の収穫物」の刈り取りが始まりました。それには、油そそがれた者たちの最
後の人々を集めることも含まれます。−啓示14:15,16。
1800年代の終わりごろから1931年にかけて、宣べ伝える業の主な目的は、
キリストの体を構成する残りの者たちを集めることでした。1931年に聖書研
究者たちは、エホバの証人という、聖書に基づく名称を選択し、「ものみの
塔」誌(英語)、1933年11月15日強で、類(たぐい)まれなこの名称はマタイ
20章1−16節のイエスのたとえ話で言われている「デナリ」である、という考
えが示されました。そして、そのたとえ話の中の12年間は1919年から1931
年までの12年間に相当する、と考えられました。その後何年もの間、天の
王国への召しは1931年に終了し、キリストと共同の相続人となるように1930
年と1931年に召された人々が「最後の者」である、と思われていました。
(マタイ20:6−8)しかし、1966年に理解が調整され、そのたとえ話とは関
係がない、ということが明らかになりました。
1935年に、啓示7章9−15節の「大群衆」は「ほかの羊」、つまり地上の希
望を抱くクリスチャンたちで構成されている、ということが分かりました。「終
わりの日」に世界の舞台に登場し、一つの集団としてハルマゲドンを生き残
る人々です。(ヨハネ10:16。テモテ第二3:1。啓示21:3,4)その年以降、
人々を弟子とする業の主な目的は、大群衆を集め入れることに変わりまし
た。そのため、特に1966年以後、天への召しは1935年に終わったと考えら
れるようになりました。1935年以降にバプテスマを受けた人のほとんどすべ
てが自分は地上の希望を抱いていると考えていたため、その説明は確か
であるように思われました。それ以後に天の希望へと召された人は、不忠
実になった油そそがれたクリスチャンの代わりに補充された人、と考えられ
ました。
もし油そそがれた者の一人が悪行を悔い改めずに離れ落ちるなら、エホ
バはその人の代わりとなる別の人を召される、ということに疑問の余地は
ありません。(ローマ11:17−22)しかし、真の油そそがれた者で不忠実
になった人の数は、多くはないと思われます。一方、時たつうちに、1935年
以後にバプテスマを受けたクリスチャンの中にも、自分は天への希望を持
っている、と霊によって証し(あかし)される人が出てきました。(ローマ8:
16,17)したがって、天への希望を抱くようクリスチャンを召すことがいつ
終わるかに関して、明確な時を述べることはできないように思われます。
だれかが、自分は今や油そそがれていると思い、記念式の時に表象物
にあずかろうと心に決めた場合、わたしたちはその人をどう見るべきでしょ
うか。裁くべきではありません。これは当人とエホバとの間の事柄です。
(ローマ14:12)一方、真の油そそがれたクリスチャンは、特別な配慮を
要求したりはしません。また、自分は油そそがれた者だから大群衆の中
の経験ある人々が持つ以上の特別な「洞察力」が与えられている、と考え
ることもありません。さらに、仲間であるほかの羊の人たちより必然的に
多くの聖霊を受けている、とも考えません。特別扱いされることを期待した
り。表象物にあずかるのだから会衆の任命された長老たちより上の立場
にあると主張したりすることもありません。むしろ謙遜(けんそん)な態度で、
1世紀の油そそがれた男子の中にも長老や奉仕の僕(しもべ)とし仕える
資格のなかった人がいたことを思い起こします。(テモテ第一3:1−10、
12,13.テトス1:5−9。ヤコブ3:1)油そそがれたクリスチャンの中には、
霊的に弱い人さえいたのです。(テサロニケ第一5:14)また姉妹たちは、
油そそがれているとしても、会衆内で教えることはありませんでした。−テ
モテ第一2:11,12.
ですから、油そそがれたクリスチャンは、ほかの羊である仲間と共に、霊
の実を培って会衆の平和のために働きながら、霊的な強さを保つように努
力します。油そそがれた者であろうとほかの羊であろうと、すべてのクリス
チャンは、統治体の指導の下、良いたよりを宣べ伝えて人々を弟子とする
業に励みます。油そそがれたクリスチャンは、エホバの僕として地上にとど
まることが神のご意志である限り、その業を行うことに満足するのです。
_________________________
※今回の新しい光の重要ポイント。
■教理変更部分。
「1935年以後にバプテスマを受けたクリスチャンの中にも、自分は
天への希望を持っている、と霊によって証し(あかし)される人が出てきました。
したがって、
天への希望を抱くようクリスチャンを召すことがいつ終わるかに関して、
明確な時を述べることはできないように思われます」
※今まではこれがハルマゲドンが来て楽園になる「終わりの日」の
重要な判断ポイントだったので、これにより楽園は無期延期になった。
■その後のだらだら説明は今回の教理変更を矮小化するための目くらまし。
(以下の説明はベテラン兄弟姉妹にとって常識でありごく当たり前の話)
だれかが、自分は今や油そそがれていると思い、記念式の時に表象物
にあずかろうと心に決めた場合、わたしたちはその人をどう見るべきでし
ょうか。裁くべきではありません。これは当人とエホバとの間の事柄です。
(ローマ14:12)一方、真の油そそがれたクリスチャンは、特別な配慮を
要求したりしません。(以下略)