「起きているイルカ」のHNは、最初、聖書のルカ福音書の「ルカ」にしようと思ったんですが、なんかしょっているようだし、動物の名前の方がいいかなということで、「イルカ」になり、ただの「イルカ」じゃ芸が無いなーと思いながら、ちょうど朝方まで起きて、掲示板書いていたので、そうだ「昼寝するぶた」にかけて、「起きているイルカ」にしようとなったわけですが、うーん「自分だけが起きている(目覚めている)」みたいにとられたのかなー、そういえばJWに「目覚めよ!」なんてあったような・・・・、って言うことで、ただの「イルカ」に改めます。その方が短いし・・・・。あ、でも「なごり雪の」「イルカ」さんと間違われる・・・こともないでしょうが、ここは「青い(青くなっている・・・いろいろ突っ込まれて)イルカ」にしましょう!
まいけるさんの問いかけ・・・・当人が正しいと信じている宗教が「その人にとっての本物の信仰」ではないか?についてですが、私は、それはある意味正しく、ある意味間違っている可能性があると思います。
ある意味、正しいと言うのは、その人が「真摯な心で信じている」その人の「心持ちは正しい」と言うことだと思います。
ある意味、間違っている可能性があるというのは、その人の信じている信仰の「対象」は正しい(真実、真理、本物)場合と、正しくない(真実・真理・本物でない、偽りである、100%でない:何でも幾らかは真理が含まれているもの:しかし、信仰の対象は100%正しくなければならない、そして、信仰の対象は「全知全能の神」であるはず、そうでなければ、この私の人生の全てをかける事は出来ない)場合があるということです。
これは、対象が真理、真実、本物であるということは、その人がどう思おうが、その心持ちによって変わることではないからです。例:1+1=2、これは私の心持ちに関わり無く、こたえは2であって、決して3にはなりません。
ですから、当人が「正しいと信じている宗教」が「正しいかどうか」はその人の「信仰の態度」の如何ではなく、その「信仰の対象」如何によるということになります。
ポッコリさん・・・・「すばらしい人格者」うんぬんのことを持ち出されると何も言えませんですね、ハイ。
前回は、イエス様と比較していただいて、とても恐縮いたしました。キリスト教ではイエス様=神・エホバでありますから、とてもとても、イエス様と比較してどうのこうのと言って頂けるのは、とんでもないことです。もちろん、イエス様とは比較にもならない者ですので、「人格者」うんぬん出て来た時点で、ハイごめんなさい、というほかないです。でもイエス様を見習おうとしてはいるのですが、なかなか・・・・。
「新世界訳」の通読については、現役さんは「新世界訳」以外の聖書は読まないでしょうから、まあ妥協して「読んで下さい」ということで、それでも救われる人が出るということですね。ポッコリさんは現役さんで無いようですので、ぜひ「口語訳」、または「新改訳聖書」をお読みすることをお勧めします。「(新)共同訳聖書」はあまりお勧めしません(「新世界訳」よりは良いと思いますすが・・・)。「共同訳また新共同訳聖書」は聖書の「続編」として「聖書外典」を付け加えているものがあるからです。聖書には「付け加えて」も「取り除いて」もいけないので(ヨハネ黙示禄22章18-19節)私の教会では禁止です。でも「口語訳」、あるいは「新改訳聖書」が手に入らなければ、まあ読んでも差し支えないでしょう・・・・外典(続編)は聖書じゃないんだと認識して読めば。
かもめさん・・・・「初代教会から続く唯一のキリスト教の教会(協同体)」と言うのは、私が言っているのではなく、オランダ王のチャップレンであったデルモント博士が「オランダ改革派教会の歴史」(1819年)の中で、言っている事です。もちろん私もそう信じていますが、でもこれは、私たちのグル−プの教会に属する者だけが救われる、すなわち天国(パラダイス、千年王国(地上の楽園)、新しい天と地(最終的天国))に行けると言っているのではありません。天国に入る(救われる)条件はただ一つです。すなわち「イエス・キリストを主(神、エホバ、罪からの救い主)と信じること」のみです。ですからどの教会に属していても、あるいは全く教会に行ったことが無くても、イエス様を(主と)信じさえしたら、その人は救われるのです。救いは教会に属しているかどうかに関係ありません。
聖書は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16章31節)と言っているのです。私は例え、JWの中にいる人でも、イエス様を主(神、エホバ、救い主)と信じている人は救われている。必ず、天国(楽園)に行けると信じています。救いは「その人の信仰による」のですから。
それでは、また。
まいけるさんの問いかけ・・・・当人が正しいと信じている宗教が「その人にとっての本物の信仰」ではないか?についてですが、私は、それはある意味正しく、ある意味間違っている可能性があると思います。
ある意味、正しいと言うのは、その人が「真摯な心で信じている」その人の「心持ちは正しい」と言うことだと思います。
ある意味、間違っている可能性があるというのは、その人の信じている信仰の「対象」は正しい(真実、真理、本物)場合と、正しくない(真実・真理・本物でない、偽りである、100%でない:何でも幾らかは真理が含まれているもの:しかし、信仰の対象は100%正しくなければならない、そして、信仰の対象は「全知全能の神」であるはず、そうでなければ、この私の人生の全てをかける事は出来ない)場合があるということです。
これは、対象が真理、真実、本物であるということは、その人がどう思おうが、その心持ちによって変わることではないからです。例:1+1=2、これは私の心持ちに関わり無く、こたえは2であって、決して3にはなりません。
ですから、当人が「正しいと信じている宗教」が「正しいかどうか」はその人の「信仰の態度」の如何ではなく、その「信仰の対象」如何によるということになります。
ポッコリさん・・・・「すばらしい人格者」うんぬんのことを持ち出されると何も言えませんですね、ハイ。
前回は、イエス様と比較していただいて、とても恐縮いたしました。キリスト教ではイエス様=神・エホバでありますから、とてもとても、イエス様と比較してどうのこうのと言って頂けるのは、とんでもないことです。もちろん、イエス様とは比較にもならない者ですので、「人格者」うんぬん出て来た時点で、ハイごめんなさい、というほかないです。でもイエス様を見習おうとしてはいるのですが、なかなか・・・・。
「新世界訳」の通読については、現役さんは「新世界訳」以外の聖書は読まないでしょうから、まあ妥協して「読んで下さい」ということで、それでも救われる人が出るということですね。ポッコリさんは現役さんで無いようですので、ぜひ「口語訳」、または「新改訳聖書」をお読みすることをお勧めします。「(新)共同訳聖書」はあまりお勧めしません(「新世界訳」よりは良いと思いますすが・・・)。「共同訳また新共同訳聖書」は聖書の「続編」として「聖書外典」を付け加えているものがあるからです。聖書には「付け加えて」も「取り除いて」もいけないので(ヨハネ黙示禄22章18-19節)私の教会では禁止です。でも「口語訳」、あるいは「新改訳聖書」が手に入らなければ、まあ読んでも差し支えないでしょう・・・・外典(続編)は聖書じゃないんだと認識して読めば。
かもめさん・・・・「初代教会から続く唯一のキリスト教の教会(協同体)」と言うのは、私が言っているのではなく、オランダ王のチャップレンであったデルモント博士が「オランダ改革派教会の歴史」(1819年)の中で、言っている事です。もちろん私もそう信じていますが、でもこれは、私たちのグル−プの教会に属する者だけが救われる、すなわち天国(パラダイス、千年王国(地上の楽園)、新しい天と地(最終的天国))に行けると言っているのではありません。天国に入る(救われる)条件はただ一つです。すなわち「イエス・キリストを主(神、エホバ、罪からの救い主)と信じること」のみです。ですからどの教会に属していても、あるいは全く教会に行ったことが無くても、イエス様を(主と)信じさえしたら、その人は救われるのです。救いは教会に属しているかどうかに関係ありません。
聖書は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16章31節)と言っているのです。私は例え、JWの中にいる人でも、イエス様を主(神、エホバ、救い主)と信じている人は救われている。必ず、天国(楽園)に行けると信じています。救いは「その人の信仰による」のですから。
それでは、また。