昼寝するぶた 掲示板過去ログ:#10100

昼寝するぶた

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No.10100 レスです! 投稿者:青いイルカ 投稿日:2007/04/23 18:47 その他 ♂       50代前半 宗教が絶対必要な人
まいけるさん
何度も申し上げているのですが、「自分たちの教団に居なければ救いはない」ということは決してありません。

「信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。」ヘブル人への手紙11章4節
アベルは「信仰」によって「義なる者と認められた」・・・もう罪人でなく、義人(正しい人・罪をきよめられた人・神の子)とされた・・・すなわち「救われた」と聖書は言っています。
アベルはアダムの2番目の息子です(4人目の人類)から、A.D.30年頃にイエス・キリストによって設立された「教会」と関係なく、人はその信仰によって、救われるのです。
ではアベルは「どのような信仰によって」、義人と認められたのでしょうか?「信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ・・・」とあります。すなわち、アベルは「羊を犠牲として」奉げました(創世記4章1-4節)。これは、私たち罪人の身代わりとなって死んで下さる(世の罪を取り除く)「神の小羊キリスト」(ヨハネによる福音書1章29節)を表しています。アベルは、主が父アダムに教えた、いつかキリスト(救い主)が来られる(創世記3章15節)という教えを信仰によって受け止め、キリスト(救い主)を表す羊をいけにえとして奉げたのです。その信仰を、神は良しとされました(ヘブル11章4節、創世記4章4節「主はアベルとその供え物とをかえりみられた」)。
アベルを初め、旧約聖書時代の信仰者は「いつか来られる」(神が人となられる)約束の救い主(メシヤ=キリスト)を信じて救われ、新約時代の私たちも「すでに来られた(2000年前に)」、同じキリストを信じて、救われるのです。

ですから、人はその「所属する団体にかかわり無く」、「キリストを信じる信仰」のみによって救われます。

カインは救いにいたる信仰を持たないで、単に神に感謝の捧げ物をしました。すなわち、地の産物を主に奉げたのですが、主はその供え物をかえりみられませんでした(創世記4章5節)。カインのような奉げ物は世界中で行なわれています(日本でも各地で収穫を神に感謝するお祭りが行なわれている)が、神はそのよう捧げ物を受け入れられません(かえりみられません)。「キリストを信じる信仰」がなければ、まことの神に受け入れられるのです。

「彼は死んだが(カインによって殺されたが)、(キリストを証しする羊をささげたという)信仰によって今もなお(あなた達もキリストを信じて救われなさいよと)語っている。」ヘブル11章4節c

つぎに、「教団」と「教会」について、少し誤解があるようなので・・・・聖書は「教団」の存在を教えていません。聖書は「エルサレムにある教会」、「エペソにある教会」、「ピリピにある教会」とそれぞれが独立した「地方教会」を教えています。そして「教会」は大きい教会も小さい教会も対等な関係で、独立した教会同士の交わりと言う意味のグル-プの存在を聖書は教えていますが、各教会の上部組織のような「教団」、あるいは地方教会を支部のようにみなす「全体としての教会(教団)」を教えていません。これはそれぞれの「家庭」が独立して、対等の関係であるのと同じです。一つの家庭を他の家庭が支配することは本来、許されません。

実は、この「教会」と「家庭(家族)」は神様が「直接造られた」、この世で二つしかない「組織」です・・・間接的なものはたくさんあります・・・この世の政府等(ローマ人への手紙13章1-7節)。
アダムとイヴの時、造られた「家族(家庭)」(創世記2章18-25節)とイエス・キリスト(主・エホバ)が造られた「教会」(ヨハネ1章35-37、40-42節、マタイ4章18-22節・・・教会=エクレシア:(権威ある者から)呼び集められた会衆))です。そして、このどちらが優先されるかと言えば、「家族(家庭)」です。

アダムとイヴの時に神が直接、造られた「家族(家庭)」(創世記2章18-25節)をそれから、約4000年後に造られた「教会」であれなんであれ(神でないラッセルが造ったJWならなおのこと)、壊す権利は誰にもありません。
「もしある人が、その親族を、ことに自分の家族をかえりみない場合には、その信仰を捨てたことになるのであって、不信者以上に悪い」(テモテへの第一の手紙5章8節)とあるではありませんか。

「タマルが産んだ双子」に関して・・・・この時、兄を押し退けて(割り込んで)、先に生まれてしまった、弟に「ペレヅ」(割り込む、破る)と言う名がつけられたのは、この事件(出来事)が当時も、めったに無いことであった、ということなのでしょう。

「ユダの不道徳」のことについて・・・・ユダの行為が「不道徳」であった、ということは本人達もその自覚があったようです(創世記38章23節)。確かにユダは不道徳な行為をしたと思いますが、聖書はありのままの「事実を記した書物」ですから、都合が悪いからと言って、事実を隠ぺいしたりしません。理想的な王とされたダビデ王も家来の妻を横取りしてしまった(姦淫の罪とその夫をわざと戦死するようにさせた殺人の罪)ことを、聖書はありのままに記しています。しかし、ダビデはその罪を、主から預言者ナタンを通して責められた時に、真の悔い改めをなし、罪を赦してくださる(罪の裁きとして苦しみも受けましたが)主を信仰によって、見上げて行きました(サムエル記下12章1-14節)。その信仰を聖書は尊いものとして、教えているのです。

ユダの場合も、ユダは最初、嫁のタマルの姦淫を家長としてさばくようにしました(火あぶりにしようとした:今でも部族社会では家長が裁判官の役割を果たしている)が、その相手が自分であり、その原因も自分が造ったことを理解した時に、自分の罪を隠さず、その時点で、できる最善の道を取る(正しいことをする)努力をしたのです(創世記38章24-26節)。ユダはタマルの命を助け、何の罪も無い子供が出産できるようにしました。もし自分の罪を隠そうとするなら、有無を言わさず、タマルを殺せばよかったでしょうが、彼は「彼女は私よりも正しい。(このことが起きたのは)私が彼女を我が子に与えなかったためである。」と言って、双子の赤ちゃんは自分の子として育てたが、タマルとはその後は、男女の関係を続けなかったのです(「再び彼女を知らなかった」)。

私たちは自分の弱さから(罪の性質があるので)、時には罪を犯すことがありますが(思いにおいても)、大事な事は罪が示された時に、その罪を悔い改めて、その時点で、正しい道を歩み出す事ができるかどうかということです。
私たちの全ての罪を負って死んで下さった、主キリスト(神)の赦しを信じて、主(神)に喜ばれる道を歩む者となりたいですね。

ユダの偉いところはその点だったと思います。ユダと兄弟らがヨセフの前で、言い逃れできない状況に追い込まれた時に、本当は誰もヨセフのものを盗んではなかったにもかかわらず、この事態を招いたのが、ヨセフを無慈悲にエジプトに売り飛ばしたことによるのであり、神が自分達の罪を見逃されなかったと言うことを悟って、悔い改めを表明したことにも現れています(「神がしもべらの罪をあばかれました」創世記44章16節、42章21節)。
それで、父の床を汚した長男のルベンがその長子の立場を失った後に、兄弟達の指導的立場を得るようになり、イスラエルの12部族の中においても、ユダ部族が指導的部族となり、やがてダビデ王を初め歴代の王を出す部族、救い主イエス様を出す部族となったのも、うなずけます。

それでは、また。

ポッコリさん、「キリスト教の戦争責任」については、長くなりそうなので、またにしたいですが、もう少し具体的に指摘して下さるとコメントしやすいです。おそらく「十字軍」あるいは、いくつかの「宗教戦争」みたいなことかなと思いますけど・・・。
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