はじめまして、青いイルカさん。
お話を読んで、私はイルカさんとはちょっと違う風に感慨を持ちました。つまり、個人的な思想や信仰をコントロールしようとする国家権力の野心に屈せず、自分の望む思想や信仰をしっかり守って生きたこと、それがそのお医者さまの人生を豊かにしたんだなあ、ということです。
処罰や脅迫によって人間を思うままに操作しようとしても、そんなことは長続きはしないんですよね。エホバの証人時代を振り返っても、それは真実だと私は思います。自分が望むこと、自分の意思、自分の感受性に正直であることって、とても大切だと思います。他人の望むことのために生きる人生なんて、生きた心地がするはずがないですよね。
他の人の感受性や意思を尊重することはもちろん大切なことです。それができない人は友だちができない人です。友達のいない人生なんて貧しいと思います。でも一方で、自分の意向や意志を全く放棄して、とくに処罰や脅迫に屈してしまって、ただ他人の人生の道具として生きるということは実は死んでいるのと同じだと思います。
そのお医者さまも、ご自分の信仰を貫くことによって、ご自分の人生を「生きた」のだと思います。「心も体もともに滅ぼす神を怖れた」からでしょうね。もし、身の安全を第一にして、信仰を放棄したなら、そのお医者さまは身体は生きることができますが、人間としては死んだも同然だったと思います。実際に死ぬこと以上に苦しむことでしょう。自分の望む信仰、自分がしたい生きかたができないことは、人間にこれ以上ない屈辱を与えるからです。
だから私は、エホバの証人をやめたことはまったく後悔していません。人間関係では失敗したり、傷ついたり、傷つけたり、ほんとにたくさんリスクを負ってきましたし、これからも負うことになります。それでも過ぎてしまえばね、さほど悲しく思わないんです。むしろリスクを怖れて何ほども波風の立たない「安全」を護ってエホバの証人に留まっていたなら、きっと生涯の終わりには後悔に責めさいなまれることになるだろうと思います。「あの時、ああしておけばもっと違う人生になったのに」、そんな空虚感を告白して死に臨むような、そんな人生だけは最低だと思います。
そういうわけで私は、そのお医者さまの逆バージョンで、自分の望む生きかたを選択しようと思います。つまり、「もし、あなたの人生で、主イエス・キリストに対する信仰の道を選択しない事は、死後、取り返しのつかない永遠の後悔をあなたに与える事になるだろう。それでもキリストに背を向けるか」と脅迫されても、私は「はい。私は自分の望まない生きかたや信条を押しつけられて生きることはしません。そうすることは、身体は生きても、人間としては死ぬことになります。屈辱のうちに生きる苦しみは、私にとっては地獄の苦しみ以上のものとなるでしょう」ときっぱり言えるようであり続けたいです。そう言えること、自分をしてそう言わせる特質が「勇気」だと思います。
イルカさんのお話しを読んで、「生きること」について朝からちょっと真面目に考えさせていただきました。ありがとうございました。
お話を読んで、私はイルカさんとはちょっと違う風に感慨を持ちました。つまり、個人的な思想や信仰をコントロールしようとする国家権力の野心に屈せず、自分の望む思想や信仰をしっかり守って生きたこと、それがそのお医者さまの人生を豊かにしたんだなあ、ということです。
処罰や脅迫によって人間を思うままに操作しようとしても、そんなことは長続きはしないんですよね。エホバの証人時代を振り返っても、それは真実だと私は思います。自分が望むこと、自分の意思、自分の感受性に正直であることって、とても大切だと思います。他人の望むことのために生きる人生なんて、生きた心地がするはずがないですよね。
他の人の感受性や意思を尊重することはもちろん大切なことです。それができない人は友だちができない人です。友達のいない人生なんて貧しいと思います。でも一方で、自分の意向や意志を全く放棄して、とくに処罰や脅迫に屈してしまって、ただ他人の人生の道具として生きるということは実は死んでいるのと同じだと思います。
そのお医者さまも、ご自分の信仰を貫くことによって、ご自分の人生を「生きた」のだと思います。「心も体もともに滅ぼす神を怖れた」からでしょうね。もし、身の安全を第一にして、信仰を放棄したなら、そのお医者さまは身体は生きることができますが、人間としては死んだも同然だったと思います。実際に死ぬこと以上に苦しむことでしょう。自分の望む信仰、自分がしたい生きかたができないことは、人間にこれ以上ない屈辱を与えるからです。
だから私は、エホバの証人をやめたことはまったく後悔していません。人間関係では失敗したり、傷ついたり、傷つけたり、ほんとにたくさんリスクを負ってきましたし、これからも負うことになります。それでも過ぎてしまえばね、さほど悲しく思わないんです。むしろリスクを怖れて何ほども波風の立たない「安全」を護ってエホバの証人に留まっていたなら、きっと生涯の終わりには後悔に責めさいなまれることになるだろうと思います。「あの時、ああしておけばもっと違う人生になったのに」、そんな空虚感を告白して死に臨むような、そんな人生だけは最低だと思います。
そういうわけで私は、そのお医者さまの逆バージョンで、自分の望む生きかたを選択しようと思います。つまり、「もし、あなたの人生で、主イエス・キリストに対する信仰の道を選択しない事は、死後、取り返しのつかない永遠の後悔をあなたに与える事になるだろう。それでもキリストに背を向けるか」と脅迫されても、私は「はい。私は自分の望まない生きかたや信条を押しつけられて生きることはしません。そうすることは、身体は生きても、人間としては死ぬことになります。屈辱のうちに生きる苦しみは、私にとっては地獄の苦しみ以上のものとなるでしょう」ときっぱり言えるようであり続けたいです。そう言えること、自分をしてそう言わせる特質が「勇気」だと思います。
イルカさんのお話しを読んで、「生きること」について朝からちょっと真面目に考えさせていただきました。ありがとうございました。