昼寝するぶた 掲示板過去ログ:#10180

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No.10180 Re2:決して後悔しない人生の選択 投稿者:ゆーじ 投稿日:2007/05/27 07:56 元2世兄弟 排斥でーす 昔壊れてたけど今元気 40代後半 宗教が無くても平気な人
俺はJW側の擁護をする気はさらさらないんだけどさ、
空気を読めないキリスト教の牧師である青いイルカさんは、
自分の信仰心を神に対して表明するために、
元JW達の心に塩をすり込むことで自分の良心を満足させたいみたいだから
ソース付きでいちいち教えてやらなきゃならない。

青いイルカさんは「キリスト教徒はこんなに偉い、それに対してJW信者はクソだ」
って言いたいみたいだから、「どっちもどっちだろ」って意味で
 Watchtower Library 2006 - Japanese Edition CD-ROM から引用します

現役だった人はみんな知ってる例のあれです。
青いイルカさんのために全文引用しますんで、
今更興味の無い人は華麗に読み飛ばしてね。

キリスト教牧師の青いイルカさんは読み飛ばさずにちゃんと精読するように。

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*** ものみの塔91 8/1 25–29ページ エホバの食卓に着くのは何と喜ばしいことなのでしょう! ***


エルンスト・バウワーの語った経験

現在では,エホバの証人の集会に出席したり,王国の良いたよりを宣べ伝えたりするのは比較的容易です。しかし,ここドイツではいつもそうだったわけではありません。独裁者のアドルフ・ヒトラーが支配していた1933年から1945年までは,そうしたクリスチャンの活動に参加すれば自分の命を危険にさらすことになりました。

ヒトラーが政権を握る1年前に,私はドレスデンで初めてエホバの証人に会いました。その時私は30歳でした。そして1935年1月にエホバに献身し,バプテスマを受けたいという願いを表明しました。私たちの活動は1933年にすでに禁止されていたため,私はこのような質問を受けました。「あなたは自分の決定が何を意味するのか本当に理解していますか。自分の家族,健康,仕事,自由,さらには命さえも危険にさらすことになるのです」。

「費用は計算しました。神のご意志を進んで行ない,そのためには死をもいといません」と答えました。

バプテスマを受ける前に,私はすでに家から家に宣べ伝える業を始めていました。ある家の戸口で,制服を着たSS(ヒトラーの黒シャツ隊/親衛隊)の若いリーダーに会いました。彼は,「これが禁止されているのを知らないのか。警察に電話するぞ!」とどなりました。

「どうぞ。私はただ聖書について話しているだけです。そのことを禁じた法律はありませんから」と,私は落ち着いて答えました。そのあとすぐに隣の家に行くと,出てきた人は親しみやすい紳士で,早速私を家の中に招き入れてくれ,私は事なきを得ました。

その後間もなく,毎週集まっていた5人ないし7人の証人からなる聖書研究の群れの世話を任されました。私たちは近隣の国々からひそかにドイツに持ち込まれた「ものみの塔」誌を研究しました。こうして,禁令下にもかかわらず,私たちは霊的に強められるよう定期的に「エホバの食卓」に着きました。―コリント第一 10:21。

試練を経験する

1936年に,ものみの塔協会の会長,J・F・ラザフォードは,スイスのルツェルンで開かれた大会を訪れ,ドイツにおける神権的な活動を監督する立場にいた兄弟たちをその大会に招きました。多くの兄弟たちはパスポートを没収されていましたし,大多数の兄弟は警察に注意深く監視されていたので,少数の兄弟しか出席できませんでした。私は,ドレスデンで業を監督していた兄弟から,ルツェルンでその兄弟の代理を務めるように頼まれました。

「でも,私は若過ぎて経験が足りないのではないでしょうか」と尋ねました。

彼は私を安心させるように,「今大切なのは忠実であることです。それが最も重要なことです」と言いました。

ルツェルンから戻ると間もなく,私は逮捕され,突然,妻のイーファと二人の小さな子供たちから引き離されました。ドレスデンの警察本部に連行されて行く途中,私は一生懸命に導きとなる聖句を思い出そうとしました。そして思いに浮かんだのが箴言 3章5節と6節でした。「心をつくしてエホバに依り頼め。自分の理解に頼ってはならない。あなたのすべての道において神を認めよ。そうすれば,神ご自身があなたの道筋をまっすぐにしてくださる」。この聖句を思い出したために私は強められ,最初の尋問に対する備えができました。その後私は窮屈な独房に閉じ込められ,少しのあいだ捨て去られたような絶望的な気持ちになりました。しかしエホバに熱烈に祈ったところ,平和な気持ちで満たされるようになりました。

裁判では2年3か月の禁固刑を宣告され,バウツェンの刑務所で1年間独房に監禁されました。ある時,退職した裁判所の役人が―その人はだれか別の人の代理だったのですが―私の独房のドアを開け,同情してこう言いました。「何も読んではいけないのは分かっているんだが,気晴らしのために何か必要だろうと思ってね」。そう言いながら彼は,私に古い家族向けの雑誌を数冊そっと渡し,「夜になったら取りに来るから」と告げました。

実際には私は「気晴らし」になるものなど何もいりませんでした。独房に監禁されている間,私は聖句を思い起こし,講話を作り,それを大きな声で話していたのです。でも聖句がどこかに載っていないだろうかと思って雑誌にざっと目を通しました。そして幾つか見つけました! そのうちの一つはフィリピ 1章6節でした。この聖句は一部こうなっています。『あなた方の中で良い業を始めた方が,それを続けて完成してくださるであろうということをわたしは確信しています』。私はこの励ましが与えられたことをエホバに感謝しました。

後で私は強制労働収容所に移されました。そして刑期が終わることになっていた1939年の春,収容所の所長は私に考えが変わったかどうか尋ねました。「自分の信仰に忠実であり続けるつもりです」と私は答えました。するとその所長は,お前はザクセンハウゼン強制収容所に移されるだろうと言いました。

その強制収容所では自分の衣服を取り上げられ,シャワーを浴びさせられ,体毛をすべて剃られ,囚人服を支給されました。次にもう一度シャワーを浴びさせられましたが,今回は服を全部着たままでした。これはSSが“バプテスマ”と呼んでいた過程で,それから私はずぶぬれのまま晩まで外に立たされました。

収容所ではエホバの証人はSSから特に残忍な扱いを受けました。いろいろな時に,私たちは何時間も際限なく閲兵場に立っていなければなりませんでした。時々仲間の一人が,「おいしい食事ができたらいいだろうなあ」とため息まじりに言うこともありました。すると別の人が「そんなことを考えてはだめだ。エホバのお名前とその王国を擁護することがどれほど名誉なことか,それだけ考えなさい」と言います。さらにもう一人が,「エホバは私たちを強めてくださる」と言い添えます。このような方法で私たちは互いに励まし合っていました。時にはただ親しげにうなずくだけで,「私は忠実でありたいと思います。あなたもそうですね」という気持ちを十分に伝えることができました。

収容所内での霊的食物

ある人々は率先して兄弟たちに霊的食物を供給しました。私はその人々を援助するよう選ばれました。私たちが持っていたものと言えば,分厚いルター訳聖書1冊だけでした。もちろん,それを所有することは禁じられていたので,この宝物は隠してありました。それぞれの監房ブロックで指名された兄弟が一人だけ短い時間その聖書を見ることができました。私は自分の番になったとき,懐中電灯を持ってベッドの下に潜り込み,15分ほどそれを読みました。聖句を暗記しておいたので,後でブロックの兄弟たちと話し合うことができました。このように霊的な食物の分配はある程度組織されていました。

すべての兄弟たちは,祈りの中でさらに多くの霊的食物をエホバに願い求めるよう励まされました。エホバは私たちの祈願を聞き届けてくださいました。1939年から1940年にかけての冬に,新たに投獄されたある兄弟は,「ものみの塔」誌の新しい号を数冊,自分の木製の義足の中に入れて収容所内に持ち込むことに成功しました。これは奇跡のように思えました。なぜならすべての囚人は体を厳重にチェックされたからです。

これらの雑誌は安全のことを考えて,1回につき1日,選ばれた兄弟だけが利用できました。ガレージを建設していた時など,私はトレンチにしゃがんで雑誌を読むことができました。その間,別の兄弟が外で見張りをしてくれました。(バラックの中で座って手袋や他のものを修理する晩の)“裁縫の時間”にも,私は「ものみの塔」誌をひざの上にひろげ,両側に二人の兄弟が見張りとして座りました。SSの番兵が来ると,私はすぐに「ものみの塔」誌を隠しました。捕まったら命を失うことになりかねなかったのです。

エホバは,私たちが記事の中の元気づけられる考えを記憶するよう,すばらしい方法で援助してくださいました。普通だと完全に疲れ切って,夜になるとぐっすり眠ってしまうのですが,「ものみの塔」誌を読んだ晩には何度も目が覚めて,その考えをはっきりと思い起こすことができました。他のブロックの指名された兄弟たちも同様の経験をしました。このようにしてエホバは,私たちが霊的食物を分配できるように,私たちの記憶を鋭くしてくださいました。私たちは兄弟たち一人一人に近づき,その人を強めることによってその霊的食物を分配しました。

死に至るまでも忠実

1939年9月15日,私たちの作業班はいつもより早く収容所に戻らなければなりませんでした。何があったのでしょうか。アウグスト・ディックマンという一人の若い兄弟が公開処刑されることになっていたのです。ナチはこれによって大勢のエホバの証人に信仰を捨てさせることができると確信していました。処刑の後,他のすべての囚人は解散させられました。しかし,私たちエホバの証人は閲兵場で追い回され,動けなくなるまで蹴られたり,棒でたたかれたりしました。そして自分の信仰を捨てる宣言書に署名するよう命令されました。そうしなければ私たちも射殺されることになっていました。

次の日までに署名した者はだれもいませんでした。それどころか,到着した時に署名していた一人の新しい囚人まで,自分の署名を撤回してしまいました。彼は裏切り者として収容所を出るよりは兄弟たちと一緒に死ぬほうを選んだのです。その後の数か月というものは,重労働につかされ,絶えず虐待され,食物もろくに与えられませんでした。1939年から1940年にかけての冬は寒さが厳しく,その間に100人以上の兄弟たちが命を失いました。彼らはまさに終わりまでエホバとその王国に対して忠誠を保ちました。

そうこうしているうちに,エホバは少しほっとする時を与えてくださいました。多くの兄弟たちは新たに設けられた収容所で働くために移動させられ,そこでは前のところよりも多くの食物が与えられました。そのうえ,脅しも幾分弱まりました。1940年の春,私はノイエンガム強制収容所に移されました。

ノイエンガムにおける霊的食糧

私が到着した時,そこには20名ぐらいのエホバの証人のグループがありましたが,聖書や他の出版物は何も持っていませんでした。私はエホバに祈り,ノイエンガムの兄弟たちを強めるために自分がザクセンハウゼンで学んだ事柄を活用できるよう助けを求めました。最初の段階として私は聖句を思い起こし,それらを日々の聖句として選びました。それから集会を開く準備を整え,それらの集会で私がザクセンハウゼンで読んだ「ものみの塔」誌の記事の考えを説明することができました。新しい兄弟たちが到着すると,彼らは最近の「ものみの塔」誌から学んだ事柄を報告しました。

1943年までにノイエンガムのエホバの証人の数は70名にまで増加しました。証人たちは,空襲の後片付けのような,収容所外の仕事を割り当てられるようになりました。その結果,聖書や「ものみの塔」誌や協会の他の本やブロシュアーをひそかに収容所内に持ち込むことができました。私たちはまた,郵便によってその他の書籍や記念式のための赤ぶどう酒とパン種の入っていないパンの入った小包を手にすることもできました。エホバはそれらの小包を検閲する人の目をくらまされたようです。

私たちは違うバラックに分散させられていたので,七つの「ものみの塔」研究のグループを作り,それぞれのグループに司会者と補佐を置きました。「ものみの塔」誌のコピーは,私が一時的に働いていた司令官の事務所でひそかに作成されました。それで,各研究グループは,毎週の研究のために少なくともそれぞれ1冊の完全な雑誌を受け取ることができました。集会が取りやめになったことは一度もありませんでした。それに加えてグループは,毎朝閲兵場で日々の聖句と「ものみの塔」誌の注解の写しを手に入れました。

あるとき,SSが休みをとったので,私たちは半日の大会を開くことができ,どうやって収容所内で宣べ伝えることができるか話し合いました。私たちは収容所内を区域に分け,『王国の良いたより』を携えて組織的に囚人たちに伝えるよう努力しました。(マタイ 24:14)囚人はいろいろな国から来ていたので,私たちの業と王国のことを説明した多言語の証言カードを作りました。私たちがたいへん熱心に宣べ伝えたので,政治犯たちは「どこへ行っても耳にするのはエホバの話だけだ」と不平を言いました。私たちの活動の野外奉仕報告はスイスのベルンにある支部事務所に届けられました。

ゲシュタポが1944年にすべての収容所を調査するまでは,万事うまく行っていました。ノイエンガムにある私たちの文書保管場所は発見されませんでしたが,カール・シュワルツェルと私に関して幾らかのことが知られました。三日間にわたって私たちは尋問され,殴打されました。試練が終わった後,私たちは二人とも全身傷だらけでした。しかし,エホバの助けにより,生き延びることができました。

豊かにあふれる霊的祝福

私は1945年5月に連合国の軍隊によって解放されました。自由の身になった翌日,私は兄弟たちや関心を持つ人々の小さなグループと共に行進を始めました。歩き疲れた私たちは最初に着いた村の井戸のそばに座って水を飲みました。気分がさわやかになると,私は聖書を小脇に抱えて家から家に伝道しました。一人の若い婦人は,エホバの証人が信仰のゆえに強制収容所にいたことを知って大変感動しました。彼女は台所に姿を消すと,私たちのグループのために新鮮なミルクとサンドイッチを持って戻ってきました。

その後,私たちはまだ囚人服を着ていましたが,村全体に王国の音信を宣べ伝えました。ある村人は,私たちを中に招じ入れ,食卓にたくさんの食物を並べてくれました。私たちが何年もの間食べられなかったものをご馳走してくれました。それは大変おいしそうでした。でも,私たちはがつがつと食べたのではありません。まず祈りをささげ,それから静かに,行儀良く食事をしました。それで見ていた人はたいそう感銘を受け,後に私たちが集会を開くようになったとき,聖書の話を聞きに来ました。一人の婦人は音信を受け入れ,今では私たちの姉妹となっています。

私たちは歩き続けました。そしてエホバの世話を驚くべき方法で経験しました。今や自由の身になって,エホバの組織が出版するすべての霊的食物を引き続き楽しみ,またそれを他の人々と分かち合うことができるのはたいへんすばらしいことです。それ以後も,エホバに対する私たちの絶対的な信頼は,何度も何度も報われました。

1945年から1950年まで,私はマグデブルグのベテルで奉仕する特権にあずかり,それから1955年まで,ベルリンにあるものみの塔協会の事務所で奉仕しました。その後,1963年まで旅行する監督として奉仕しましたが,その年に妻のヒルダは子供ができたことを知らせました。(最初の妻イーファは,私の拘留期間中に亡くなり,私は1958年に再婚しました。)私たちの娘も,後に熱心なエホバの証人になりました。

私の最初の妻との間の子供たちはどうなったのでしょうか。不幸にも,私の息子は真理に全く関心を示しませんでした。しかし娘のギセラは関心を示し,1953年にギレアデ宣教学校に出席しました。現在彼女は夫と共にドイツのある大会ホールで奉仕しています。エホバの助けにより,私は1963年からずっと援助の必要なところで開拓奉仕を続けることができ,最初はフランクフルトで,次にはチュービンゲンで奉仕してきました。

今日に至るまで,私はエホバの組織がその信仰の家の者に与える備えに余すところなくあずかってきました。(テモテ第一 3:15)今日わたしたちは容易に霊的食物を手に入れることができますが,わたしたちはそれをいつも感謝しているでしょうか。私は,エホバがご自分に依り頼み,忠実を保ち,その食卓にあずかり続ける人すべてに豊かな祝福を蓄えておられることを確信しています。

[26,27ページの図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
ザクセンハウゼン強制収容所
A. SSのバラック
B. 点呼の行なわれる中庭
C. 独房の建物
D. 隔離施設
E. シラミの駆除施設
F. 処刑場
G. ガス室
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てことで青いイルカさん。
聖書の神に対する信仰心のためにシべリアの強制収容所で殺された
ユダヤ人ボリス・スコンべルトと、聖書の神に対する信仰心のために
ナチの強制収容所で殺されたJW信者アウグスト・ディックマンの命の重さ
に違いはあると思うかね?
その心の底の動機の部分の純粋さについてはどっちもどっちだろ。
偉いのは自分たちの側だけじゃないんだよ。
自分の視野の浅い視点だけでステレオタイプ的にJWを見ないでくれよな。


>ALL
俺がJWの擁護的発言をすることになるとは思わなかったぜ。
キリスト教の牧師ってのは生臭過ぎて本当にろくなもんじゃない。
元JW信者を転教させてキリスト教徒にしたいってそこまでこだわるのは
元JW信者が自分たちにとってよっぽどおいしい餌にしか見えないんだろうな。
日本人の人口比率でJWを含むキリスト教徒の割合はわずか1%。
他に99%の選択肢があるのに、たった1%の中の小さいパイの奪い合いかよ。
あーあほらしい。
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