JW watcherさん、こんばんは。はじめまして。
イルカさんとのやりとり、楽しく拝読させていただきました。最後に面倒に思われたようですが、そこだけがちょっと残念でした。つまり、ああいう手合いには、ただひとつの反証を手短に、でも根気よくあげていくだけで、向こうが勝手に崩れてゆくものなのになあと。「論」を書こうとするとしんどくなりますからね。
それは別として、ちょっと「ハラスメント」ということについて、わたしが個人的に思うことを聞いたいただけるでしょうか。
> この女性もかわいそうですね。仕返しするなら、もっと合法的で効果のある道があっただろうに。
「単なる虐げが賢い者に気違いじみた行動を取らせることがある(伝道の書7:7)」っていう聖書のことばがあるんですね。
人間って、それまではふつうに暮らしていたのに、ある時突然に凶悪犯罪を犯したりするもんじゃないと、わたしは自分の人生経験だけで見ても、そう思うんです。
衝動的であれ計画的であれ、人が自分の人生を棒に振るような暴挙に出るとすれば、それまで積もり積もったものがあったんだと思うんです。こういう観点に立つと、人さまを殺めかねない犯罪に手を出すことも、自分の命を自分で始末してしまうことも、根は同じだと思っています。これは、いじめ自殺のことを指して言っています。
暴挙に出た人を責めるのは簡単です。厳罰を以って報いることも簡単です。でもそれでは問題はちっとも解決に向かってゆかないと思います。これは少年刑罰の「厳罰化」への批判のつもりです。(もちろん、エホバの証人の体質についてはなおのことです)
わたしはむしろ、肝心の「単なる虐げ」そのものを「仕方のないこと」、「当然のこと」、「そんなの常識」、「そんなこと言ってたら何にも話せなくなる」という認識から、「ハラスメントは深刻な人権侵害だ」という認識に変えてゆく議論こそ、またはそういう教育なり啓蒙が必要じゃないかと思うんですね。それも緊急に。
さもないと刑罰だけ重くなったり、非難だけ厳しくなったのに、人に「気違いじみた行動を取らせる」原因そのものが放置放任されたままだと、「単なる虐げ」を戦略として使って人を陥れることが可能になるんじゃないか、という危惧を持ちます。
「見よ、虐げられている者たちの涙がある。しかし、彼らには慰めてくれる者がいなかった。彼らを虐げる者たちの側には力があった。それで彼らには慰めてくれる者がいなかったのである(伝道の書4:1)」。
「良心の危機」や「(北海道広島会衆)事件簿」なんかを読むとね、審理委員会の会合って、かなり意図的に屈辱を加えるような、たちの悪い警察の取調べのようなものであるようです。それは単なる想像ではなく、かなり信憑性の高い情報だと、わたしは自分のエホバの証人経験から、そう評価します。
だから、わたしはこの掲示板を訪問される「一般人」の方々には、学校や会社での陰湿きわまるいじめの問題と同列にして、こういう問題を考えていただければなあ、と希望しているんです。
こういう「いじめ」、または「人に気違いじみた行動を取らせる、単なる虐げ」を取り扱うのに便利な概念が現代にはあります。「ハラスメント」、とくに「モラル・ハラスメント」という概念です。もし、余裕がおありでしたら『知らずに他人を傷つける人たち』っていう新書をお読みになるようお勧めします。こういう「ハラスメント」はこれまで日本では「当たり前のこと」と受け止められてきています。ここに、いじめの問題が解決に向かわない第一の原因がある、と個人的に考えています。
突然名指しで長文、失礼致しました。
イルカさんとのやりとり、楽しく拝読させていただきました。最後に面倒に思われたようですが、そこだけがちょっと残念でした。つまり、ああいう手合いには、ただひとつの反証を手短に、でも根気よくあげていくだけで、向こうが勝手に崩れてゆくものなのになあと。「論」を書こうとするとしんどくなりますからね。
それは別として、ちょっと「ハラスメント」ということについて、わたしが個人的に思うことを聞いたいただけるでしょうか。
> この女性もかわいそうですね。仕返しするなら、もっと合法的で効果のある道があっただろうに。
「単なる虐げが賢い者に気違いじみた行動を取らせることがある(伝道の書7:7)」っていう聖書のことばがあるんですね。
人間って、それまではふつうに暮らしていたのに、ある時突然に凶悪犯罪を犯したりするもんじゃないと、わたしは自分の人生経験だけで見ても、そう思うんです。
衝動的であれ計画的であれ、人が自分の人生を棒に振るような暴挙に出るとすれば、それまで積もり積もったものがあったんだと思うんです。こういう観点に立つと、人さまを殺めかねない犯罪に手を出すことも、自分の命を自分で始末してしまうことも、根は同じだと思っています。これは、いじめ自殺のことを指して言っています。
暴挙に出た人を責めるのは簡単です。厳罰を以って報いることも簡単です。でもそれでは問題はちっとも解決に向かってゆかないと思います。これは少年刑罰の「厳罰化」への批判のつもりです。(もちろん、エホバの証人の体質についてはなおのことです)
わたしはむしろ、肝心の「単なる虐げ」そのものを「仕方のないこと」、「当然のこと」、「そんなの常識」、「そんなこと言ってたら何にも話せなくなる」という認識から、「ハラスメントは深刻な人権侵害だ」という認識に変えてゆく議論こそ、またはそういう教育なり啓蒙が必要じゃないかと思うんですね。それも緊急に。
さもないと刑罰だけ重くなったり、非難だけ厳しくなったのに、人に「気違いじみた行動を取らせる」原因そのものが放置放任されたままだと、「単なる虐げ」を戦略として使って人を陥れることが可能になるんじゃないか、という危惧を持ちます。
「見よ、虐げられている者たちの涙がある。しかし、彼らには慰めてくれる者がいなかった。彼らを虐げる者たちの側には力があった。それで彼らには慰めてくれる者がいなかったのである(伝道の書4:1)」。
「良心の危機」や「(北海道広島会衆)事件簿」なんかを読むとね、審理委員会の会合って、かなり意図的に屈辱を加えるような、たちの悪い警察の取調べのようなものであるようです。それは単なる想像ではなく、かなり信憑性の高い情報だと、わたしは自分のエホバの証人経験から、そう評価します。
だから、わたしはこの掲示板を訪問される「一般人」の方々には、学校や会社での陰湿きわまるいじめの問題と同列にして、こういう問題を考えていただければなあ、と希望しているんです。
こういう「いじめ」、または「人に気違いじみた行動を取らせる、単なる虐げ」を取り扱うのに便利な概念が現代にはあります。「ハラスメント」、とくに「モラル・ハラスメント」という概念です。もし、余裕がおありでしたら『知らずに他人を傷つける人たち』っていう新書をお読みになるようお勧めします。こういう「ハラスメント」はこれまで日本では「当たり前のこと」と受け止められてきています。ここに、いじめの問題が解決に向かわない第一の原因がある、と個人的に考えています。
突然名指しで長文、失礼致しました。