>でも一ついえることは,自分とエホバとの関係がどのようなものかが物を言うでしょうね。
>木は,人を本当に助ける気のない長老を含む組織の中にいる人間で,林はJWの組織,そして森はエホバ神の宇宙的な組織です。1本あるいは何本かの腐った木を見て,この林はダメだ,森全体がダメだと結論してしまうとしたら残念なことだと思います。
はじめまして。私もガラス張りの第二会場で、ブラインド下ろさずに長老たちにいわれのない「助言」受けたことがあります。私に対するやっかみが原因でそのような仕打ちを頻繁に受けてきました。そのため、なかなか奉仕のしもべに推薦されませんでした。それが原因でかつてある姉妹との恋愛が壊れてしまったこともあります。これはいまだに私の心にケロイドとして残っています。JWという宗教への憎悪という形でです。
推薦がようやく来たときには私の組織への気持ちはすっかり醒めていました。いまさら嬉しがって演壇での話など行うことに白けた気持ちでしたが、今の妻との恋愛がありまして、彼女の手前先月までJW続けてきた次第です。ただ私の関心は家庭だけで、JWは憎悪してきました。だから、わいはーさんのように組織擁護論をぶち上げられ、それへの賛成論などが次から次へと寄せられるようになると黙ってはいられません。
私は今では聖書を絶対的なものとは見ていないので、依って立つ場所が違います。だから言い合うつもりはありません。無意味なことだから。
わいはーさんのような意見を仰る方はたまに見かけるのですが、そのたびに思うことは、エホバとの関係を保つのに、どうしてJW組織にいなければならないのかということです。古代イスラエルは非聖書的な社会でしたがエホバはイスラエルの神として擁護したとあります。しかし結局敵の手に渡されたのです。流刑の世代はみんな異郷で死にました。エホバの名を語ってその実特権階級の支配を行ってきた「組織」は棄てられたのです。
JW組織が「当時からのエホバの目的」の延長線上にある組織だと仮に考えても、状況は同じようなものでしょう。わいはーさんもそれは認めておられます。そうであればやはり今の組織もやはりエホバは棄て去るしかないのではありませんか。「エホバへの真の崇拝が清められる」というヤツが行われるのはいつも内部改革ではなく、腐ったものを棄てて、新しく創設することによってでした。
木を見て森を見ず、だから背教的な長老や巡回監督、ベテルえらいさんたちを見るのではなく、エホバの宇宙的組織が行動を起こすのを待てと穏健派の現役は言います。だがJW組織は「エホバの宇宙的組織」の一部として発足したのでしょうか。イスラエル国家はそのようにして始まったと聖書にはあります。JWはどうですか。JWのはじめは世の終わり教団として始まったのです。2520年の教理、肉眼で見えないキリストの臨在の教理などはほとんどセブンスデー・アドベンティスト派のものです。しかもラッセルは当初はなにやらややこしい図表などを使って、今日のJWが見るとオカルト的と見なすような怪しげなものだったようです。イエスは予言的な終末の時期を主張する人々について行ってはならないと言っています。JWはエホバの宇宙的組織の地上の部分として始まったのでしょうか。あのようなラッセル派のどこをエホバは評価したのでしょうか。現在のJW組織になったのはラザフォード時代です。このときにエホバの組織としてエホバに評価されたのでしょうか。むしろ神がかり的な要素が消えて、きわめて人間的な宗教団体としてその姿を表したように私には思えるのです。JW組織は絶対にエホバを代表する神聖な組織などではないのです。エホバを崇拝でありたいのなら組織崇拝から離れて、エルサレムを陥落させるバビロンへ非難するようにと聖書に書かれています。再建された折にはバビロンから出て、汚れたものから離れるようにと言われました。いじめられて苦しんだ人に、木を見て森から目を離すようなことをするな、戻って来いなどというのは残酷なことです。
「楽しい事なら何でもやりたい。笑える場所ならどこへでも行く。悲しい人とは会いたくもない。涙の言葉でぬれたくはない」、陽水のきわめてアイロニックな有名な歌の歌詞です。JW内でいじめられる人は「悲しい人」です。だれも会って何か力になろうとはしません。うまくやってる人だけがJW社会で受け入れられます。JW社会内で楽しく笑うには、開拓者になり、苦労して成果を得、必要の大きな土地で奉仕して、大会などでステージから経験や話をする「特権」を得るようにすることです。一度レッテルを貼られるともう、JW社会では場所を失うのです。北海道広島会衆事件かレイモンド・フランズ事件の後、ベテルでは組織から離れた人がみな滅ぼされるわけではないというような話がよく言われたという書き込みか投稿を見たことがあります。JWICの投稿だったかな、だとしたら今でも確かめることができます。そうであるなら、いじめられて苦しむために王国会館へ無理してもどる必要はないのです。私もいじめられて苦しんだから、そういい切れるのです。
>木は,人を本当に助ける気のない長老を含む組織の中にいる人間で,林はJWの組織,そして森はエホバ神の宇宙的な組織です。1本あるいは何本かの腐った木を見て,この林はダメだ,森全体がダメだと結論してしまうとしたら残念なことだと思います。
はじめまして。私もガラス張りの第二会場で、ブラインド下ろさずに長老たちにいわれのない「助言」受けたことがあります。私に対するやっかみが原因でそのような仕打ちを頻繁に受けてきました。そのため、なかなか奉仕のしもべに推薦されませんでした。それが原因でかつてある姉妹との恋愛が壊れてしまったこともあります。これはいまだに私の心にケロイドとして残っています。JWという宗教への憎悪という形でです。
推薦がようやく来たときには私の組織への気持ちはすっかり醒めていました。いまさら嬉しがって演壇での話など行うことに白けた気持ちでしたが、今の妻との恋愛がありまして、彼女の手前先月までJW続けてきた次第です。ただ私の関心は家庭だけで、JWは憎悪してきました。だから、わいはーさんのように組織擁護論をぶち上げられ、それへの賛成論などが次から次へと寄せられるようになると黙ってはいられません。
私は今では聖書を絶対的なものとは見ていないので、依って立つ場所が違います。だから言い合うつもりはありません。無意味なことだから。
わいはーさんのような意見を仰る方はたまに見かけるのですが、そのたびに思うことは、エホバとの関係を保つのに、どうしてJW組織にいなければならないのかということです。古代イスラエルは非聖書的な社会でしたがエホバはイスラエルの神として擁護したとあります。しかし結局敵の手に渡されたのです。流刑の世代はみんな異郷で死にました。エホバの名を語ってその実特権階級の支配を行ってきた「組織」は棄てられたのです。
JW組織が「当時からのエホバの目的」の延長線上にある組織だと仮に考えても、状況は同じようなものでしょう。わいはーさんもそれは認めておられます。そうであればやはり今の組織もやはりエホバは棄て去るしかないのではありませんか。「エホバへの真の崇拝が清められる」というヤツが行われるのはいつも内部改革ではなく、腐ったものを棄てて、新しく創設することによってでした。
木を見て森を見ず、だから背教的な長老や巡回監督、ベテルえらいさんたちを見るのではなく、エホバの宇宙的組織が行動を起こすのを待てと穏健派の現役は言います。だがJW組織は「エホバの宇宙的組織」の一部として発足したのでしょうか。イスラエル国家はそのようにして始まったと聖書にはあります。JWはどうですか。JWのはじめは世の終わり教団として始まったのです。2520年の教理、肉眼で見えないキリストの臨在の教理などはほとんどセブンスデー・アドベンティスト派のものです。しかもラッセルは当初はなにやらややこしい図表などを使って、今日のJWが見るとオカルト的と見なすような怪しげなものだったようです。イエスは予言的な終末の時期を主張する人々について行ってはならないと言っています。JWはエホバの宇宙的組織の地上の部分として始まったのでしょうか。あのようなラッセル派のどこをエホバは評価したのでしょうか。現在のJW組織になったのはラザフォード時代です。このときにエホバの組織としてエホバに評価されたのでしょうか。むしろ神がかり的な要素が消えて、きわめて人間的な宗教団体としてその姿を表したように私には思えるのです。JW組織は絶対にエホバを代表する神聖な組織などではないのです。エホバを崇拝でありたいのなら組織崇拝から離れて、エルサレムを陥落させるバビロンへ非難するようにと聖書に書かれています。再建された折にはバビロンから出て、汚れたものから離れるようにと言われました。いじめられて苦しんだ人に、木を見て森から目を離すようなことをするな、戻って来いなどというのは残酷なことです。
「楽しい事なら何でもやりたい。笑える場所ならどこへでも行く。悲しい人とは会いたくもない。涙の言葉でぬれたくはない」、陽水のきわめてアイロニックな有名な歌の歌詞です。JW内でいじめられる人は「悲しい人」です。だれも会って何か力になろうとはしません。うまくやってる人だけがJW社会で受け入れられます。JW社会内で楽しく笑うには、開拓者になり、苦労して成果を得、必要の大きな土地で奉仕して、大会などでステージから経験や話をする「特権」を得るようにすることです。一度レッテルを貼られるともう、JW社会では場所を失うのです。北海道広島会衆事件かレイモンド・フランズ事件の後、ベテルでは組織から離れた人がみな滅ぼされるわけではないというような話がよく言われたという書き込みか投稿を見たことがあります。JWICの投稿だったかな、だとしたら今でも確かめることができます。そうであるなら、いじめられて苦しむために王国会館へ無理してもどる必要はないのです。私もいじめられて苦しんだから、そういい切れるのです。