目覚め太さん>
そして、ワイハーさんへも横レスです>
目覚めたさん、レスどうもありがとうございました。返事が遅くてすいません。
>ここ見てる長老って、確かに組織の提案には従っていない
、いわば不忠節な方もおられるでしょうけど、中にはご自分の
信仰に揺るぎない自信をお持ちの方もいるように感じます。
だからJW批判の意見を覗いてみたいと思うのではないですか?>
もちろんそういう方もいらっしゃると思います。僕も人の心を読むことはできませんからね(^_^;)
しかし僕は、経験上そういう筋金入りの方はかなり少数だと感じています。
JW擁護のカキコミをする人・・・特に声高にかたくなに擁護論を語る人って「本心では信じられないのだけれども、なんとか信じようとしている」っていう「心の不自由さ」を持っている方が多いのではないかと思うのです。そういう人は結論として大抵「人間は不完全だから、問題は組織にあるのではなく人間の不完全さだ」とか「JW以外に何処に行けばいいというのか」と言います。
なぜそうせざるを得ないかという理由は人それぞれだと思いますが、一番多いのは、JWがJWの自ら言うように「神の用いられ是認される唯一の組織」であり「人間の是認も事実上それに依存している」ということを否定することは、自らのアイデンティティの危機を招くから、だと思います。
うすうす気がついているけれども、認めたくても認められない、ということではないかと。
もしJWに堅く揺るぎの無い信仰を持っているなら、例えJWを批判するカキコミを見ても「ああ、そういう見方もあるかもしれないね」と軽くいなせると思います、たとえ正義感から反論するにせよ。
どうしてもかたくなに反論「せざるを得ない」という態度が見られるということは、それはやはりそれなりの理由があると見た方が正解だと思います。
もし、「ご自分の信仰に揺るぎない自信をお持ちの方」がいるとしたら、それは本当に「被害者」だと思う(^_^;)
失礼ながら分析してしまえばワイハーさんも、カキコミから見ると「ホントは信じられないけど何とか信じようとしている」という心の動きを如実に表していると思うのです。
しかしながら僕は、ワイハーさんの二度目のカキコミを読んでも分かるとおり、心の奥底に横たわっている「苦しみと涙」は、ここに書き込まれる他のみなさんと一緒だと思いました。
ただその「段階」が違うだけで、ある人はその「苦しみと涙」を消化できたかもしれないし、ある人は「苦しみと涙」の真っ最中にあるかもしれない。でもある人はとりあえず今の段階は「苦しみと涙」をできるだけ合理的に解釈してそれと向き合わないようにしているのかもしれません。
僕が言いたかったのは、ワイハーさんの表面上のJW擁護の「言葉」に惑わされず、その心の奥底に眠っている不幸にしてJWに関わってしまった私たちすべてに共通する「苦しみと涙」、それに目を向けて欲しいなということです。不遜ながら申し上げますと。
僕は信仰とは「迷うこと」だと思っています。
この世の理不尽さに苦しみ涙を流し絶望しながら、・・・それでも神さまを思い見てしまう・・・その相克に人間は迷う。なぜ神さまは人間を「見捨てて沈黙しているのか」。その答えの無い答えを迷い苦しみながら自分なりに考え・追求し続けること、それが「信仰」だと思う。
だから、ワイハーさんが迷うこと自体はとても宗教的なことだと思うし、それでこそ正常だと思う。
ワイハーさんも、目覚め太さんも、もちろん僕も、・・・みんな同じように迷っているのですから、みんなで自由な立場で話し合えたらいいんじゃないかと思います。永遠に結論の出ない話を、ね(^^)
でも、それでも僕はワイハーさんに言いたい事もあるのです。(すぐに答えてもらわなくてももちろんOKです)
僕はJWの教えを信じること、また熱心にそれに安息を求めること。そういう生き方があっても、それはそれでいいと思う。それがその人のhappyにつながっているならそれでもいいと思う。
でも、信じられないのに信じなければならないと信じようとすること、信じさせようとすること、それは不幸なのではないかと思うのです。
迷うことを許さない「制度としての宗教」であるならば、それはルターやカルバン、キルケゴールが戦った・・・そしてなによりイエスご自身が戦った「単なる社会的な制度としての宗教組織」に堕っしてしまうことだと思う。
ワイハーさんには「おかしいな」と思う正常な感受性があります。(中にはその感受性がない人とでもいいますか、感受性を無くしてしまったのか、そういう風な人が稀に「JWエリート」の中にいますが(^_^;))
でも今はそれをそっと心の奥にしまっておくことに決めたわけです。(・・・なんのために?)
おかしいことをおかしいと思う正常な感受性があっても、自分のアイデンティティの危機を恐れてそれに向き合わないで心の奥底に閉まっておくなら、紛れも無く「単なる社会的な制度としての宗教組織」の一員であり続けることになります。せっかくの正常な感受性も無いのと同じです。
つまりそれは結果として、自分もその「おかしいな」と思った人に自分もなるだけのこと・・・少なくても「共犯者」になるだけのことなんです(擁護すればなおさらです)。
「無罪な無関心な人が加害者になる」んです。そして「被害者」が「無罪な加害者」になり「被害者」を作り出していく。
よろしいですかワイハーさん、「疑問を持った長老」が長老であり続けるとは、そういうことなんですよ。
それはぜひ考えていただきたいです。・・・偉そうなことを言うのは恥ずかしいのですけど、あえて恥をしのんで言うべきことだと僕は思いました。
まあしかし、もしJWが「疑問を持たない長老」だけになったらそれはそれで恐ろしいですが(^_^;)
「疑問を持っても考えない長老」と「疑問を持ってるけど考え続ける長老」の違いは大きいですからね。
どんな結論を出されるにせよ、がんばって欲しいと思います。
目覚め太さん曰く、
>敵は本能寺なのですよ。いや・・・ベテルなのですよ・・・>
しかしながら、JW批判派(便宜上そう呼ばせていただきますが、決して卑下しているのではありません)の戦うべき相手は、ワイハーさん個人ではないと思います。逆にワイハーさんが戦うべきなのも、JWに批判的な意見ではないと思います。
みんな結局「被害者」だと思う。ただ、間違ったものと戦うのは不毛だな〜と、僕は思うのです。
まあしかし、僕はベテルにも「敵」はいないと思いますけどね。
もし「敵」がいたら話は簡単だと思うのです。それをやっつければ、めでたしめでたしだから。
でも「敵」がいないからこそ「やるせない」のだと僕は思う。
「被害者」でもあり「加害者」である。
多分ベテラーもある意味「被害者」だと思う。もしかしたら「統治体」のおじいさま方もそうなのかもしれません。僕は真の敵は、亡霊のような「人間の霊」だと思うのですけどね。
僕は、まず自分の中の「敵」と戦って勝たないとな〜と思ってます(^_^;)
そして、ワイハーさんへも横レスです>
目覚めたさん、レスどうもありがとうございました。返事が遅くてすいません。
>ここ見てる長老って、確かに組織の提案には従っていない
、いわば不忠節な方もおられるでしょうけど、中にはご自分の
信仰に揺るぎない自信をお持ちの方もいるように感じます。
だからJW批判の意見を覗いてみたいと思うのではないですか?>
もちろんそういう方もいらっしゃると思います。僕も人の心を読むことはできませんからね(^_^;)
しかし僕は、経験上そういう筋金入りの方はかなり少数だと感じています。
JW擁護のカキコミをする人・・・特に声高にかたくなに擁護論を語る人って「本心では信じられないのだけれども、なんとか信じようとしている」っていう「心の不自由さ」を持っている方が多いのではないかと思うのです。そういう人は結論として大抵「人間は不完全だから、問題は組織にあるのではなく人間の不完全さだ」とか「JW以外に何処に行けばいいというのか」と言います。
なぜそうせざるを得ないかという理由は人それぞれだと思いますが、一番多いのは、JWがJWの自ら言うように「神の用いられ是認される唯一の組織」であり「人間の是認も事実上それに依存している」ということを否定することは、自らのアイデンティティの危機を招くから、だと思います。
うすうす気がついているけれども、認めたくても認められない、ということではないかと。
もしJWに堅く揺るぎの無い信仰を持っているなら、例えJWを批判するカキコミを見ても「ああ、そういう見方もあるかもしれないね」と軽くいなせると思います、たとえ正義感から反論するにせよ。
どうしてもかたくなに反論「せざるを得ない」という態度が見られるということは、それはやはりそれなりの理由があると見た方が正解だと思います。
もし、「ご自分の信仰に揺るぎない自信をお持ちの方」がいるとしたら、それは本当に「被害者」だと思う(^_^;)
失礼ながら分析してしまえばワイハーさんも、カキコミから見ると「ホントは信じられないけど何とか信じようとしている」という心の動きを如実に表していると思うのです。
しかしながら僕は、ワイハーさんの二度目のカキコミを読んでも分かるとおり、心の奥底に横たわっている「苦しみと涙」は、ここに書き込まれる他のみなさんと一緒だと思いました。
ただその「段階」が違うだけで、ある人はその「苦しみと涙」を消化できたかもしれないし、ある人は「苦しみと涙」の真っ最中にあるかもしれない。でもある人はとりあえず今の段階は「苦しみと涙」をできるだけ合理的に解釈してそれと向き合わないようにしているのかもしれません。
僕が言いたかったのは、ワイハーさんの表面上のJW擁護の「言葉」に惑わされず、その心の奥底に眠っている不幸にしてJWに関わってしまった私たちすべてに共通する「苦しみと涙」、それに目を向けて欲しいなということです。不遜ながら申し上げますと。
僕は信仰とは「迷うこと」だと思っています。
この世の理不尽さに苦しみ涙を流し絶望しながら、・・・それでも神さまを思い見てしまう・・・その相克に人間は迷う。なぜ神さまは人間を「見捨てて沈黙しているのか」。その答えの無い答えを迷い苦しみながら自分なりに考え・追求し続けること、それが「信仰」だと思う。
だから、ワイハーさんが迷うこと自体はとても宗教的なことだと思うし、それでこそ正常だと思う。
ワイハーさんも、目覚め太さんも、もちろん僕も、・・・みんな同じように迷っているのですから、みんなで自由な立場で話し合えたらいいんじゃないかと思います。永遠に結論の出ない話を、ね(^^)
でも、それでも僕はワイハーさんに言いたい事もあるのです。(すぐに答えてもらわなくてももちろんOKです)
僕はJWの教えを信じること、また熱心にそれに安息を求めること。そういう生き方があっても、それはそれでいいと思う。それがその人のhappyにつながっているならそれでもいいと思う。
でも、信じられないのに信じなければならないと信じようとすること、信じさせようとすること、それは不幸なのではないかと思うのです。
迷うことを許さない「制度としての宗教」であるならば、それはルターやカルバン、キルケゴールが戦った・・・そしてなによりイエスご自身が戦った「単なる社会的な制度としての宗教組織」に堕っしてしまうことだと思う。
ワイハーさんには「おかしいな」と思う正常な感受性があります。(中にはその感受性がない人とでもいいますか、感受性を無くしてしまったのか、そういう風な人が稀に「JWエリート」の中にいますが(^_^;))
でも今はそれをそっと心の奥にしまっておくことに決めたわけです。(・・・なんのために?)
おかしいことをおかしいと思う正常な感受性があっても、自分のアイデンティティの危機を恐れてそれに向き合わないで心の奥底に閉まっておくなら、紛れも無く「単なる社会的な制度としての宗教組織」の一員であり続けることになります。せっかくの正常な感受性も無いのと同じです。
つまりそれは結果として、自分もその「おかしいな」と思った人に自分もなるだけのこと・・・少なくても「共犯者」になるだけのことなんです(擁護すればなおさらです)。
「無罪な無関心な人が加害者になる」んです。そして「被害者」が「無罪な加害者」になり「被害者」を作り出していく。
よろしいですかワイハーさん、「疑問を持った長老」が長老であり続けるとは、そういうことなんですよ。
それはぜひ考えていただきたいです。・・・偉そうなことを言うのは恥ずかしいのですけど、あえて恥をしのんで言うべきことだと僕は思いました。
まあしかし、もしJWが「疑問を持たない長老」だけになったらそれはそれで恐ろしいですが(^_^;)
「疑問を持っても考えない長老」と「疑問を持ってるけど考え続ける長老」の違いは大きいですからね。
どんな結論を出されるにせよ、がんばって欲しいと思います。
目覚め太さん曰く、
>敵は本能寺なのですよ。いや・・・ベテルなのですよ・・・>
しかしながら、JW批判派(便宜上そう呼ばせていただきますが、決して卑下しているのではありません)の戦うべき相手は、ワイハーさん個人ではないと思います。逆にワイハーさんが戦うべきなのも、JWに批判的な意見ではないと思います。
みんな結局「被害者」だと思う。ただ、間違ったものと戦うのは不毛だな〜と、僕は思うのです。
まあしかし、僕はベテルにも「敵」はいないと思いますけどね。
もし「敵」がいたら話は簡単だと思うのです。それをやっつければ、めでたしめでたしだから。
でも「敵」がいないからこそ「やるせない」のだと僕は思う。
「被害者」でもあり「加害者」である。
多分ベテラーもある意味「被害者」だと思う。もしかしたら「統治体」のおじいさま方もそうなのかもしれません。僕は真の敵は、亡霊のような「人間の霊」だと思うのですけどね。
僕は、まず自分の中の「敵」と戦って勝たないとな〜と思ってます(^_^;)