横レスで失礼しますが,ものみの塔お得意の詭弁を彷彿しました。
> どんな立場の人間が、という区別なく、淫行を禁じている聖句はあり
> ますよね?
☆淫行を禁じている聖句はありますが,恋人〜婚約者〜夫婦の性愛の表現を規制する聖句は存在しません。あなたの(ものみの塔の)論議が成立するためには@「淫行は婚前交渉を含む」ことが必要条件ですが,それはピューリタンの特徴的拡大解釈にすぎず,「淫行」は愛し合う男女の性愛の表現に干渉する概念ではありません。
「淫行」の原語たる「ポルネイア」の本来の意味は「売春」であって,結婚の風習を対象とするものではあり得ないのです。その証拠に「次の必要な事柄…淫行…を避けていることです」とあって,そこには「諸国一般の婚前交渉や試験結婚の習慣を避けよ」などとは一言も書かれていません。
聖書が淫行を禁止する根拠はそれが「キリストの体をとって娼婦の体とする」ことになるからです。娼婦を買っても(つまりポルネイア=売春),「二人は一つの肉体となる」という性行為の原理は有効であるため,キリストの(霊的な)体の一員である自分を汚すことになるからです。だから「淫行(ポルネイア)」は,神の目に正しく「一つの肉体」になっている夫婦や,それへ向けて進んでいるカップルに適用することは原理的に不可能です。
次に
> 結婚を約束していたとしても、まだ結婚関係は成立して
> いないわけですから、それは「淫行」にあたると考えます。
☆論議のこの部分が成立するためにはA「まだ結婚関係は成立していない」ことが必要条件ですが,どの時点をもって夫婦と認められるかにかかわる結婚の風習は国や時代によってさまざまで,スイッチのレバーをパチンと倒すように結婚が成立する普遍的瞬間を定めるのは困難です。
もし(A)「婚姻届の受理(法律婚)によって結婚は成立する」というのなら,「アダムとエバはどこの役所に届けたのか? イサクはどこへ婚姻届けを出したのか? エジプトでは? 荒野では? 裁き人の時代は? 王国時代は? バビロン捕囚時代は?」と質問を返しましょう。
まだ不足ですか? ならば「ヨセフとマリアはいつ結婚を届けましたか?」イエスが生まれた時,ヨセフとマリアは(結婚を含む)登録に行く旅の途上だったのです。それはポルネイアじゃないのですか?
それでも足らないのならもう少し補足しましょう。(最近,どこかの板で似た書き込みを見かけたような気がしますが)「婚姻届けを受理されてから,結婚式までに結ばれたら婚前交渉なのですか?」と。
神の前に結婚が有効になるのが法的登録の瞬間であるとすれば,役所を出る時から完全に夫婦として暮らして何の問題も無いはずです。が,それはJWの組織では受け入れられません。
それで(B)「結婚式(民事婚)によって結婚は成立する」というのであれば「式の時点で婚姻届けが受理されているのは望ましい努力目標」にすぎないことになります。
「まず法的に登録して(A),それから(B)をして結婚が有効になるのだ」というのなら,逆順「(B)→(A)」ではだめだという根拠はどこにあるのでしょうか? ヨセフとマリアの聖書的実例はどうなるのですか?
「いや,順番に関わらず(A)(B)どちらも必要条件だ」というのなら,そんな大事な事をなぜ「必要な事がら」に明記しなかったのでしょうか? 書くのを忘れたとでも?
現在のような婚姻登録の習慣は,高度な法治国家の形成に伴って一般化し,情報通信の発達によって実現したもので,聖書時代にはそれを要求しても実現不可能だったのです(ヨセフとマリアが登録のために出生地へ旅行しなければならなかったように)。
だから聖書は婚姻成立の必要条件に(A)の法律婚を加えていないのであって,法律婚を結婚成立の必要条件に加えるためには聖書を踏み越えなくてはなりません。
一方(B)の民事婚ですが,およそ結婚式を肯定的に扱ってはいるものの,それが必要条件であるとする記述は聖書にありません。たとえばイサクとリベカの結婚式の記録は無い…はずです。荒野の真ん中で遊牧生活をしていれば家族以外の者を招いて祝宴を催すことさえ困難なのです。これから一緒に暮らすこと,或いは既に暮らすようになったことを祝うのは望ましいこと,努力目標にすぎないのは道理から明らかです。
そのように聖書によれば,そこまでの経緯にかかわらず,家庭を築く意思をもって性関係を結んだ時点で「二人は一つの肉体となる」のであって,それ自体が神の目に結婚を有効にすることであり,その絆の重さの前には民事婚も法律婚も単なる努力目標の位置づけを越えることはできないのです。その点「まだ結婚関係は成立していない」などという詭弁を弄ぶ人は本質的な誤りを犯している訳です。
神の目に結婚関係が成立するためには婚姻届けも結婚式も要求されていない事実を認識できましたか?
> 結婚を『約束した』人の性行為を具体的に名指しして明確に禁じていないのだから、
> 禁止されているとは言えない、というのであれば、そのような拡大解釈はあらゆる聖句に
> ついてできます。タバコについても禁止されてはいない、ということになります。
☆この段もまた懐かしい詭弁です。聖書は喫煙を禁止していません。それは関係する原則の適用であって,教団教派によって適用の基準はまちまちであり,それぞれに根拠があります。ある教派の適用基準が絶対の真理などではありません(それはカルトの特徴的理念です)し,特定の面でものみの塔よりももっと厳しい教派もたくさんあります。
逆に質問しましょう。
「聖書は,自動車を運転することを禁じていますか? 飛行機で空を飛ぶことを禁じていますか? 自身と他の人々の命を危険に晒すそうした行為は『聖書が明確に禁止していないけれど,やはり禁止されている』というのですか?」
とどめに(これは既に書いたかもしれませんが),「ポルネイア」を「婚前交渉」に適用するのはピューリタンの特徴です。男女の性行為を事細かに定義して,どこまでは許され,どこから「淫行」になるなどと論じること自体がピューリタンの特徴なのです。
婚約者とベッドに入っても(日本と違って米大陸では気候風土の関係から,帰宅できなくなって泊まることもある),ペッティングはしていいが最後の一線を越えてはならない,などと真顔で論じる世界なのです。「夫婦の営みでも裸になってはならない」とか,「性器の交接以外で快感を感じるのは『淫行』なのでキスもしてはならない」とか本気で唱える教派もあるそうです。(「裸…」は女性用に「社会の窓」のあるショーツをはいて事をいたすのだそうです)。
ものみの塔はアメリカで発生した教派で下地は完全にピューリタンなので,アメリカ性革命に対抗するためにピューリタンの特徴的性道徳を前面に押し出したまま引っ込みが付かなくなっただけなのです。
「ポルネイア」を結婚の風習に適用することはピューリタン特有の拡大解釈による聖書の曲解であって,それは決して聖書の教えではなく,「自分たちの伝統によって神の言葉を踏み越え」「書かれている事からを越え」て人を裁く所業なのです。
> どんな立場の人間が、という区別なく、淫行を禁じている聖句はあり
> ますよね?
☆淫行を禁じている聖句はありますが,恋人〜婚約者〜夫婦の性愛の表現を規制する聖句は存在しません。あなたの(ものみの塔の)論議が成立するためには@「淫行は婚前交渉を含む」ことが必要条件ですが,それはピューリタンの特徴的拡大解釈にすぎず,「淫行」は愛し合う男女の性愛の表現に干渉する概念ではありません。
「淫行」の原語たる「ポルネイア」の本来の意味は「売春」であって,結婚の風習を対象とするものではあり得ないのです。その証拠に「次の必要な事柄…淫行…を避けていることです」とあって,そこには「諸国一般の婚前交渉や試験結婚の習慣を避けよ」などとは一言も書かれていません。
聖書が淫行を禁止する根拠はそれが「キリストの体をとって娼婦の体とする」ことになるからです。娼婦を買っても(つまりポルネイア=売春),「二人は一つの肉体となる」という性行為の原理は有効であるため,キリストの(霊的な)体の一員である自分を汚すことになるからです。だから「淫行(ポルネイア)」は,神の目に正しく「一つの肉体」になっている夫婦や,それへ向けて進んでいるカップルに適用することは原理的に不可能です。
次に
> 結婚を約束していたとしても、まだ結婚関係は成立して
> いないわけですから、それは「淫行」にあたると考えます。
☆論議のこの部分が成立するためにはA「まだ結婚関係は成立していない」ことが必要条件ですが,どの時点をもって夫婦と認められるかにかかわる結婚の風習は国や時代によってさまざまで,スイッチのレバーをパチンと倒すように結婚が成立する普遍的瞬間を定めるのは困難です。
もし(A)「婚姻届の受理(法律婚)によって結婚は成立する」というのなら,「アダムとエバはどこの役所に届けたのか? イサクはどこへ婚姻届けを出したのか? エジプトでは? 荒野では? 裁き人の時代は? 王国時代は? バビロン捕囚時代は?」と質問を返しましょう。
まだ不足ですか? ならば「ヨセフとマリアはいつ結婚を届けましたか?」イエスが生まれた時,ヨセフとマリアは(結婚を含む)登録に行く旅の途上だったのです。それはポルネイアじゃないのですか?
それでも足らないのならもう少し補足しましょう。(最近,どこかの板で似た書き込みを見かけたような気がしますが)「婚姻届けを受理されてから,結婚式までに結ばれたら婚前交渉なのですか?」と。
神の前に結婚が有効になるのが法的登録の瞬間であるとすれば,役所を出る時から完全に夫婦として暮らして何の問題も無いはずです。が,それはJWの組織では受け入れられません。
それで(B)「結婚式(民事婚)によって結婚は成立する」というのであれば「式の時点で婚姻届けが受理されているのは望ましい努力目標」にすぎないことになります。
「まず法的に登録して(A),それから(B)をして結婚が有効になるのだ」というのなら,逆順「(B)→(A)」ではだめだという根拠はどこにあるのでしょうか? ヨセフとマリアの聖書的実例はどうなるのですか?
「いや,順番に関わらず(A)(B)どちらも必要条件だ」というのなら,そんな大事な事をなぜ「必要な事がら」に明記しなかったのでしょうか? 書くのを忘れたとでも?
現在のような婚姻登録の習慣は,高度な法治国家の形成に伴って一般化し,情報通信の発達によって実現したもので,聖書時代にはそれを要求しても実現不可能だったのです(ヨセフとマリアが登録のために出生地へ旅行しなければならなかったように)。
だから聖書は婚姻成立の必要条件に(A)の法律婚を加えていないのであって,法律婚を結婚成立の必要条件に加えるためには聖書を踏み越えなくてはなりません。
一方(B)の民事婚ですが,およそ結婚式を肯定的に扱ってはいるものの,それが必要条件であるとする記述は聖書にありません。たとえばイサクとリベカの結婚式の記録は無い…はずです。荒野の真ん中で遊牧生活をしていれば家族以外の者を招いて祝宴を催すことさえ困難なのです。これから一緒に暮らすこと,或いは既に暮らすようになったことを祝うのは望ましいこと,努力目標にすぎないのは道理から明らかです。
そのように聖書によれば,そこまでの経緯にかかわらず,家庭を築く意思をもって性関係を結んだ時点で「二人は一つの肉体となる」のであって,それ自体が神の目に結婚を有効にすることであり,その絆の重さの前には民事婚も法律婚も単なる努力目標の位置づけを越えることはできないのです。その点「まだ結婚関係は成立していない」などという詭弁を弄ぶ人は本質的な誤りを犯している訳です。
神の目に結婚関係が成立するためには婚姻届けも結婚式も要求されていない事実を認識できましたか?
> 結婚を『約束した』人の性行為を具体的に名指しして明確に禁じていないのだから、
> 禁止されているとは言えない、というのであれば、そのような拡大解釈はあらゆる聖句に
> ついてできます。タバコについても禁止されてはいない、ということになります。
☆この段もまた懐かしい詭弁です。聖書は喫煙を禁止していません。それは関係する原則の適用であって,教団教派によって適用の基準はまちまちであり,それぞれに根拠があります。ある教派の適用基準が絶対の真理などではありません(それはカルトの特徴的理念です)し,特定の面でものみの塔よりももっと厳しい教派もたくさんあります。
逆に質問しましょう。
「聖書は,自動車を運転することを禁じていますか? 飛行機で空を飛ぶことを禁じていますか? 自身と他の人々の命を危険に晒すそうした行為は『聖書が明確に禁止していないけれど,やはり禁止されている』というのですか?」
とどめに(これは既に書いたかもしれませんが),「ポルネイア」を「婚前交渉」に適用するのはピューリタンの特徴です。男女の性行為を事細かに定義して,どこまでは許され,どこから「淫行」になるなどと論じること自体がピューリタンの特徴なのです。
婚約者とベッドに入っても(日本と違って米大陸では気候風土の関係から,帰宅できなくなって泊まることもある),ペッティングはしていいが最後の一線を越えてはならない,などと真顔で論じる世界なのです。「夫婦の営みでも裸になってはならない」とか,「性器の交接以外で快感を感じるのは『淫行』なのでキスもしてはならない」とか本気で唱える教派もあるそうです。(「裸…」は女性用に「社会の窓」のあるショーツをはいて事をいたすのだそうです)。
ものみの塔はアメリカで発生した教派で下地は完全にピューリタンなので,アメリカ性革命に対抗するためにピューリタンの特徴的性道徳を前面に押し出したまま引っ込みが付かなくなっただけなのです。
「ポルネイア」を結婚の風習に適用することはピューリタン特有の拡大解釈による聖書の曲解であって,それは決して聖書の教えではなく,「自分たちの伝統によって神の言葉を踏み越え」「書かれている事からを越え」て人を裁く所業なのです。