> こういう考え方がそもそも間違いの原因ではないですか?
> そういう考え方をしたいのであればJWを別個に考えるべきです!
☆間違っているのはあなたです。思想信条のルーツと変遷を考えることもなく「JWだけが真のキリスト教である」という統治体崇拝に陥って「JWを別個に考え」ていることがそもそも間違いの原因です。
「自分たちだけが正しい」と思いたいのならそれはあなたの自由なのですから,「自分たちだけが清く,正しく,世から取り分けられている」つまり「バリサイ(人)」の語源のとおりに自身を特別扱いして満足していればよいのであって,そんなJWを満足させてやろうなどという奇篤な人はここにはあまり多くはいないと思いますよ(それも個人の自由なのですが)。
どんなに統治体崇拝に深入りするとしても,客観的にはJWの教義はピューリタンの特徴を地で行くものにすぎません。それはキリスト教界の教義スペクトルの中で相対的に位置づけられるものであって,部分的にはJW以上に原理主義的な教派はザラにあります。
たとえば,JWを監禁するビジネスに忙しかった某バプテスト教会などはアルコール飲料を厳禁する教義のために,聖餐式(主の記念式)のぶどう酒についても「あれはぶどうのジュースであって,ぶどう酒ではない」と言い張ります。そこの教派では聖餐式(主の記念式)はノン・アルコールのグレープ・ジュースでやるのです。そういう極端な教義のどれを採用しどれを捨てるか,という相対的な位置づけでJWを把握できるようになった人には,あなたのような統治体崇拝は霊的エジプトに残してきた懐かしく忌まわしい偽りの教義の一つにすぎないものなのですよ。
> そういう考え方をしたいのであればJWを別個に考えるべきです!
☆間違っているのはあなたです。思想信条のルーツと変遷を考えることもなく「JWだけが真のキリスト教である」という統治体崇拝に陥って「JWを別個に考え」ていることがそもそも間違いの原因です。
「自分たちだけが正しい」と思いたいのならそれはあなたの自由なのですから,「自分たちだけが清く,正しく,世から取り分けられている」つまり「バリサイ(人)」の語源のとおりに自身を特別扱いして満足していればよいのであって,そんなJWを満足させてやろうなどという奇篤な人はここにはあまり多くはいないと思いますよ(それも個人の自由なのですが)。
どんなに統治体崇拝に深入りするとしても,客観的にはJWの教義はピューリタンの特徴を地で行くものにすぎません。それはキリスト教界の教義スペクトルの中で相対的に位置づけられるものであって,部分的にはJW以上に原理主義的な教派はザラにあります。
たとえば,JWを監禁するビジネスに忙しかった某バプテスト教会などはアルコール飲料を厳禁する教義のために,聖餐式(主の記念式)のぶどう酒についても「あれはぶどうのジュースであって,ぶどう酒ではない」と言い張ります。そこの教派では聖餐式(主の記念式)はノン・アルコールのグレープ・ジュースでやるのです。そういう極端な教義のどれを採用しどれを捨てるか,という相対的な位置づけでJWを把握できるようになった人には,あなたのような統治体崇拝は霊的エジプトに残してきた懐かしく忌まわしい偽りの教義の一つにすぎないものなのですよ。