1.万が一(恐らくは、ありえないとは思いますが)組織が悔い改め、今までの謝罪をしたり、世間に公表したり、よって、不当な罪で排斥されたりした方々にも、きちんと謝罪なり何なりをしたとして、それならば戻っても良いか、どうか?
ありえないことですが、教理も聖書に沿ったものになれば、嫁さん次第です。あくまでJWというネームにこだわるのであれば、つきあってやってもよい。個人的には「組織」加入はもうごめんです。
2.深く傷ついていて、JWの組織や、個人的に傷つけた人をまだ恨んでい る。出来たら、一切の反論をさせずに、彼らに訴えたい。謝って欲し い!そしたら、許して、戻ってやっても良い。
むずかしいな...。ほえづらかかせてやりたいけれど、そのために生きようとは思いません。謝罪されるだけではね。きちんと責任取ってもらわないとね。戻るか戻らないかの判断は私が恨んでる人たちの態度ではなく、教理の問題です。輸血拒否に代表されるような思い込み教理をすべて廃棄するなら、それから考える。でも個人的には「組織加入」反対。
4.もう、すっかり納得したので、今更何とされても、JWに未練はない。
もちろん知り尽くした、という訳ではありませんが。JWはもううんざり。
>此処に訪問しているのは、単なる暇つぶしに過ぎない。戻る気はさらさ らない。
暇つぶしなんかではない。絶対に。孤独を軽減できる場所として、この種のHPに期待している。
>しかし、神の存在も、聖書も信じている。
神、創造者については理神論寄りの不可知論者です。
つまり創造者が実在するかどうかについては、知ることはできない。たとえ実在したとしても我々に深く関わっているとは思えない。
ただ公正明大で懐の深い神、またキリストのような指導者が実在すればいいなぁとは思います。
聖書については思い入れはあります。
聖書を宗教、崇拝の対象とはもう見なしていません。しかしキリスト教徒たらんとしていた経験はこれからも生かしてゆくつもりです。家族の成員としてはこれからもJWで学んできたとおりにやってゆくつもりです。夫は主人ではなく妻のパートナーであり、まず第一に家庭のことを考え、また行ってゆきます。これまでどんなに疲れていても風呂、トイレの掃除は基本的に自分の仕事として行ってきましたが、これからもそうします。「亭主元気で留守がいい」なんて思われないように、これからも家の仕事は二人で行ってゆきます。私もJWでまなんできたことが皆無価値だとは思っていません。協力して家庭を築くことを目的にして生きるようにし、外の世界で競争して勝ち抜いていくということを目的に生きようという野心にかまわないようにします。「真の財産は名声、勝利、富ではなく、人間との堅い信頼関係である」というJWにしてはしゃれたセリフは今でも私の信念です。そのような財産は謙虚な気持ちを失わないことで獲得できるものだという「教え」にも心底同意しています。
私の「思想」といえばおおげさですが、考えの基本は聖書、キリスト教です。しかしハルマゲドンを生き残り、エホバに喜ばせるために開拓奉仕をし、特権を追い求め、ダイしたジーンズをはかず、一般の小説や映画を見ないようにし、仕事をしないでフリーターになれ、というようなことはもうパスです。何の意味もありません。
うまく言えないけれど、また言葉思いついたら書き込んで見ます。その頃に評論家が幅をきかせていなければ、ですけれど。
5.自分の辛い経験を生かして、誰かを励まし、慰めたい。体験談を語るの は、自分も、こうだったんだよ、と、安心させてあげたいから。
そういうのが立派なことだとは思います。でも私の場合は完全にガス抜きです。申し訳ないです。
>もう宗教グル−プには属したくないが、神の存在も、聖書も信じている。
上記の通りです。
6.もう、神も仏もないと思っている。聖書なんか、クソ食らえ!
というのには感心しません。
限られた地域で七,八十年ほどしか生きれない人間が、何かについて結論を出せるほど偉くなれるというのは、無知な思い上がりだと信じています。未熟な人間ほど、ちょっとたくさん聞きかじると、おれは他のやつらとは訳が違うと思うようになるのです。「食べて満ち足り、家を建ててそこに住み、財産が殖えたときに、自分を必要以上に過信するようになってはならない」、「自分はかなり習得したと考える人がいるなら、その人はまだ知るべきほどには知っていない」という聖書の観察は、私にとっては今でも座右の銘です。人間をして道徳的にならせ、いつも謙虚で向上心を保たせるのに聖書は価値あるものだと考えています。問題なのはJWのようなカルト的な解釈です。
これはすべて私個人の思っていることです。正解か間違いかという、カンカンガクガクの議論のネタではありません。
以上です。
こんどはサフランさんの番ですよ。(^。^)←こういうのって恥ずかしいんだけど...。
ありえないことですが、教理も聖書に沿ったものになれば、嫁さん次第です。あくまでJWというネームにこだわるのであれば、つきあってやってもよい。個人的には「組織」加入はもうごめんです。
2.深く傷ついていて、JWの組織や、個人的に傷つけた人をまだ恨んでい る。出来たら、一切の反論をさせずに、彼らに訴えたい。謝って欲し い!そしたら、許して、戻ってやっても良い。
むずかしいな...。ほえづらかかせてやりたいけれど、そのために生きようとは思いません。謝罪されるだけではね。きちんと責任取ってもらわないとね。戻るか戻らないかの判断は私が恨んでる人たちの態度ではなく、教理の問題です。輸血拒否に代表されるような思い込み教理をすべて廃棄するなら、それから考える。でも個人的には「組織加入」反対。
4.もう、すっかり納得したので、今更何とされても、JWに未練はない。
もちろん知り尽くした、という訳ではありませんが。JWはもううんざり。
>此処に訪問しているのは、単なる暇つぶしに過ぎない。戻る気はさらさ らない。
暇つぶしなんかではない。絶対に。孤独を軽減できる場所として、この種のHPに期待している。
>しかし、神の存在も、聖書も信じている。
神、創造者については理神論寄りの不可知論者です。
つまり創造者が実在するかどうかについては、知ることはできない。たとえ実在したとしても我々に深く関わっているとは思えない。
ただ公正明大で懐の深い神、またキリストのような指導者が実在すればいいなぁとは思います。
聖書については思い入れはあります。
聖書を宗教、崇拝の対象とはもう見なしていません。しかしキリスト教徒たらんとしていた経験はこれからも生かしてゆくつもりです。家族の成員としてはこれからもJWで学んできたとおりにやってゆくつもりです。夫は主人ではなく妻のパートナーであり、まず第一に家庭のことを考え、また行ってゆきます。これまでどんなに疲れていても風呂、トイレの掃除は基本的に自分の仕事として行ってきましたが、これからもそうします。「亭主元気で留守がいい」なんて思われないように、これからも家の仕事は二人で行ってゆきます。私もJWでまなんできたことが皆無価値だとは思っていません。協力して家庭を築くことを目的にして生きるようにし、外の世界で競争して勝ち抜いていくということを目的に生きようという野心にかまわないようにします。「真の財産は名声、勝利、富ではなく、人間との堅い信頼関係である」というJWにしてはしゃれたセリフは今でも私の信念です。そのような財産は謙虚な気持ちを失わないことで獲得できるものだという「教え」にも心底同意しています。
私の「思想」といえばおおげさですが、考えの基本は聖書、キリスト教です。しかしハルマゲドンを生き残り、エホバに喜ばせるために開拓奉仕をし、特権を追い求め、ダイしたジーンズをはかず、一般の小説や映画を見ないようにし、仕事をしないでフリーターになれ、というようなことはもうパスです。何の意味もありません。
うまく言えないけれど、また言葉思いついたら書き込んで見ます。その頃に評論家が幅をきかせていなければ、ですけれど。
5.自分の辛い経験を生かして、誰かを励まし、慰めたい。体験談を語るの は、自分も、こうだったんだよ、と、安心させてあげたいから。
そういうのが立派なことだとは思います。でも私の場合は完全にガス抜きです。申し訳ないです。
>もう宗教グル−プには属したくないが、神の存在も、聖書も信じている。
上記の通りです。
6.もう、神も仏もないと思っている。聖書なんか、クソ食らえ!
というのには感心しません。
限られた地域で七,八十年ほどしか生きれない人間が、何かについて結論を出せるほど偉くなれるというのは、無知な思い上がりだと信じています。未熟な人間ほど、ちょっとたくさん聞きかじると、おれは他のやつらとは訳が違うと思うようになるのです。「食べて満ち足り、家を建ててそこに住み、財産が殖えたときに、自分を必要以上に過信するようになってはならない」、「自分はかなり習得したと考える人がいるなら、その人はまだ知るべきほどには知っていない」という聖書の観察は、私にとっては今でも座右の銘です。人間をして道徳的にならせ、いつも謙虚で向上心を保たせるのに聖書は価値あるものだと考えています。問題なのはJWのようなカルト的な解釈です。
これはすべて私個人の思っていることです。正解か間違いかという、カンカンガクガクの議論のネタではありません。
以上です。
こんどはサフランさんの番ですよ。(^。^)←こういうのって恥ずかしいんだけど...。