昼寝するぶた 掲示板過去ログ:#1351

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No.1351 Re:そうですね。 投稿者:大空の浪人 投稿日:2002/11/01 07:08 元1世兄弟 冤罪で排斥でーす 壊れた事はないです 40代中盤   
> はじめに。私の質問が一連の投稿の引き金になったのなら、お詫びします。決して
> 喜んでお書きになったのではないと思います。
☆いえいえ,むしろ問題の本質というか,JWの教義の本質に迫るきっかけになったので感謝されていると思いますよ。私の側も,そうでもなければ書かないようなことを書くためにMANAさんの反応を利用させていただいたような面もあるので,御礼がわりに,不正排斥に至る鴨方会衆周辺の事情を追加しておきます。途中でChiebowさんの催促もありましたし。

1978年春に必要で福山市の派閥の手先K野が鴨方会衆に移動してきて,群れ時代から競って私を誘惑して失敗していた主婦たちのうちのE立を利用して「淫行」ならぬ「不品行」をでっち上げ(その時一回だけ巡回はO切…暴君で有名?)て排斥同然の扱いをしたのですが,得意の絶頂で結婚したK野はみるみるうちに夫婦共々重症の鬱病になり,O切に代わった巡回O野(金権腐敗型)の任期中は背後派閥の応援でなんとか持ちこたえたものの,任期満了で交代した巡回S村(二世のボンボン型)に改善を要求され,背後派閥に見限られたためにS村の二度目の訪問直前に九州へ夜逃げして行きました(後に癌死)。
早速倉敷市の派閥がS村に手を回し(巡回区再編が決まっていてS村の訪問は二回で終わり+S村は巡回昇進の前は倉敷市中央会衆の特開)て現状を維持させ,新巡回N村(最悪の金権腐敗型)を買収して手下のヘボ一世K子(姓)を鴨方の一時的主宰監督に据えるのですが,K子とそのパートナーのヘボ二世Y田,ヘボ一世N野の「三人組(後にヘボ一世のオッサンE口を加えて「四人組」)」は派閥の応援を得て堂々とゴタゴタを起こし続けて泥沼化し,1984年10月には躁鬱病の未信者の夫W狭氏(後に馬の糞T号が暴力排除する人物)をけしかけて私を王国会館に呼びつけて殴らせることまでし,派閥の長老である港(仮名・一文字だから),巻(港に同じ),馬の糞U号らが度々応援に乗り込んで来るなどエスカレートし,王国会館でW狭氏に言いがかりを付けさせて煽り立てることなどが日常化したため,1985年10月から私は,当時平和だった東隣の倉敷市玉島会衆に交わることにしました(自宅から通いました…当時の王国会館まで車で30分足らずの距離なので)。
その間に巡回監督がO本(粉ミルク療法型?)に交代し,福山市深津会衆で一緒だったヘボ一世のオッサン馬の糞T号が鴨方会衆の主宰監督として移動して来ていて,玉島会衆でも唯一の長老S口(元ベテル長老・関係者の中で唯一まともなJW)が健康上の理由で九州の実家へ帰ることになり,1986年9月付で出雲市大社会衆のS谷が主宰監督として移動して来ることに決まりました。
S谷は地域大会の音響部門で長年一緒だったのですが,私に敵対的で度々嫌がらせをされていて彼の元では問題を起こされると予想されるため,玉島を出なければならないと考えていたところ,T号がわざわざ私を呼びつけて「巡回のO本と相談してK子ら一味を解散させることが決まった。Y田は既にベテル建設へ送り出した。K子とN野は受け入れ先が決まり次第移動させる。奴らがやってきたようなことは二度とさせないと約束するから,会衆を再建するために戻ってくれ」というので,私は1986年9月付で再び鴨方会衆へ戻ってやったのです。
ところがT号は「真備会衆のS本兄弟は巡回のO本兄弟に紹介されて始めたポンポン菓子の移動販売で儲けて家を新築した。あれは開拓奉仕に適している。自分も始めようと思うが開業資金として150万必要だ」とか「○×兄弟が買った△□は静かで快適で,必要の大きい所へ奉仕に行くのに打って付けだ(当時,広島県比婆郡比和町へ夏の時期に会衆として奉仕に行っていた…地図で確認してください。鴨方町は国道二号線沿いの町で,東隣の金光町も鴨方会衆の区域でした)」などと金や車の話をするばかりで会衆の問題に取り組む姿勢を見せず,高校生の長男を私の自営業の仕事(ビル清掃業)に雇わせて給料泥棒させることに加え,T号の妻までが金や仕事を提供せよと私に要求するようになり,私がそれに応じないと一々ヒステリーを起こして敵対的になってゆき,1997年春頃にはT号自身まで玉島会衆のH野母娘への援助やS村の問題の扱いを巡って露骨な敵対状態になりました。
お待たせしました(?),ここからK原,つまりT号に寝返って私を売った女が登場します。K原は倉敷市玉島の兼業農家の出身で,私より9歳年上の昭和25年生,幼稚園の同級生の一人がE口の妻。高卒で地元の信用組合に勤め,愛媛県の松山支店に転勤になり,そこで年下の男性と結婚してその両親と同居し女の子と男の子を各一人生みます。結婚後ほどなくして夫は失職し,暴力団の麻雀賭博に入り浸るようになって定職に就かず,K原自身が歯科医院の事務職をして生活を支えたのですが,夫の暴力は激しくなり,ついには長女の幼稚園の給食費まで持ち出して賭博ですってくるようになったため,長女の小学校入学を目前に協議離婚して玉島の実家へ帰り,歯科保険請求事務の人材派遣会社のような企業で一つのチームのリーダーをして子供を養っていました。世俗のコミックから「ハルマゲドン」に興味を持っていて,伝道に来たJWの口から「ハルマゲドン」と聞いたことで研究に応じ,伝道に出るようになったところで玉島へ転籍した私と鉢合わせして一目惚れしたという経緯です。
玉島会衆時代にはK原とは群れが別だったので前半の時期に日常的な接触は無かったのですが,後半の時期,週一回の会衆の夕方の伝道に意欲的に出て来て,その後半一時間ほどは私とK原(+子供の一方)だけになるのが普通で,いろいろと身の上話を聞かされました。中でも,高校時代に交換日記をしていた初恋の人と別れさせられ他の男性と見合いを強要されたことで自殺を考えて夜中に海岸へ行った(実家は丘を一つ越えれば海岸)とか,それで家出して都会へ行って一人で心細かったのが,拾って力になってくれた女の人が実はやくざの組長の隠し子で,人の誠意の尊さに目覚めた,とか,後には九州へ引っ越すS口に手伝いで同行する一行に加わるはずだったのに長女が熱を出して参加できなかったことがショックで寝込んだ…という話に至るまで,堅物だった私は(たぶん玉島会衆の大半も)美しい話として真に受け,K原のことを人一倍純粋で誠実で献身的な薄幸の女性…と信じて疑わなかったのです。
翌月から鴨方会衆へ戻るという頃,歯科保険請求事務の仕事をやめたの,やめるだの,と言いだし「そうなら,少しにしかならないけど」ということでK原は私の月一回の定期清掃に10月から(既に決まっていた9月の作業日はK原の予定とバッティングした)アルバイトの一人として来ることになったのです。ちょうど岡山県笠岡市の作業現場までT号の長男をK原の乗用車で送迎してもらえて好都合でした(私の軽1BOXは作業の機材で満載)。
月末に給料を届けに行くと,「S口からS谷に代わったら晩の奉仕が無くなってしまった」というので,だったら鴨方の晩の奉仕に飛び入りで来るよう勧めたのですが,話を聞くうちに当時小学二年生の長男のことがもっと深刻な問題であることが分かってきました。行儀も成績も悪く,自分の手に負えないのでS谷に相談したが,軽蔑の眼差しを向けられただけで,何の援助もしてくれない…というのです。
K原の二人の子供については,玉島会衆時代に姉(弟より二級年上)がひどい仕方でいじめるのを目撃して呆れたことがあったりして放置できず,ちょうどそこへ学校から帰ってきたその息子に勉強を教えるところから密な関わりが始まりました。
それから時々午後に寄っては息子の相手をしてやりました(K原の実家は玉島会衆の区域の西端,鴨方会衆との境界に近い)。離婚の慰謝料代わりに元夫の両親に買ってもらった乗用車の燃費が悪いので買い換えたいというので,知り合いのつてで車検丸残りのポンコツの軽乗用車を調達してK原の乗用車の相場を調べて玉島会衆のH田の未信者の夫に個人売買できるよう入れ知恵してやったりしたのですが,12月も後半に入る頃,私と特別な関係にあるようにK原自身が玉島会衆の成員に吹聴している節があったので「相当,状況は改善されたし,あとは親の責任を果たしてゆけばよい。JWが会衆の成員の子供の家庭教師を引き受ける場合は相応の報酬を取り決めるのが常識だけど経済的に無理だろうから,特に結婚前提の交際でないのにこのまま続けるのは誤解を招くから,専属的に教えに来るのはこれで終わりにしたい」と伝えて帰りました。
それから二・三日後,夕方に集金を終えて帰り,車庫に車を入れようとすると(ウチの車庫は自宅から三百mほど離れた向こうの丘の上の小さな公園の続きの畑の一角),K原の車が停まっていました。???と思って降りて覗くと公園の明かりにほの暗く照らされた車内にはひどく憔悴した様子のK原が一人。「もう,来てくれなくなるんじゃないかと心配で…」あれから何も喉を通らないそうで…。とりあえず自分の車を車庫に入れて,降りて話す訳にもゆかない(真冬の日没後の吹きっさらしの丘の上)からK原の車の後部座席に乗って話を聞くと,要するに「結婚してほしい」と。
その前に再婚の自由がある状況なのか確認しなくてはならないし,そんな状況で長話もできないから,翌日昼前にK原の家に行って話し合うことにして帰しました。
翌日は20日の土曜日だったはずで,子供たちが帰って来るまでに個人的な事情を聞いたのですが,元夫は暴力団周辺の人間で,離婚からJWと関わるまでの四年間に双方それなりに異性との関わりがあって神の目に結婚が継続している状況ではないので,私が鴨方会衆で受けて来た不当な扱いと玉島会衆へ交わり,また鴨方へ戻った理由,背後関係者の人脈関係等々明らかにした上で,結婚を前提に付き合うことにしたのです。
ただ,私との仕事や車の関わりから既にK原母子を冷遇していたS谷などを刺激しないように,具体的な目処が立つまでは交際を伏せておくことにしました。
そうして年が明け,息子の方は目つきまで変わって一応の優等生になり,ウチの両親(元教員)に紹介できるかと思うようになっていた春先,(たぶん広島県府中市での)巡回大会でK原は移動希望者の会合に出て,私との交際を伏せたまま鴨方会衆への移動の意思を表明しました。巡回のO本はひどく喜び,K原の鴨方会衆への移動を歓迎しました。
その大会で玉島会衆の面々と半年ぶりに交わったのですが,H野母子の姿が無いことに気づいたのが,今から思えば運命の別れ道だったのでしょう。
孫がいるはずの年のH野は玉島会衆の古い成員で,一方の長老o田派の成員でした。玉島会衆は独立後,o田(O田と同姓・ワルではないので小文字扱い)とI井の二人の長老が対立する会衆でした。o田は老害長老タイプの人間で,群れ時代の鴨方に出張講演に来た際,講演の最後に啓示11:8を引用したのですが,どう考えても11:18を引用するべき結論なので,集会後お礼を言ったついでに「最後の聖句は18節なのでは?」と尋ねると,「いや,協会の筋書きに忠実でなくてはなりませんから」と言いつつ見せてくれた筋書きはコピーを重ねた,当時おなじみの不鮮明なものながら,「8」の前には「1」に打って付けの空間が確保されていました。o田の「忠実」はその程度。
一方I井は元変人理髪師の「自分ほど賢い者はいない」と口にしながらアホなことをする対抗心の塊タイプ。玉島会衆時代,英皇太子夫妻の訪日の最中か直後にI井が神権学校で「パルーシア」の話を扱った際に力説するには「英皇太子夫妻が『到着』したことではなく帰りの飛行機に乗り込んでまさに『出発』しようとしているのが『パルーシア』の正しい意味」なのだそうです。ふた言目には「黙想」だとか「個人研究」だとか連発するI井はその程度。
長老がそんなレベルだから,I井夫妻のブッ飛び非常識熱意が嫌な成員はo田派に,o田の不熱心が嫌な成員はI井派に付かざるを得なくて自然と玉島会衆は真っ二つ。
o田もI井もその程度なくせに強情だったので,王国会館が建ったところで巡回N村は両者とも長老クビにし,一時的に港に出張させて集会を運営させながらベテル長老のS口と,ヘボ二世のK藤,比較的まともな一世のO根の両奉仕の僕を移動させて玉島会衆の組織を刷新しました。
o田は長老クビの後は集会から遠ざかり,別の会衆の集会へ顔を出したりしながら,家族ぐるみ不活発になったそうです。私が配属された群れの区域にo田の家があって,S口と一緒に訪問したことがありますが,その後,出て行った二人のドラ息子もo田夫婦も経済的に破綻し,o田夫人が生活保護を受けられるようにするためにo田は蒸発したことになっている,という話をH野から聞かされました。
一方I井は,長老クビの後は倉敷の派閥の大親分なる港に対して恭順になってどんどん復権してゆき,後にS谷が主宰監督になると長老に返り咲きました。元々,I井の妻は福山市深津会衆の出身で,私が深津会衆に交わり始めるのと入れ代わりに,離婚等々で玉島へ帰ったか移動したかという経緯になり,それと結婚したI井は自然と福山の派閥の後ろ楯の下に偉そうにしていたため,港に買収されたN村によって長老クビにされたのです。I井はその点を悔い改めて港に恭順を示し,やがて倉敷の派閥と福山の派閥との提携を実現させます(私を不正に排斥するためにそれはものを言いました)。
さて,当のH野はどちらかというとo田派だったため,o田が沈没してゆくと娘と息子の不行跡もあってI井派から冷遇され,自身も健康を崩して経済的に行き詰まります。元々結婚が遅かったのに早く夫と離婚し,ほとんど生活保護に頼って子供(上が娘,下が息子)を学校へやっていたのが,娘を無理に私立高校へ入れたために生活保護を打ち切られ,しかも娘はグレて高校中退し,悪い友だちの関係で車の借金を背負わされたりしながらマザコン坊ちゃんと付き合って籍を入れたものの相手の親の反対で別れることになります。娘は結婚の準備として退職させられた後,定職に就いておらず,一家の定収はほとんど無い状態でした。
当時高校生の息子はといえば,家に悪友を招いて四六時中麻雀にふけっていて,アルバイトの一つする気はない状態で,H野は近所の八百屋に食品その他のツケが百万円以上溜まっていて,経済的に破綻していました。
巡回大会の際,私は玉島会衆の成員にH野のことを尋ねたのですが,どうも不活発になっているらしく,心配になってH野を訪ねました。その時,それまでの経緯のあらましと聞かされ,娘の交際相手の弁護士が離婚(籍だけ入れていたため)の慰謝料の交渉を持ちかけて来たものの,H野の見地からそれは全く侮辱的な低額で,S谷に相談して助言を求めたものの,S谷は鼻で笑って顔を背け,何も助けてくれなかった,と聞かされました。H野はたまに集会へ行っても冷たく無視されるだけで,似た仕方で冷遇されていたY浦以外の会衆の成員と日常の接触を失っていました。
私は放置できなくなって週に何度もH野を尋ねて話を聞いてやるようになり,K原にも頼んで訪問させ,H野を励まそうとしました。
そうする一方,馬の糞T号の口からK原の転入について全く話を聞かないので,T号の家に行った機会にT号に確認するようK原に勧めました。悪い予感がしたので「巡回監督のO本から聞いているか?」とだけ尋ねるよう勧めておいたのですが,T号は頭ごなしに「移動して来る必要は無い」と言い張り,取りつく島が無い状態だったそうです。K原がそのことをO本に報告すると「せっかく移動してくれるというのに,なぜ反対するのか理解できない…」と言われたそうですが,T号自身,私に対してK原のことを「余計なことをする奴だ」と忌ま忌ましそうに語りました(まだ交際のことは勘づいていなかった)。
その後しばらくのうちに,集会で「(大空の浪人)がしょっちゅう来ているそうだが」と詰問したS谷に対してH野はキレて「援助を求めても何もしないでおいて,『来ているそうだが』とは何事か! それがクリスチャンのする事か!」と罵倒したそうで,S谷の依頼でT号は私を呼びつけ,「『H野姉妹』の所へ行っているそうだが,やめろ」と要求しました。
私が理由を尋ねると激怒したので「理由を説明してくれれば従う」とだけ答えてその場を去ったのですが,その時点でなお私は,T号が企んでいる事柄を理解していなかったのです。
K原にそのことを話し,T号がK原の移動を承認して会衆として宿舎を探す見込みは無いことを伝えると共に,S谷と港らがT号を抱き込んで敵対させ,過去の悪事のもみ消しを図る恐れがあるので,慎重に行動すると共に,証拠を収集する必要を話しました。
宿舎の方は私が目をつけていた遙照山の登りがけにある古い木造二階建てモルタル塗りのアパートが,住人に尋ねてみると倉敷市玉島の生コン会社の社宅ながらほとんど一般の人に貸していて空きもあることが分かり,K原の実弟(生コン車の運チャン)の勤務先と経営者同士親しかったので,とんとん拍子で話が決まり,K原が入れることになりました。
家の手配と平行して,K原が思い出した事実の一つに,私と同じ群れであった,暴力を振るう夫と離婚し行方不明を装って玉島へ転入して来ていたS村がK原に対して「(大空の浪人)は鴨方会衆で悪いことをして居られなくなったから玉島に来ている」と吹聴していたという件がありました。それでS村をK原の家に呼んで,私の面前で問いただしたのですが,S村はK原にそのように吹聴した事実は認めたものの,誰からそれを聞かされたかについては答えるのを渋り「教えるかどうかは考えておく」として帰りました。
S村の中傷が問題だったのは,私が玉島会衆で奉仕していた期間,鴨方の「四人組」は手先を通じて玉島会衆でゴタゴタを起こさせていたからです。その手先とは,福山市本庄会衆から正規開拓者の奉仕の僕として夫婦で移動してきたヘボ二世のN岡です。鴨方「四人組」はN野が取締役をしている産業廃棄物処理会社N野化成にN岡を雇わせ(E口はずっと以前からN野化成の社員),盛んにN岡と交わりました。N岡も楽をして開拓奉仕をしたかったのでN野の申し出は「渡りに舟」でした。
しばらくの間N岡は「四人組」から仕入れたネタで問題を起こす機会が無く,おとなしくしていたのですが,1986年春だったかの群れの再編成で私の属する書籍研究の群れの司会者になったことで早速問題を起こし始めます。群れのメンバーは私とN岡夫婦,ほとんど不定期の未婚の中年姉妹,そしてB(姓名失念),T原,W辺の主婦三名とやもめのS村だったのですが,N岡は三名の主婦に取り入り,気遣いを示すように装って私に対する不満を煽り立てて敵対させようとしました。奉仕中の皆の雰囲気が異常であることに気づいた私は,異常にカリカリ・プリプリ歩いていたBを呼び止めて,一体どうしたのか?と尋ねました。予想通り,カリカリ・プリプリと不平不満を並べ立てるのですが,「姉妹,それは筋道が違うでしょ。それはそれ,これはこれ」と説明してやるとさっさと毒気が抜けました。Bは半o田派のN山(既に転出)の研究生でした。N山が論理ハチャメチャの「自称模範的姉妹」注解しながら自分の言っていることが理解できなくなるタイプであることを知っていましたが,Bも司会者と同じ傾向の主婦でした。しかし,o田派とI井派との抗争の時代を見ていたため,自分に対するN岡の取り入り型がI井のやり方そのものであることに気付いたようで,精神の安定を取り戻しました。心配そうな面持ちで監視していたN岡は,その後熱心にBに対するケアに励んだようですが,再び焚きつけることには成功しませんでした。
次にN岡がターゲットにしたのはS村の次にバプテスマを受けて日が浅いW辺(確か私と同い年)でした。性格的にハチャメチャなために二人の男の子の性格が悪く,伝道中に度々危険な行動をし,大人の伝道者に対して悪態を付くなど,いうなれば「問題児」だったのです。W辺はJWの教えにしたがって(いるつもり?)鞭を当てるのですが,それは端で見ていて気持ち悪くなるような単なる虐待で,しかも息子たちの方は慣れてしまっていて全く恐れておらず,男の子を精神的にリードする能力を欠いた母親であるがゆえの問題であることは見る者に明白でした。研究司会者はI井の妻だったのですが,さすがにI井の妻もW辺の責任は問われたくないと言って突き放してしまっていて,子供の行儀が悪いこともあってか門前払いばかりで,群れの成員からも半ば厄介者扱いされていることを感じ取って自尊心を失い,「(大空の浪人)があら捜しばかりするから息子たちは奉仕を楽しめないのだ」というN岡に注入された不満が爆発しました。
玉島の古い町並みは道路が細く,車が通ると歩行者は壁に張り付かなくてはならないところが多いのですが,W辺母子と前後して細い道を歩いていた時にそういう事態になりました。W辺はとっさにそばにいた次男の手をつかんで取り押さえたのですが,数メートル先の私の近くを歩いていた長男は車が目前に来ているのに平気でぶらぶらしていました。私はとっさに長男を背後から捕まえて取り押さえ,車をやり過ごしたのです。
ところが悪ガキの長男は私の手を振り払い,向き直って悪態を付きました。私は黙過できないと思って長男の両腕を掴み,睨み付けて「本当に危ないよ!」ときつく言いました。
その時,駆け寄って来たW辺は私を睨み付けて「兄弟!」と叫びました。それまでの経緯からW辺が言わんとしているかは分かっていました「なんでうちの子を目の敵にするんですか!(T原の子供は可愛がるのに!)」と続くはずでした。しかしW辺は次の瞬間泣き崩れ,座り込んで顔を覆ってすすり泣きました。悪ガキ二人が青くなって「おかあさん,どうした?」と駆け寄りました。
「兄弟,ごめんなさい。私が間違ってた…」顔を両手で覆ったまま目の前の私と子供たちにしか聞こえない微かな声でW辺は繰り返しつぶやきました。「いいよ,姉妹。分かってる。気にしなくていいから…」。私はW辺をとがめる必要を感じませんでした。
そこへ通りがかったのがN岡でした。N岡はすすり泣きが残っているW辺を見ると駆け寄って来て,「どうしたんですか,姉妹。話してください。私に話してください。何があったんですか!」としつこく話しかけました。W辺が無言で首を横に振ると私の方に向き直り,鬼の首を取ったような調子で偉そうに抜かしました,「兄弟,舌の用い方に気をつけてください!」と。
無言で睨み返した私に対してさらに「大勢の姉妹たちが兄弟の言葉に傷つけられて迷惑して…」と続けようとしたN岡をW辺が遮りました。「いいえ,兄弟に傷つけられたんじゃありません」。
鳩が豆鉄砲食らったように唖然としているN岡を尻目に,W辺は涙をぬぐい,二人の子供の手を引いてさっさと行ってしまいました。我に返っておろおろしているN岡をその場に残し,私も次の家に向かいました。
W辺までN岡の支配を脱したことはよほど恐ろしかったとみえて,後日N岡は私をつかまえて「この間のW辺姉妹の件は何だったんですか?」と恐る恐る聞いてきたので「さあ,虫の居所が悪かったんじゃないんですか」ととぼけてやりました。鴨方の「四人組」のさしがねでN岡が実行した破壊工作の内容は,犠牲になりかかったBとW辺の症状から明らかでしたが二人ともN岡の精神的支配を克服し,その種の作用に対する免疫を獲得したはずでした。残りの主婦T原は看護婦だったために精神的にたくましいところがあり,N岡に操られることはありませんでした。
それでN岡は,群れの中で唯一精神的に支配できるS村に対するコントロールを続けました。S村は素朴でおとなしい田舎の主婦型で,BやW辺のように煽られてヒステリーを起こすほど自我が強くなかったことが災いして,煮え切らぬまま水面下で私を中傷することを続けるうち,K原に対してまで見てきたような作り話で私を中傷し,K原の転居直前になってそれを突きつけられることになったのでした。
S村は直にS谷に泣きつくだろうと予想した通り,数日後にはT号が私を王国会館呼びつけ,「玉島会衆のS村姉妹を呼んで問いつめたそうだが,何を問うたのか」と詰問されました。私は「マタイ18章の問題の扱い方によれば,まだ『会衆に話す』段階ではないので,もし必要が生じたら会衆に話すが,必要が生じないよう願っている。聖書的な扱い方はそうであるはず」と答えたのですが,「おかしい,なぜ長老である自分に話せないのだ!」と怒りだし,「長老でも巡回でも,早まって告発する問題ではないので」と答えると「W狭のようなことを言いやがる!」と激怒しました。私は「必要が生じたら話しますから」と言い残して去りました。
一方S村は「考えておく」ことになっていたので,数日の後,K原はS村に電話してその結論を問いただしました。あらかじめ私が入れ知恵しておいた(S村の能力や思考パターンは把握しているので)筋道で質問を重ねたK原に対しシラを切り通そうとしたS村は自縄自縛に陥り,「(大空の浪人)は鴨方会衆で悪いことをして居られなくなったから玉島に来ている」と自分に吹き込んだのがN岡であることをS村は渋々認めました(種明かし:関係者の人数は限られているので,肯定されたら面倒になる(潔白と分かっている)者から名前を挙げて否定させてゆけばおのずとN岡に絞り込まれてゆく。具体名を挙げて問われ始めるとS村の頭の中は真っ白になって,N岡の名を挙げられたらどうしよう…と悩むばかりで,最初に名を挙げられたS口になすっておけば完全に逃れられることに気づくほど頭は良くない,N岡の名を挙げられた時に堂々と否定できるほど神経は太くない…と予想した通りだったが,これが裏目に)。
S村に事の核心を白状させたK原は得意になり,鴨方のアパートを引っ越しのための掃除にゆく前の日の午後,電話で巡回のO本に報告しました。私は繰り返し,まだこれだけでは証拠として不十分で防御にしか役立たないから,決定的な証拠をつかむまで一切を伏せておき,ただ「アパートが見つかったのでこれから引っ越しの準備をします」とだけ伝えるように,と勧めたのですが,N岡の名前を白状させたことでO本がS谷ら偽善者一味を一網打尽に追放してくれて,私と晴れて結婚できると舞い上がっていたK原は,ついつい勢い込んで「(大空の浪人)について中傷を聞かされたのでS村姉妹を問いただしたらN岡兄弟の名前が出てきましたけど」と得意気に口にしてしまったようなのです。
それまで「引越しの目処が立って良かった,良かった」だったO本はそれを聞くと電話の向こうで態度が豹変し,「それは姉妹が考えているより遥かに恐ろしい問題だ。鴨方へなど移動することにしなかった方が身のためだった。鴨方へ行ったら奉仕だけして,その件には一切関与しないでほしい。もしそれで問題が起きたら自分はかばってあげられない」と厳しくたしなめられたというのです。
K原が私のところにヒステリックに電話を掛けて来たのが確か午後四時頃で,二時間近く堂々巡りの不満や失望を並べ立てては私を非難し続けました。電話ではラチがあかないのでK原の家(実家)に行ったのですが,それから延々数時間,真夜中まで,堂々巡りの非難をされました。K原にとっては得意の絶頂だった昼から急転直下,失意のどん底へ突き落とされたのですから無理も無いのですが,より深刻なパニックに陥っていたのはN岡たちの側だったのです。後日,私を不正に排斥する審理委員の一人,倉敷中庄会衆の主宰監督S見は当時の状況について「何も知らないで玉島会衆へ出張講演に行ったら,S谷もN岡もI井も顔色は真っ青で,時には声が震えていた。会衆内にそのような緊張を生み出した悪い奴だ」と口にしていました。
ともあれ,翌日,K原は予定通りアパートの掃除に行き,私も途中から合流して手伝い,二・三日のうちに家具を搬入するなどしてK原は,子供の夏休み入りを目前に鴨方会衆へ移動したのでした。(続きは二・三日中に書きますね)
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