人名は仮名です。
わたしは1986年9月付で再び鴨方会衆へ移転しました。
しかし、そこの長老である鈴木は「真備会衆の作本兄弟は巡回の沢本兄弟に紹介されて始めたポンポン菓子の移動販売で儲けて家を新築した。
あれは開拓奉仕に適している。自分も始めようと思うが開業資金として150万必要だ」とか金や車の話をするばかりで会衆の問題に取り組む姿勢を見せず,
高校生の長男を私の自営業のビル清掃業に雇わせて給料泥棒させることに加え,
鈴木の妻までが金や仕事を提供せよと私に要求するようになり,
私がそれに応じないと一々ヒステリーを起こして敵対的になってゆき,
1997年春頃には鈴木自身まで玉島会衆の林野母娘への援助や沢村の問題の扱いを
巡って露骨な敵対状態になりました。
ここで金原姉妹,つまり鈴木に寝返って私を売った女が登場します。
金原は倉敷市玉島の兼業農家の出身,そこで年下の男性と結婚して
その両親と同居し女の子と男の子を各一人生みます。
結婚後ほどなくして夫は失職し,暴力団の麻雀賭博に入り浸るようになって定職に就かず,金原自身が歯科医院の事務職をして生活を支えたのですが,夫の暴力は激しくなり,ついには長女の幼稚園の給食費まで持ち出して賭博ですってくるようになったため,長女の小学校入学を目前に協議離婚して玉島の実家へ帰り,歯科保険請求事務の人材派遣会社のような企業で一つのチームのリーダーをして子供を養っていました。
世俗のコミックから「ハルマゲドン」に興味を持っていて,
伝道に来たJWの口から「ハルマゲドン」と聞いたことで研究に応じ,
伝道に出るようになったところで玉島へ転籍した私と鉢合わせして一目惚れしたという経緯です。
週一回の会衆の夕方の伝道に意欲的に出て来て,その後半一時間ほどは私と金原+子供の
だけになるのが普通で,いろいろと身の上話を聞かされました。
中でも,高校時代に交換日記をしていた初恋の人と別れさせられ
他の男性と見合いを強要されたことで自殺を考えて夜中に海岸へ行った
とか,それで家出して都会へ行って一人で心細かったのが,拾って力になってくれた
女の人が実はやくざの組長の隠し子で,人の誠意の尊さに目覚めた,とか,
堅物だった私は美しい話として真に受け,金原のことを人一倍純粋で誠実で
献身的な薄幸の女性…と信じて疑わなかったのです。
翌月から金原は私の月一回の定期清掃に10月からアルバイトの一人として
来ることになったのです。
沢口から沢谷に代わったら晩の奉仕が無くなってしまったというので,だったら
鴨方の晩の奉仕に飛び入りで来るよう勧めたのですが,話を聞くうちに
当時小学二年生の長男のことがもっと深刻な問題であることが分かってきました。
行儀も成績も悪く,自分の手に負えないので沢谷に相談したが,
軽蔑の眼差しを向けられただけで,何の援助もしてくれない…というのです。
それから時々午後に寄っては息子の相手をしてやりました。
12月も後半に入る頃,私と特別な関係にあるように金原自身が玉島会衆の成員に
吹聴している節があったので「相当,状況は改善されたし,あとは親の責任を果たしてゆけばよい。JWが会衆の成員の子供の家庭教師を引き受ける場合は相応の報酬を取り決めるのが常識だけど経済的に無理だろうから,特に結婚前提の交際でないのにこのまま続けるのは誤解を招くから,専属的に教えに来るのはこれで終わりにしたい」と伝えて帰りました。
金原の車の後部座席に乗って話を聞くと,要するに「結婚してほしい」と。
その前に再婚の自由がある状況なのか確認しなくてはならないし,そんな状況で長話もできないから,翌日昼前にK原の家に行って話し合うことにして帰しました。
翌日は20日の土曜日だったはずで,子供たちが帰って来るまでに個人的な事情を聞いたのですが,結婚を前提に付き合うことにしたのです。
ただ,私との仕事や車の関わりから沢谷などを刺激しないように,具体的な目処が立つまでは交際を伏せておくことにしました。
そうして年が明け,息子の方は目つきまで変わって一応の優等生になり,
ウチの両親に紹介できるかと思うようになっていた春先,巡回大会で金原は
移動希望者の会合に出て,私との交際を伏せたまま鴨方会衆への移動の意思を表明しました。
巡回の沢本はひどく喜び,金原の鴨方会衆への移動を歓迎しました。
その後、鈴木の口から金原の転入について全く話を聞かないので,
鈴木の家に行った機会に鈴木に確認するよう金原に勧めました。
悪い予感がしたので「巡回監督の沢本から聞いているか?」とだけ尋ねるよう勧めておたのですが,鈴木は頭ごなしに「移動して来る必要は無い」と言い張り,取りつく島が無い状態だったそうです。金原がそのことを沢本に報告すると「せっかく移動してくれるというのに,なぜ反対するのか理解できない…」と言われたそうですが,鈴木自身,
私に対して金原のことを「余計なことをする奴だ」と忌ま忌ましそうに語りました
金原にそのことを話し,鈴木が金原の移動を承認して会衆として宿舎を探す見込みは無いことを伝えました。
宿舎の方は私が目をつけていた古い木造二階建てモルタル塗りのアパートが,住人に尋ねてみると倉敷市玉島の生コン会社の社宅ながらほとんど一般の人に貸していて空きもあることが分かり,金原が入れることになりました。
家の手配と平行して,金原が思い出した事実の一つに,私と同じ群れであった,
沢村が金原に対して(大空の浪人)は鴨方会衆で悪いことをして居られなくなったから
「玉島に来ている」と吹聴していたという件がありました。それで沢村を
金原の家に呼んで,私の面前で問いただしたのですが,沢村は金原に
そのように吹聴した事実は認めたものの,誰からそれを聞かされたかについては
答えるのを渋り「教えるかどうかは考えておく」として帰りました。
しばらくして鈴木が私を王国会館呼びつけ,「玉島会衆の沢村姉妹を呼んで問いつめたそうだが,何を問うたのか」と詰問されました。私は「マタイ18章の問題の扱い方によれば,まだ『会衆に話す』段階ではないので,もし必要が生じたら会衆に話すが,必要が生じないよう願っている。聖書的な扱い方はそうであるはず」と答えたのですが,「おかしい,なぜ長老である自分に話せないのだ!」と怒りだし,「長老でも巡回でも,早まって告発する問題ではないので」と答えると「若狭のようなことを言いやがる!」と激怒しました。私は「必要が生じたら話しますから」と言い残して去りました。
一方沢村は「考えておく」ことになっていたので,数日の後,金原は沢村に電話してその結論を問いただしました。あらかじめ私が入れ知恵しておいたた沢村は自縄自縛に陥り,
そして金原は沢村に事の核心を白状させたました。
金原は得意になり,鴨方のアパートを引っ越しのための掃除にゆく前の日の午後,
電話で巡回の沢本に報告しました。私は繰り返し,まだこれだけでは証拠として不十分で防御にしか役立たないから,決定的な証拠をつかむまで一切を伏せておき,ただ「アパートが見つかったのでこれから引っ越しの準備をします」とだけ伝えるように,と勧めたのですが,偽善者一味を追放してくれて,私と晴れて結婚できると舞い上がっていた金原は,
ついつい勢い込んで沢村姉妹を問いただしたら中岡兄弟の名前が出てきましたけど」と得意気に口にしてしまったようなのです。
それまで「引越しの目処が立って良かった,良かった」だった沢本はそれを聞くと電話の向こうで態度が豹変し,「それは姉妹が考えているより遥かに恐ろしい問題だ。鴨方へなど移動することにしなかった方が身のためだった。鴨方へ行ったら奉仕だけして,その件には一切関与しないでほしい。もしそれで問題が起きたら自分はかばってあげられない」と厳しくたしなめられたというのです。
金原が私のところにヒステリックに電話を掛けて来たのが確か午後四時頃で,二時間近く堂々巡りの不満や失望を並べ立てては私を非難し続けました。
電話ではラチがあかないので金原の家に行ったのですが,それから延々数時間,真夜中まで,堂々巡りの非難をされました。
なにはともあれ,翌日,K原は予定通りアパートの掃除に行き,私も途中から合流して手伝い,二・三日のうちに家具を搬入するなどしてK原は,子供の夏休み入りを目前に鴨方会衆へ移動したのでした。
つづく
わたしは1986年9月付で再び鴨方会衆へ移転しました。
しかし、そこの長老である鈴木は「真備会衆の作本兄弟は巡回の沢本兄弟に紹介されて始めたポンポン菓子の移動販売で儲けて家を新築した。
あれは開拓奉仕に適している。自分も始めようと思うが開業資金として150万必要だ」とか金や車の話をするばかりで会衆の問題に取り組む姿勢を見せず,
高校生の長男を私の自営業のビル清掃業に雇わせて給料泥棒させることに加え,
鈴木の妻までが金や仕事を提供せよと私に要求するようになり,
私がそれに応じないと一々ヒステリーを起こして敵対的になってゆき,
1997年春頃には鈴木自身まで玉島会衆の林野母娘への援助や沢村の問題の扱いを
巡って露骨な敵対状態になりました。
ここで金原姉妹,つまり鈴木に寝返って私を売った女が登場します。
金原は倉敷市玉島の兼業農家の出身,そこで年下の男性と結婚して
その両親と同居し女の子と男の子を各一人生みます。
結婚後ほどなくして夫は失職し,暴力団の麻雀賭博に入り浸るようになって定職に就かず,金原自身が歯科医院の事務職をして生活を支えたのですが,夫の暴力は激しくなり,ついには長女の幼稚園の給食費まで持ち出して賭博ですってくるようになったため,長女の小学校入学を目前に協議離婚して玉島の実家へ帰り,歯科保険請求事務の人材派遣会社のような企業で一つのチームのリーダーをして子供を養っていました。
世俗のコミックから「ハルマゲドン」に興味を持っていて,
伝道に来たJWの口から「ハルマゲドン」と聞いたことで研究に応じ,
伝道に出るようになったところで玉島へ転籍した私と鉢合わせして一目惚れしたという経緯です。
週一回の会衆の夕方の伝道に意欲的に出て来て,その後半一時間ほどは私と金原+子供の
だけになるのが普通で,いろいろと身の上話を聞かされました。
中でも,高校時代に交換日記をしていた初恋の人と別れさせられ
他の男性と見合いを強要されたことで自殺を考えて夜中に海岸へ行った
とか,それで家出して都会へ行って一人で心細かったのが,拾って力になってくれた
女の人が実はやくざの組長の隠し子で,人の誠意の尊さに目覚めた,とか,
堅物だった私は美しい話として真に受け,金原のことを人一倍純粋で誠実で
献身的な薄幸の女性…と信じて疑わなかったのです。
翌月から金原は私の月一回の定期清掃に10月からアルバイトの一人として
来ることになったのです。
沢口から沢谷に代わったら晩の奉仕が無くなってしまったというので,だったら
鴨方の晩の奉仕に飛び入りで来るよう勧めたのですが,話を聞くうちに
当時小学二年生の長男のことがもっと深刻な問題であることが分かってきました。
行儀も成績も悪く,自分の手に負えないので沢谷に相談したが,
軽蔑の眼差しを向けられただけで,何の援助もしてくれない…というのです。
それから時々午後に寄っては息子の相手をしてやりました。
12月も後半に入る頃,私と特別な関係にあるように金原自身が玉島会衆の成員に
吹聴している節があったので「相当,状況は改善されたし,あとは親の責任を果たしてゆけばよい。JWが会衆の成員の子供の家庭教師を引き受ける場合は相応の報酬を取り決めるのが常識だけど経済的に無理だろうから,特に結婚前提の交際でないのにこのまま続けるのは誤解を招くから,専属的に教えに来るのはこれで終わりにしたい」と伝えて帰りました。
金原の車の後部座席に乗って話を聞くと,要するに「結婚してほしい」と。
その前に再婚の自由がある状況なのか確認しなくてはならないし,そんな状況で長話もできないから,翌日昼前にK原の家に行って話し合うことにして帰しました。
翌日は20日の土曜日だったはずで,子供たちが帰って来るまでに個人的な事情を聞いたのですが,結婚を前提に付き合うことにしたのです。
ただ,私との仕事や車の関わりから沢谷などを刺激しないように,具体的な目処が立つまでは交際を伏せておくことにしました。
そうして年が明け,息子の方は目つきまで変わって一応の優等生になり,
ウチの両親に紹介できるかと思うようになっていた春先,巡回大会で金原は
移動希望者の会合に出て,私との交際を伏せたまま鴨方会衆への移動の意思を表明しました。
巡回の沢本はひどく喜び,金原の鴨方会衆への移動を歓迎しました。
その後、鈴木の口から金原の転入について全く話を聞かないので,
鈴木の家に行った機会に鈴木に確認するよう金原に勧めました。
悪い予感がしたので「巡回監督の沢本から聞いているか?」とだけ尋ねるよう勧めておたのですが,鈴木は頭ごなしに「移動して来る必要は無い」と言い張り,取りつく島が無い状態だったそうです。金原がそのことを沢本に報告すると「せっかく移動してくれるというのに,なぜ反対するのか理解できない…」と言われたそうですが,鈴木自身,
私に対して金原のことを「余計なことをする奴だ」と忌ま忌ましそうに語りました
金原にそのことを話し,鈴木が金原の移動を承認して会衆として宿舎を探す見込みは無いことを伝えました。
宿舎の方は私が目をつけていた古い木造二階建てモルタル塗りのアパートが,住人に尋ねてみると倉敷市玉島の生コン会社の社宅ながらほとんど一般の人に貸していて空きもあることが分かり,金原が入れることになりました。
家の手配と平行して,金原が思い出した事実の一つに,私と同じ群れであった,
沢村が金原に対して(大空の浪人)は鴨方会衆で悪いことをして居られなくなったから
「玉島に来ている」と吹聴していたという件がありました。それで沢村を
金原の家に呼んで,私の面前で問いただしたのですが,沢村は金原に
そのように吹聴した事実は認めたものの,誰からそれを聞かされたかについては
答えるのを渋り「教えるかどうかは考えておく」として帰りました。
しばらくして鈴木が私を王国会館呼びつけ,「玉島会衆の沢村姉妹を呼んで問いつめたそうだが,何を問うたのか」と詰問されました。私は「マタイ18章の問題の扱い方によれば,まだ『会衆に話す』段階ではないので,もし必要が生じたら会衆に話すが,必要が生じないよう願っている。聖書的な扱い方はそうであるはず」と答えたのですが,「おかしい,なぜ長老である自分に話せないのだ!」と怒りだし,「長老でも巡回でも,早まって告発する問題ではないので」と答えると「若狭のようなことを言いやがる!」と激怒しました。私は「必要が生じたら話しますから」と言い残して去りました。
一方沢村は「考えておく」ことになっていたので,数日の後,金原は沢村に電話してその結論を問いただしました。あらかじめ私が入れ知恵しておいたた沢村は自縄自縛に陥り,
そして金原は沢村に事の核心を白状させたました。
金原は得意になり,鴨方のアパートを引っ越しのための掃除にゆく前の日の午後,
電話で巡回の沢本に報告しました。私は繰り返し,まだこれだけでは証拠として不十分で防御にしか役立たないから,決定的な証拠をつかむまで一切を伏せておき,ただ「アパートが見つかったのでこれから引っ越しの準備をします」とだけ伝えるように,と勧めたのですが,偽善者一味を追放してくれて,私と晴れて結婚できると舞い上がっていた金原は,
ついつい勢い込んで沢村姉妹を問いただしたら中岡兄弟の名前が出てきましたけど」と得意気に口にしてしまったようなのです。
それまで「引越しの目処が立って良かった,良かった」だった沢本はそれを聞くと電話の向こうで態度が豹変し,「それは姉妹が考えているより遥かに恐ろしい問題だ。鴨方へなど移動することにしなかった方が身のためだった。鴨方へ行ったら奉仕だけして,その件には一切関与しないでほしい。もしそれで問題が起きたら自分はかばってあげられない」と厳しくたしなめられたというのです。
金原が私のところにヒステリックに電話を掛けて来たのが確か午後四時頃で,二時間近く堂々巡りの不満や失望を並べ立てては私を非難し続けました。
電話ではラチがあかないので金原の家に行ったのですが,それから延々数時間,真夜中まで,堂々巡りの非難をされました。
なにはともあれ,翌日,K原は予定通りアパートの掃除に行き,私も途中から合流して手伝い,二・三日のうちに家具を搬入するなどしてK原は,子供の夏休み入りを目前に鴨方会衆へ移動したのでした。
つづく