昼寝するぶた 掲示板過去ログ:#1391

昼寝するぶた

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No.1391 1351の補足訂正&第二部 投稿者:大空の浪人 投稿日:2002/11/06 22:41 元1世兄弟 冤罪で排斥でーす 壊れた事はないです 40代中盤   
1351の補足訂正
@倉敷市玉島会衆の歴史の部分で,o田とI井の長老クビによって「ベテル長老のS口と,ヘボ二世のK藤,比較的まともな一世のO根の両奉仕の僕」の「K藤」を「Kn藤」に訂正。こいつは後に笠岡会衆の主宰監督でありながら馬の糞T号の暴力闘争を支援するために鴨方会衆に移動し,その後,若い姉妹に手を着けようとして長老クビになったK藤とは別人。K藤ほどのワルではなく,ヘボいだけ。
A同じく,K原に対して「(大空の浪人)は鴨方会衆で悪いことをして居られなくなったから玉島に来ている」と吹聴していたS村をSi村に変更。これは巡回監督のS村とは別人。
BK原が鴨方会衆への移動を申し出たのは1987年4月上旬の倉敷市民会館での巡回大会が正しい。府中市での巡回大会は1986年秋で,その大会会場でK原のために,福山市本庄会衆の二世JWからクラッチ板破損で4速巡行不能のスバル・サンバーをガソリン入り二千円で引き取って自走させて私の車庫まで帰り,後日自分で修理してK原に提供してやった。それまでの軽乗用車は私の近所のオッサンに元々買った値(5万円)で転売。つまりK原はその間ほとんどタダで軽乗用車を使い,二千円+クラッチ板実費でスバル・サンバーを翌年の車検切れまで使った(どちらの車もポンコツだったが)。その後私は1987年3月下旬にH野の家を訪ねて援助を開始するが,4月上旬の倉敷の巡回大会へH野はK原の車に便乗して出席した。その時H野は心身ともに弱っていて席に座ってプログラムを聞くことができず,救護部門へ連れて行って横にならせたこともある。
CK原が鴨方のアパートに引っ越したのは1987年6月下旬が正しい。以下に詳述するように,その後7月上旬にO本による巡回訪問,8月上旬に米子市での地域大会,と続く。



第二部 K原転居から不正排斥まで

H野とS村の件で私に敵対するようになった馬の糞T号は,既に掲示板に張り出されていた神権学校・奉仕会の予定を書き直して私の割り当てを無くし,E口に割り当てました。それまで,奉仕の僕であるE口に対しては冷遇していたのですが,一転して「E口兄弟,E口兄弟」とすり寄って行き,E口の前でわざわざ港の名を挙げて褒めちぎることまで始めました。E口はN野と共にK野が水に浸けた偽JWで,1983年頃福山市の日本鋼管を退職して汲m野化成の従業員となり,以来,デリカ・ワゴン+軽乗用車を乗り回して四人の子供を養いながら夫婦で正規開拓者(!)という異常待遇を受け,K子・Y田・N野に加わって「四人組」を形成していました。
そしてT号は急に,西隣りの笠岡会衆との区域の境界を変更しました。浅口郡里庄町は笠岡会衆の区域なのですが,里庄町と鴨方町との行政区画で区切ると境界付近はどの家までが区域なのか不明瞭になるのですが,実際に両方の会衆で二重に訪問している集落があることに気づいた私が,K野夜逃げの直後の時期に強く提言して県道でスパッと区切るよう変更させていたのですが,T号はそれを行政区画による区切りに戻しました。T号がそうした理由は,
@K原が鴨方会衆への移動を希望する理由として鴨方会衆に含まれる集落に親戚があることを挙げていたため,そこが笠岡会衆の区域になるよう境界を変更することでK原の鴨方への移動を阻もうとした。
A当時の鴨方会衆の成員で事実上唯一,京阪神の諸会衆との人脈を持つ古い主婦の姉妹S利を,笠岡会衆へ追い出し,K野時代のように鴨方を霊的鎖国状態にしようとした(S利の家は私の家から鴨方の王国会館へ行く途中にあるのですが,行政区画ではそこは里庄町なのです)。
区域境界変更の副産物として,それまで笠岡会衆に交わっていた主婦のO笠原がS利と入れ代わりに鴨方会衆へ転入することになりました。
前後してT号は,会衆の伝道において,私に一人だけ別の方角へ行くよう命じ,奉仕時間の最初から最後まで決して他の者と一緒に回ることのないようにしました。T号自身が奉仕を司会する時だけでなく,E口にもそのように徹底させました。「そのようなことでは会衆の奉仕に参加する意味も無いので,自分で奉仕するから区域をくれ」と要請しましたが,理由の説明もなく無視されました(もちろん一人なのを良いことに,十分多めに回ったと報告しておいて,自分の晩の奉仕に使うことで対抗しましたけど)。笠岡会衆から変わって来たO笠原はその状況の異様さに驚き,「なぜ?」と訪ねたそうですが,T号の睥睨の前に沈黙しました。つべこべ言うなら自分も同じ嫌がらせを受けると理解したからです。
区域境界の変更までしたのにK原がアパートに引っ越し,鴨方会衆の集会に出席するようになると,T号は演壇から私とK原とを交互に睨み付け,注解で手を挙げても当てず,皆が答えて終わった後で突然当てる,という嫌がらせを始めました。それは特にK原の二人の子供に対して苛烈でした。ものみの塔研究など特に,それまで私の指導で,弟が読めない漢字には姉に仮名をふらせ,姉に読めない漢字にはK原が仮名をふって全ての漢字を読めるようにし,可能な限り全ての質問に答えを準備する習慣だったK原の子供たちは,そのT号の嫌がらせで打ちのめされます。
しかしそれでもK原が伝道で他の成員と隔離されるとか,村八分にされるとかいうことはなく,逆に「交わり」の名目でE立などT号の手先を押しかけさせてK原を監視させ,私と手を切るよう圧力をかけました。7月上旬のO本の巡回訪問の際,T号は集会後K原を一人だけ王国会館に残らせ,O本の面前で「(大空の浪人)と手を切らなければ同じ目に遭わせる」と脅しました。O本は小さくなっていて何も言わなかったそうです。玉島会衆のS谷らもグルになり,玉島会衆で仲のよかった成員たちを次々にK原のもとに差し向け,無言の(後には明確な)圧力をかけさせました。
T号は特に,知能が低くて行儀の悪い中学生の次男の不行跡に関して長老クビにしようと私が企んでいると思い込んでいたらしく,つまらぬことで私を呼びつけては「言う通りにしないと倉敷の長老たち(港,巻,S見,馬の糞U号ら)を呼んで処置を取るぞ!」と恫喝するようになっていました。何度かその件で巡回のO本に相談に行ったのですが,「(港らは)自分の会衆に対する長老なので,彼らを呼ぶというのは筋が違うから,気にすることはない」という態度でした。
玉島会衆のH野は唯一の友のような存在のY浦母娘に対する処遇を見て,私を敵に売る取り引きを進めていました。やはりやもめであったY浦(田舎の不気味な婆さん)にはY子という一人娘がいましたが,無口で無表情で虚ろな目をした妖怪のような不気味な娘で,派手にグレたH野の娘J子と双璧をなす玉島会衆の厄介者だったのです。それをなぜかS谷の妻が専属的に研究を司会してやるようになり,作法から化粧まで一から仕込んだことで,別人と見紛う健康的な娘に変身したのです。Y浦とY子に対するS谷夫妻の優遇策が,自分の息子とJ子をも優遇してもらいたければ寝返れ,と促す取り引きの申し出であることをH野は理解していました。J子の離婚の賠償金で借金を返済して玉島からよそへ引っ越したい,と常々口にしていたのですが,借金を返済した残りはさっさと無駄遣いして元の木阿弥になっていて引越しどころではありませんでした。玉島会衆で生きてゆくためには寝返る以外に道は無く寝返りさえすればJ子もY子のように優遇してもらえる…と当時のH野は期待したのです。
8月上旬に米子産業体育館での地域大会がありました。H野が出席できるよう,K原が弟のワンボックスを借り,私が運転してK原母子とH野母娘とで米子の大会へ行きました。食費を含め費用のほとんどを私が負担してやったのですが,その時までH野は,K原の借りたアパートに空きがあるので,借金を清算したらそこへ引っ越す,という計画を口にしていました。
米子の大会から帰るとH野はなぜか引越しに優柔不断になり,ついには「引越し費用が無くなったので当面,玉島にとどまる」と言いだします。K原は米子大会の間からH野の変節を察していたようで「放っておけばよい」と言いだしましたが,それはH野が既に私とK原との間で両者に嘘を言って別れさせる工作を始めていたからでした。K原と話していてその点を認識した私はH野を訪ね,話の中で婉曲にそれらの点を問いました。H野は話をそらしましたが「顔に書いてある」状態でした。私にとってはそれで十分で,H野が私とK原との婚約関係等々をS谷らにタレ込んでいるであろうことも確認しました。私は遠くない将来にH野母子に臨むであろう天の裁きを予見して気の毒に思いながらも,厚顔な裏切りにむかつくものを感じ,もはや長居は無用なるゆえさっさと帰ろうとしたのですが,H野はやれ「お茶をもう少し」だの,「しそジュースを飲んで行け」だのと私を引き止め,一言でも多くK原の情報を引き出そうとしているのが丸見えでした。
引き止めるH野を気まずさを克服して振り切り,その家を出たのですが,後日聴聞会の席上,K原はそのH野邸への最後の訪問について「今,(大空の浪人)が来て,特に用も無いのに長い時間粘られて,やっと帰ってもらったところよ」とH野が電話をくれたと言っていました。H野はそのようにしてK原を手玉に取り,一連の行動は私に騙されて,或いは強いられてなしたものである,ということにして互いの立場を確保しよう,と持ちかけていたのです。
K原は巡回のO本が彼らを始末してくれないのであれば問題は永久に解決しないように思い込み,「JWなんか辞めて一緒になろう」と私に何度もせがみました。K野や「四人組」の弾圧を跳ね返し破滅に追い込んできた経験からT号の行く末を見通す私にとってそれはあり得ない選択でしたが,組織の薄汚い裏側に初めて直面したK原は先を読むことができず,そのために8月中旬には表面上,私との関わりを絶ちます。
なおも「一緒に脱退しよう」としつこくせがみながら私がそれに応じないと思い知るとK原は「『悔い改めた』ことにすれば自分は優遇してもらえる」と言いだしました。それはK野時代の泥沼の入り口で「不品行」でっち上げに協力させられ,その後,闇の女王として暗躍してきたE立を通じての寝返り交渉が進んでいることを示すものでした。「背教者であることが分かりきっている奴らに寝返っても,利用されて捨てられるだけだから,鴨方へ引っ越した頃に言っていたように,何もしないまま静かに遠くへ引っ越して行くのが一番安全だ」と勧めたのですが,K原はそれでキレて私と絶縁しました。K原はその後ほどなくしてT号に私と絶縁する意思を伝えたようで,K原母子に対するT号の恫喝的な態度は終息しましたが,K原にとってはまだ不十分でした。
K原は私に提供させていた二台目の軽スバル・サンバーを9月14の車検切れまで使い,かつて私を待ち伏せして結婚を申し込んだウチの車庫の駐車場へ投げ出して帰り,10月には倉敷中央会衆(?)での開拓奉仕学校にW狭の妻そしてE立と車に乗り合わせて出席します。K野泥沼化の入り口で鴨方に引っ越して来たW狭の妻は,「三人組」の泥沼を打開する目的で自分の躁鬱病の夫に虚偽を吹き込み,1984年10月12日(金)の晩,王国会館へ私を呼びつけて殴らせる企てに利用していました。K原はそれら,偽りと暴虐の会衆を実現した者たちとの密な交友によってT号に私を売る決意を固め,開拓奉仕学校が終わった10月後半にT号の情婦になります。
それを境にK原母子はT号の寵愛を受けるようになりました。集会に来ればT号はわざわざ出迎え,にこにこしながら子供たちにも言葉をかけ,注解も普通に当て,社交的な交わりにも欠かさずK原母子を加えるようにさせ,あらゆる面でE立やW狭の妻らのように優遇したのです。
K原母子を優遇するのと平行してT号は,王国会館においても私の周囲をうろついて監視し,うっかり私に声をかける成員を睥睨して追い払うことまでするようになりました。
そうして1987年11月8日(日)の集会の後,T号は「今夜七時から審理委員会を開くので来るように」と私に言い渡しました。普通,聴聞会への呼び出しは書面ですることになっているので,その書面を求めたのですがT号は「来いと言われたら来ればよいのだ!」と怒鳴っただけで,聴聞会の目的も何も全く明らかにしませんでした。
言われた通り午後七時に鴨方会衆の王国会館へ行くと,予想通りそこには港(当時・倉敷酒津会衆主宰監督)と巻(同・鶴形会衆主宰監督),そしてS見(同・中央会衆主宰監督…中央会衆は不正排斥の後に中庄会衆と生坂会衆に分会)が来ていて,K原に変態的な性行為を涙ながらに描写させては,それを認めるよう強要して夜半過ぎまで粘りました。
三名はそれぞれ(T号はアホだから口を挟めず,目顔で港らに媚を売っていただけ),一人がなす言いがかりに私が有効に反論すると他の者たちがそれぞれ別々の事をわめいてはぐらかし,突然紳士的な態度で話し始めた者の話を聞いていると別の者が「罪を認めた」と,自分のノートに堂々と書いて見せる,というやり方で延々と粘りました。
K原が涙ながらに描写してみせた「淫行」とは,鴨方へ引っ越す前後,K原の家や鴨方のアパートの部屋で,ワンワンスタイルで「強引に・無理やりに」された,というもので(今から思えば噴飯物なのですが),奴らの要求を要約すれば「K原をここまで追い詰めて傷つけた責任を取って(架空の)罪を認めろ!」というものでした。
好きな相手とワンワンスタイルで性交を重ねておいて「無理やりに・強引に」はあり得ないことは童貞の私にも見抜けましたが,それは過去に暴力団に囲われ(恐らくは覚せい剤を併用した異常な性行為を仕込まれ,売春させられ)ていたK原の性的なトラウマを表現しているもののように思い込んでいました。
私に架空の「淫行」劇を認めさせることに成功しないまま,午前零時をかなり回ったのでその日の聴聞会は閉じたのですが,その次の火曜日(?)の午後にも聴聞会をするので王国会館に来るよう命じられました。それは私の定期清掃の作業日であり,架空の「淫行」劇を認める意思の無いことを私が明言しているにもかかわらず「逃げるのは罪を認めることだ!」とか言いながら一味はしつこく私を限界まで引き止めましたが,架空の罪を認めさせることはできませんでした。
馬の糞T号はその時まで,長男を私の仕事に雇わせて給料泥棒させていました。元々この月一回の定期清掃の契約は,T号と一緒にバプテスマを受けた福山市引野会衆(当時)のヘボ長老N村の要請で私がオーナーと交渉して成立させ,一割程度のリベートでN村が実施するはずのものだったのですが,N村に任せた途端に無断ですっぽかして店に迷惑をかけるなどしたために私の責任でこなしてきており,自分で契約を取る能力の無いN村はひどく私をねたんでいて,T号はこの定期契約を横取りするべく,1987年3月頃からN村とつるんでそれまでの不可欠なメンバーを参加させなくする一方で,自分の息のかかった福山市大門会衆の主宰監督T橋の四人の子供たちと,大門会衆のヘボ二世K瀬を私に採用させて占領させるようにしていたのです。K原は私と絶縁したために8月から参加しなくなっていて,不正排斥の聴聞会が始まった11月の時点でT号が送り込んだ者たち以外の常連スタッフは笠岡会衆の未婚の姉妹K林(K原と同年)一人になっていました。
そうして狂気の聴聞会も泥沼化した12月の作業予定の日の午後,というより夕方になって(作業開始は閉店時刻の午後六時半)T橋の長男が電話をかけてきて「今夜の作業には自分も自分の兄弟姉妹も誰も参加できない」と言いました。前後してK瀬のパートナーのJWが電話をかけてきて「今夜の作業には参加できない」というK瀬からの伝言を伝えて来ました。急用が出来たというのがおよその言い訳だったのですが,特にT橋の長男の場合は電話の側に父親を除く家族が集まっていることが明らかで,それは紛れもなく意図的な業務妨害でした。
もちろんボイコットした奴らは皆給料泥棒だったので,作業自体はプロフェッショナルのK林と私の二人で必要十分こなせるものの,それをすればたちまち「性の不道徳」の言いがかりを付けられるのは明らかだったため,K林に頼んで笠岡会衆周辺のJWのうち手伝ってもらえる者を探して,主婦のk藤(当時笠岡の主宰監督K藤とも,玉島会衆の奉仕の僕Kn藤とも別人)に来てもらえることになったので予定通り作業開始に踏み切り,一方私の方は8月にK原がボイコットしたあたりから取り引きのあった倉敷市の神権家族K閑の長男・次男と連絡が付いて急遽駆けつけてもらい,無事に作業をこなすことができました。
しかし,翌日それを知ったT号一味は直に笠岡の主宰監督K藤を通じてk藤を恫喝して翌月からの継続参加を断念させ,K林を恫喝して以後会衆の成員に参加を呼びかけることのないよう命じました。その時点でK閑たちは特に圧力を受けませんでした。
狂気の聴聞会はほぼ毎週一度の頻度で合計十回余り繰り返されました。半ばで一回だけO本が参加したが,その際のO本の言いぐさはまるで自分の女であるK原に勝手に手を出して傷つけた,と言わんばかりのもので,唖然としました。
H野も一度(おそらくはO本の後),S谷の車で来て聴聞会に参加し,私に騙されてS谷ら会衆組織に敵対し,鴨方へ引越しさせられるところだった,と偽証しました。当初,港らの誘導に乗っていい気になって偽証を重ねていたH野は,そのうちに「乱交目的で女性を雇い,鴨方へ呼ぼうとした」という非現実的な「淫行」や「背教」の罪を着せて排斥するという大それた悪事の片棒を担がされていることに気づいたらしく,良心の呵責からか中途半端な偽証に終始するようになったため,港らは最後には苛立ってH野を帰らせました。
1987年12月下旬,年末なので次の聴聞会は二週間後であることを告げた際,巻は「これで終わるなどと思わないことだ!」と私を脅しました(そのほとんど十年の後,広島会衆「事件簿」で全く同じ口上を読んだ時には驚きました)。
その頃にはK原による「淫行」でっち上げが行き詰まっていたため,聴聞会の内容のほとんどは玉島や笠岡で誰がどの程度忠実な成員であるのか私に白状させようとすることに終始するようになっていました。
私がそれに応じないと,港は玉島会衆で私と同じ群れだった主婦のJWたちを順次取り調べることにしたと言い,尋問する予定の個人名を挙げ始めました。それは(当然にSi村を除く)それら主婦のJWたちが港らの陰謀に加担することを拒否しようものなら「淫行」あるいは「姦淫」の罪を着せられて不正に排斥されるということを意味していました。
1988年も明け,狂気の聴聞会も十余回目を迎えた頃,(おそらく金曜日晩の)最後の聴聞会で巻は私に「罪を認めようとしないので排斥しない訳にはゆかない。罪を認めて悔い改めさえすればよい」と要求しました。私は「架空の罪をなすり付けるのが当初からの目的なのだから,そちらの責任でそうすればよい」と言明したのですが,彼らは「そうではなくて,積極的に認めさえすればよいのだ」と明言しました。特に玉島の主婦のJWたちが不正排斥のターゲットにされる事態を防ぐために,私は架空の「淫行」の罪を被ることを余儀なくされました。
聴聞会の席上,彼らがでっち上げた「淫行」は三回だけでしたが,K原に電話で確認したところ,他にもう一・二回分用意していたということだったので,「少なくとも数回は重ねた淫行」という表現で架空の罪を認める上訴状を作成し,書籍研究の際にT号の元に持参しましたが,その集会からは追い返されました。
二日後の木曜日の日中,T号から電話があり「上訴は退けられた。今晩の奉仕会で排斥処分を発表しておく」と告げられました。そうしてその晩の集会に行ったらT号に追い返され,その足で港が主宰監督である倉敷市酒津会衆の集会に行ったらやはり港に追い返されます。鴨方会衆の集会でT号は公開講演だけ出席することを認めますが,公開講演が終わって歌の間に王国会館を出るよう要求し,私はそれに従いました。T号は王国会館では終始,私の近くを物欲しそうな顔でうろつき,私が自分用に注文しておいた聖書語句索引が届いた時と,自分用の予約の更新を頼んだ時だけはなぜか機嫌よく処理しました(おそらく差額が懐に入るため)。
不正に排斥されたことで,JWを雇ってこなしていた定期清掃の契約は果たせないものと覚悟した時,なぜか反対者である私の父が作業を手伝ってくれることになり,後日,非JWのスタッフを確保する時まで当座をしのぐことができました。
半月乃至一月後の晩,突然,福山市大門会衆の王国会館に呼びつけられ,T号ら審理委員たちに加えて「上訴委員会」と称する長老たちから聴聞されました。メンバーは福山市深津会衆の主宰監督H本(K野の研究司会者),福山市本庄会衆(N岡の出身会衆)の主宰監督H田(玉島のH田と同姓の別人),そして福山市春日会衆の主宰監督F原(広島会衆「事件簿」に地域監督として登場するアイツ。「健康上の理由」とやらで特開者となって春日会衆に移動して来たが,十分に健康だった)でした。
H本は「協会からの指示で扱い方が変更されていて,上訴委員会はただ審理委員会の物事の扱い方の適否だけ審理するようになっている」と言い,F原は「ふさわしく振る舞ってT号兄弟に認めてもらえば集会への出席が許される可能性があるので,指示に従うように」と言い,H田は私が7月中旬に追突事故に遭ってむち打ちの後遺症に苦しんでいることを知ると「それは気の毒に」と鼻で笑っただけで,茶番の上訴委員会も終わりました(私の車の任意保険は,JW相手の零細な保険代理店をしているH田のところで掛けていた)。
追突事故というのは,7月17日の夕方にK原の家に家族研究に行く途中の町道で離合のため停止したとき,脇見運転の軽トラックに追突された事故なのですが,JRで機関車の運転士をしているという加害者は,首をひねったために直立することもできないで苦しんでいる私の腕をつかんで脇道に引きずり込み,「会社に知れるとクビになる。父親が病気で,自分がクビになったら一家心中するしかない。内緒にしてくれ。友人が整骨院をしているので責任をもって治療させる。50万円ならすぐにでも出す」と延々一時間にわたって泣きついたのですが,私は加害者を振り切って公衆電話まで歩いて行って警察を呼びました。加害者は現場のすぐ脇の知人の家(そこの新居に見とれていて追突したそうな)で電話を借りて実弟(町議会議員…後に分かるが札付きの悪徳議員)を現場に呼んでいました。加害者の実弟の町議は「自分が責任を持つから」と言って警官に現場検証をさせずに帰し,「(加害者)本人は交代勤務なので自分が連絡の窓口になる」と言って自分の名刺だけ私に渡し,加害者が「明日,一緒に病院に行こう」ということでその晩は別れてK原の家に遅れて行ったのです。
翌日,加害者に町内でも悪名高いヤブ医者のところに連れて行かれ,いい加減な診療に不信を表明すると「なら岡山の労災病院に入院してもらう。手続きをして連絡するから待つように」と言われて連絡を待っていたのですが,二人でうまくはぐらかして逃げようという魂胆であることを見抜き,私は自分で別の病院へ転院して治療を受けました。
米子の地域大会へK原の弟の車を借りて一緒に行くことにした背景には,この事故で私の車が修理で入院しているという事情もあったのです。軽い事故のようでいて私は複雑に首と腰をひねっていて,加害者が悪質な奴らであるところまではK原に詳しく話してあったのですが,K原の反応は「50万をすぐに貰っておけば良かったのに」というものでした。そしてT号はK原や他の者たちから私のむち打ちの症状を報告されていて,秋が深まって気温が下がるにつれて,明け方にはひどい頭痛と吐き気で起き上がれなくなっていることを知っていて,不正排斥と仕事の横取りを仕掛けて来ていたのです。
時は下って不正排斥から二年あまり後,暴力闘争の場が倉敷市生坂会衆に移った頃,T号が私に資金を提供させて始めようと企んでいたポンポン菓子の移動販売を経営していたS本は,売り子に雇っていた二世の開拓者のI田(ブーちゃん)と共に排斥の発表がなされます。その翌年,S本に会いに行ったのですが,I田の側から,今でいう援助交際をしてくれ,と申し出てきて,一線は越えなかったが深い仲になり,後悔して長老団に告白したが,途中で態度が一転して「排斥」され,しばらくは集会に行っていたが復帰を認められる見込みがなさそうなのでやめた,ということでした。
真備会衆の成員であるS本とI田の排斥が倉敷市生坂会衆などでも発表されたのは,I田が馬の糞U号の娘などと親しい関係にあったためだそうです。実際,玉島の奉仕の僕Kn藤の結婚式(披露宴)でU号の娘とI田は他のバカ娘たちと共に組んでいた女の子のバンドとして出演し,詞もメロディーもとんちんかんな自作の歌を演奏して歌いました。U号の娘は私の不正排斥から約一年後,N野と結婚しますが,U号や港ら倉敷の派閥と,H本ら福山の派閥の尻拭いをしてやったことでその一年の間だけは大会で必ず演壇からの話をしたT号はなぜかその結婚式では何の役も無く疎外され,冷や飯を喰わされる立場だったそうです。
状況から推論するにT号は,S本がI田を愛人にしたように開拓者の姉妹たちを雇って手を付けることを企み,売り子と二人だけで長時間行動するポンポン菓子の移動販売を始めようとしたのですが資金を用意できなかったために諦め,次に私の定期清掃の契約を横取りすることで愛人を囲う生活を実現しようとしたのでしょう。
T号が実際に手にしたものは三十代後半のK原という女であり,K原はさっさとN野に押し付けて結婚させて情欲を満たしてやり,T号はより若い愛人に矛先を向けるはずだったのが,親の七光で排斥を免れている自分の娘を片づけたかったU号に先を越されてN野を横取りされた,ということなのでしょう。N野としても九歳年上の,しかも出来損ないの子供(当時既に息子の方は犬食いに逆戻りしていた)を二人も連れた元チンピラの女房なるK原よりも,U号の未婚の娘の方がよほど望ましいはずで,U号の娘とN野との結婚に横槍を入れようとしたことでT号と倉敷市の派閥との間にきしみが生じたのがN野の結婚式だった,ということだと判断しています。
不正に排斥されてもなお,内面はガチガチのJWだった私は,当時にその全てを理解できた訳ではないにしても,金と淫行という不正排斥の目的だけはかぎ取っていて,その後の一年あまりの間に逆襲に転じるのです。(続く)
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