> 我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の許し、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。
☆いわゆる「使徒信条」なのですが,この部分の「聖なる『公同の』教会」を「聖なる『キリスト』教会」と言う教会も少なくありません。
「『公同』の教会」とは何事かというと,死んで天に復活したクリスチャンと,まだ地上にいるクリスチャンの双方によって構成される教会,という意味なのです。だから,教会によっては礼拝堂の講壇(説教壇)の向こうに大きな奥行きを設けている場合もあるそうで(身近に実例が無いのですが),その一見無駄に思えるスペースは,天の家族が礼拝に臨席するという意識によるものなのだそうです。
それゆえ「聖徒の交わり」も,地上にいるクリスチャンだけでなく,教会というシステムを通して天にいるクリスチャンとの交わりも含んでいます。
ただ,「『公同』の教会」という文言には国教会的な意識の含みがあるため,それを嫌うアンチ国教派はその部分を「『キリスト』教会」と言い変えるようになり,結果として信仰告白のこの部分だけは教会によってどちらかを採用することになったそうです。
「からだのよみがえり」は「墓の中の死体がよみがえることを言っている」としてものみの塔が好んで攻撃する部分でもありますが,このくだりを文字通り,死体がよみがえると解釈しているクリスチャンは一人も知りません。当然のこととして,霊のからだによみがえらされ天に召されることと解釈しています。
☆いわゆる「使徒信条」なのですが,この部分の「聖なる『公同の』教会」を「聖なる『キリスト』教会」と言う教会も少なくありません。
「『公同』の教会」とは何事かというと,死んで天に復活したクリスチャンと,まだ地上にいるクリスチャンの双方によって構成される教会,という意味なのです。だから,教会によっては礼拝堂の講壇(説教壇)の向こうに大きな奥行きを設けている場合もあるそうで(身近に実例が無いのですが),その一見無駄に思えるスペースは,天の家族が礼拝に臨席するという意識によるものなのだそうです。
それゆえ「聖徒の交わり」も,地上にいるクリスチャンだけでなく,教会というシステムを通して天にいるクリスチャンとの交わりも含んでいます。
ただ,「『公同』の教会」という文言には国教会的な意識の含みがあるため,それを嫌うアンチ国教派はその部分を「『キリスト』教会」と言い変えるようになり,結果として信仰告白のこの部分だけは教会によってどちらかを採用することになったそうです。
「からだのよみがえり」は「墓の中の死体がよみがえることを言っている」としてものみの塔が好んで攻撃する部分でもありますが,このくだりを文字通り,死体がよみがえると解釈しているクリスチャンは一人も知りません。当然のこととして,霊のからだによみがえらされ天に召されることと解釈しています。