> 大空の浪人さん
> そりゃ深読みのしすぎだってばさ(苦笑)
☆それはそれは…反省\(__ )
> 中澤牧師は牧師の世界では頭のいい偉い牧師なんだろうけど、私にとってそん
> なの全然関係ないですよ。中澤牧師が頭が良かろうが知識があろうが人間的に
> クソであれば私は相手にしません。私は権威ってやつがとにかく大嫌いだから、
> 人生経験が少ない苦労知らずや人間的に未熟なくせに権威や知識に頼って人を
> 指導しようとするような馬鹿たれは尊敬できないから相手にしないんですよ。
☆この点は同感です。
> 中澤牧師と長時間喋って、聖書とかをぶんなげた人間対人間のレベルで相手を
> 見て、こいつは人間的に信頼できるかできないかって判断をして、この人は信
> 頼できる人間だって判断したただけですよ。
☆この点も同感。
> 私がキリスト教会に興味を持ったのは、自分の心の中のJWを総括する一環と
> して通い始めたんですよ。JWって一言で言えば組織信仰宗教でしょ。(そう
> わかるまでけっこう時間がかかったんだけどさ)時間はかかったけどJWの本
> 質はわかった、じゃぁ、キリスト教っていったい何?って興味を持ったのが教
> 会に通い始めたきっかけです。
☆私は(どっかで書いたと思うけど)先に日本基督教団の教会に通うようになって,その教会がご都合主義なのに幻滅して,キリスト教を実践する場を模索する過程でJWになったので,ゆーじさんとは物事を正反対の見地から見ているのですよ,きっと。
> で、その際に考えたのは、キリスト教っていろいろな教派があるわけでしょ。
> いっぱいありすぎるから、その教派にとらわれるとキリスト教の全体像がわか
> んなくなるんですよ。
> そこで各教派に共通する部分がキリスト教の本質であって、それ以外の各教派
> 独自の部分は枝葉の部分だと仮定したわけ。そうしないとキリスト教の本質が
> 見えなくなるからね。
☆「独自の部分こそキリスト教の本質」というのが私の見地なのです。共通する部分は日本教とも共通していて,今さらどうこういう必要も無いものだと私はとらえています。
> だからバプテスト派や福音派や日本キリスト教団の独自の部分の教理って未だに
> 全然わかんないし興味もないですよ。(ルーテル派は近くに無いから行ったこと
> 無いよ)私は神学論争とか全然興味ないんですよ。そういうのって外部の人間か
> らすればコップの中の嵐にしか見えないんだもん(^_^;
☆神学論争に命を賭けるのがキリスト教の特徴…と思っています。
> キリスト教の総括を書き出すと長くなるから書かないけど、いろいろ勉強して、
> 頭ではわかるけど感性としてどうしても理解できないのが、「信じたから救われ
> た」って言える感性ですね。これはカトリック、バプテスト派、福音派、日本キ
> リスト教団、その他の教会を回って、信者さん達が共通して言っているセリフで
> す。本を読むとその意味は分かるんだけど、感性としてそれが理解できないのよ。
☆信徒レベルでそれを本当に理解して語っている人はまずいないと思います。日本人特有の,分かったふり,というか,本音と建前の使い分けに嵌まっていると思いますよ。だから,そういう人々(そう言う信徒たちと,そのような信徒を作り出した教職者(牧師)たち)の言いぐさを聞けば聞くほどキリスト教特有の救いの概念は分からなくなります。
> 私は信仰心=依頼心と思ってる人で、自分が今まで一人で生きてくるのに依頼心
> をもったら自分は絶対につぶれるって思って生きてきた人だから、今後も神に対
> してでも依頼心はもてない人なのよ。依頼心を持ったら自分がつぶれちゃうから
> ね。
☆その点が正反対なので,お互い,同じ物事を正反対の見地で見て,正反対の表現をするのでしょうね。他の人のことは関知しませんが,私にとっては信仰心=依頼心ではありません。いうなれば,相互に認め合って共に歩む関係,とでもいうべきでしょうか。
最初に抱いた確信は創造者の存在でした。創造者が存在するなら自分に対するその意志というか目的があるはずで,それを模索し,それを行うことが信仰心の表明=宗教活動だったのですよ。地元のキリスト教会がそういう姿勢を捨て去った教会だったためにその枠にはめ込まれることを拒否し,学校の図書館の宗教関係の本を読みあさり,JR福山駅前で配布している各宗教団体のパンフレットを読みあさり,結局,創造者に関する真理があるとすれば聖書とその周辺だろうけど,地元のキリスト教会では決してない,という確信に至ったあたりでJWと接触し,当時自分の知る限り唯一,聖書を勇敢に解きあかす姿勢に共鳴して関わりを深めていったのです。
だからJWになった時も,終わりが近いから宣教するためになったのであって,組織に依頼しているという意識は全くなく(だから偉そうにしている輩にへつらわなかったために組織内で迫害されることになってゆくのですが),エホバとの関係も共に歩むことであって神にすがるというようなものではなく,私にとって信仰とは依頼することではなくてそのようなものであったのです。
> そりゃ深読みのしすぎだってばさ(苦笑)
☆それはそれは…反省\(__ )
> 中澤牧師は牧師の世界では頭のいい偉い牧師なんだろうけど、私にとってそん
> なの全然関係ないですよ。中澤牧師が頭が良かろうが知識があろうが人間的に
> クソであれば私は相手にしません。私は権威ってやつがとにかく大嫌いだから、
> 人生経験が少ない苦労知らずや人間的に未熟なくせに権威や知識に頼って人を
> 指導しようとするような馬鹿たれは尊敬できないから相手にしないんですよ。
☆この点は同感です。
> 中澤牧師と長時間喋って、聖書とかをぶんなげた人間対人間のレベルで相手を
> 見て、こいつは人間的に信頼できるかできないかって判断をして、この人は信
> 頼できる人間だって判断したただけですよ。
☆この点も同感。
> 私がキリスト教会に興味を持ったのは、自分の心の中のJWを総括する一環と
> して通い始めたんですよ。JWって一言で言えば組織信仰宗教でしょ。(そう
> わかるまでけっこう時間がかかったんだけどさ)時間はかかったけどJWの本
> 質はわかった、じゃぁ、キリスト教っていったい何?って興味を持ったのが教
> 会に通い始めたきっかけです。
☆私は(どっかで書いたと思うけど)先に日本基督教団の教会に通うようになって,その教会がご都合主義なのに幻滅して,キリスト教を実践する場を模索する過程でJWになったので,ゆーじさんとは物事を正反対の見地から見ているのですよ,きっと。
> で、その際に考えたのは、キリスト教っていろいろな教派があるわけでしょ。
> いっぱいありすぎるから、その教派にとらわれるとキリスト教の全体像がわか
> んなくなるんですよ。
> そこで各教派に共通する部分がキリスト教の本質であって、それ以外の各教派
> 独自の部分は枝葉の部分だと仮定したわけ。そうしないとキリスト教の本質が
> 見えなくなるからね。
☆「独自の部分こそキリスト教の本質」というのが私の見地なのです。共通する部分は日本教とも共通していて,今さらどうこういう必要も無いものだと私はとらえています。
> だからバプテスト派や福音派や日本キリスト教団の独自の部分の教理って未だに
> 全然わかんないし興味もないですよ。(ルーテル派は近くに無いから行ったこと
> 無いよ)私は神学論争とか全然興味ないんですよ。そういうのって外部の人間か
> らすればコップの中の嵐にしか見えないんだもん(^_^;
☆神学論争に命を賭けるのがキリスト教の特徴…と思っています。
> キリスト教の総括を書き出すと長くなるから書かないけど、いろいろ勉強して、
> 頭ではわかるけど感性としてどうしても理解できないのが、「信じたから救われ
> た」って言える感性ですね。これはカトリック、バプテスト派、福音派、日本キ
> リスト教団、その他の教会を回って、信者さん達が共通して言っているセリフで
> す。本を読むとその意味は分かるんだけど、感性としてそれが理解できないのよ。
☆信徒レベルでそれを本当に理解して語っている人はまずいないと思います。日本人特有の,分かったふり,というか,本音と建前の使い分けに嵌まっていると思いますよ。だから,そういう人々(そう言う信徒たちと,そのような信徒を作り出した教職者(牧師)たち)の言いぐさを聞けば聞くほどキリスト教特有の救いの概念は分からなくなります。
> 私は信仰心=依頼心と思ってる人で、自分が今まで一人で生きてくるのに依頼心
> をもったら自分は絶対につぶれるって思って生きてきた人だから、今後も神に対
> してでも依頼心はもてない人なのよ。依頼心を持ったら自分がつぶれちゃうから
> ね。
☆その点が正反対なので,お互い,同じ物事を正反対の見地で見て,正反対の表現をするのでしょうね。他の人のことは関知しませんが,私にとっては信仰心=依頼心ではありません。いうなれば,相互に認め合って共に歩む関係,とでもいうべきでしょうか。
最初に抱いた確信は創造者の存在でした。創造者が存在するなら自分に対するその意志というか目的があるはずで,それを模索し,それを行うことが信仰心の表明=宗教活動だったのですよ。地元のキリスト教会がそういう姿勢を捨て去った教会だったためにその枠にはめ込まれることを拒否し,学校の図書館の宗教関係の本を読みあさり,JR福山駅前で配布している各宗教団体のパンフレットを読みあさり,結局,創造者に関する真理があるとすれば聖書とその周辺だろうけど,地元のキリスト教会では決してない,という確信に至ったあたりでJWと接触し,当時自分の知る限り唯一,聖書を勇敢に解きあかす姿勢に共鳴して関わりを深めていったのです。
だからJWになった時も,終わりが近いから宣教するためになったのであって,組織に依頼しているという意識は全くなく(だから偉そうにしている輩にへつらわなかったために組織内で迫害されることになってゆくのですが),エホバとの関係も共に歩むことであって神にすがるというようなものではなく,私にとって信仰とは依頼することではなくてそのようなものであったのです。