大空の浪人さん
>☆私は(どっかで書いたと思うけど)先に日本基督教団の教会に通うようになっ
>て,その教会がご都合主義なのに幻滅して,キリスト教を実践する場を模索する
>過程でJWになったので,ゆーじさんとは物事を正反対の見地から見ているの
>ですよ,きっと。
大空の浪人さんと私は見てる視点が正反対みたいだからおもしろいね。
私は立ち上がりの最初(初対面とか初体験の時ね)相手に何も期待しないんで
すよ。人間なんて基本的にろくでもないもんだって思ってますから、相手に期
待すると必ず裏切られるという考え方で行きます。
自分の経験上、最初からろくに考えずに深くつきあうと、たいてい後で裏切ら
れるから距離感をものすごく大事にします。そうしておけば被害は少ないし、
何も期待していないぶん、うまくいけば相手に対して感謝の気持ちが出てきま
す。
で、リスク承知で深くつきあって裏切られた場合は「自分が馬鹿だった」って
思えばすむことですから、相手を根に持つ事もないですから心の健康にいいで
す。大空の浪人さんは先に信用するから裏切られた場合のショックがでかいの
かなって思いました。でもこういうのはその人その人の生き方だから仕方がな
いよね。
>☆「独自の部分こそキリスト教の本質」というのが私の見地なのです。
>共通する部分は日本教とも共通していて,今さらどうこういう必要も無いもの
>だと私はとらえています。
こりゃお互いに永遠に平行線の意識ですね。こういうのって外から見ているの
と中から見ているのの違いだと思いますよ。答えは人それぞれってやつですね。
>☆神学論争に命を賭けるのがキリスト教の特徴…と思っています。
これがねぇ・・・わかるんだけど不毛だなぁって思うんですよ。
こういうのって砂漠でできた宗教の宿命なんでしょうね。
砂漠の世界とは、100人の人間が住んでいて100人分の収穫しかない
痩せた土地に、新たに100人が移動してきた場合、どちらかの部族が
完全に滅びないと両方の部族が滅びる世界なわけでしょ。そういう世界で
必要なのは強いリーダーと徹底的な議論なわけで、そういう世界でできあ
がった宗教だからこそ議論に命をかけるというのはわかるんですよ。
でも大昔の日本みたいに水と森が豊富な世界の場合は、100人の人間がいて
100人分の収穫がある土地に、新たに100人が移動してきた場合、お互い
に協力すれば300人分の収穫があがるという相互協力の「和」の世界で出来
た宗教観にはなじまない考え方なんだよねぇ。
有能なリーダーの元に従わないと部族全体が滅びる砂漠の世界でできあがった
宗教観である以上、そういうのは仕方がないというのはわかるんだけど、
それを聞かされたびに「あ〜ぁ」って思うよ。
>☆信徒レベルでそれを本当に理解して語っている人はまずいないと思います。
>日本人特有の,分かったふり,というか,本音と建前の使い分けに嵌まっている
>と思いますよ。だから,そういう人々(そう言う信徒たちと,そのような信徒を
>作り出した教職者(牧師)たち)の言いぐさを聞けば聞くほどキリスト教特有の
>救いの概念は分からなくなります。
これは同意です。感性で理解してるからそれを言葉にするのは苦手な人が多い
ですね。そしてこれがわかんなかったから私は長期間教会めぐりをしたんです
よ。私は信者さんだろうが牧師だろうが片っ端にこれを聞きまくったけど、み
んな答えが漠然としすぎて結局全然わかりませんでした。だから発言を長期間
観察して自分なりの答えは出したんだけど、その答えが「信仰心=依頼心」に
近い感覚という感想です。
>☆その点が正反対なので,お互い,同じ物事を正反対の見地で見て,正反対の
>表現をするのでしょうね。他の人のことは関知しませんが,私にとっては信
>仰心=依頼心ではありません。いうなれば,相互に認め合って共に歩む関係,
>とでもいうべきでしょうか。
この「相互に認め合って共に歩む関係」っていう表現を私的に表現すると
「信仰心=依頼心」になっちゃうんですよ。
まぁ、他人に勧める目的じゃなくて自分が納得する目的で教会巡りをしたんだ
から新たな答えが見つかるまでは自分的にはこれでいいと思ってますよ。私は
永遠にキリスト教徒になるつもりはないですからね。なにしろエホバとかいう
聖書に出てくる神様が大っ嫌いだからさ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
でさ、大空の浪人さんにちょい提案なんだけど、
さふらんさんの次の話を待っている人がいっぱいいるんですよ。
大空の浪人さんも前に言ってたけど、人間には宗教を必要とする人と必要と
しない人がいるわけですよね。で、その中の宗教を必要とする人たちの中には、
生きていく上で聖書を必要とする人たちがこれまた少数いるわけです。
元JWで言えば、聖書を必要とする人たちってのは元1世に多く元2世は少数
なんだけど、そういう人たちにとって、JWを離れると聖書を捨てた心の空虚
感を感じてる人もいると思うんですよ。そういう人たちの中の何%かはキリス
ト教で救われるかもしれないと思うわけです。(もちろん教会は新規信者の歩
留まりがものすごく悪いからその何%の全員なんてことは絶対にあり得ないけ
どさ)そういう人たちにとって、さふらんさんの話は興味深いから耳がダンボ
になる話だと思うんですよ。
我々ネットの古狸はちょっと引っ込みましょうよ
このお話は、さふらんさんのお話が一段落してからまたやればいいんじゃないの。
てことでよろしくね(^^
・・・と思ったら一足違いでさふらんさんのレスが早かったぁぁぁ(^_^;
まぁいいや。私はROMに回りますね。
>☆私は(どっかで書いたと思うけど)先に日本基督教団の教会に通うようになっ
>て,その教会がご都合主義なのに幻滅して,キリスト教を実践する場を模索する
>過程でJWになったので,ゆーじさんとは物事を正反対の見地から見ているの
>ですよ,きっと。
大空の浪人さんと私は見てる視点が正反対みたいだからおもしろいね。
私は立ち上がりの最初(初対面とか初体験の時ね)相手に何も期待しないんで
すよ。人間なんて基本的にろくでもないもんだって思ってますから、相手に期
待すると必ず裏切られるという考え方で行きます。
自分の経験上、最初からろくに考えずに深くつきあうと、たいてい後で裏切ら
れるから距離感をものすごく大事にします。そうしておけば被害は少ないし、
何も期待していないぶん、うまくいけば相手に対して感謝の気持ちが出てきま
す。
で、リスク承知で深くつきあって裏切られた場合は「自分が馬鹿だった」って
思えばすむことですから、相手を根に持つ事もないですから心の健康にいいで
す。大空の浪人さんは先に信用するから裏切られた場合のショックがでかいの
かなって思いました。でもこういうのはその人その人の生き方だから仕方がな
いよね。
>☆「独自の部分こそキリスト教の本質」というのが私の見地なのです。
>共通する部分は日本教とも共通していて,今さらどうこういう必要も無いもの
>だと私はとらえています。
こりゃお互いに永遠に平行線の意識ですね。こういうのって外から見ているの
と中から見ているのの違いだと思いますよ。答えは人それぞれってやつですね。
>☆神学論争に命を賭けるのがキリスト教の特徴…と思っています。
これがねぇ・・・わかるんだけど不毛だなぁって思うんですよ。
こういうのって砂漠でできた宗教の宿命なんでしょうね。
砂漠の世界とは、100人の人間が住んでいて100人分の収穫しかない
痩せた土地に、新たに100人が移動してきた場合、どちらかの部族が
完全に滅びないと両方の部族が滅びる世界なわけでしょ。そういう世界で
必要なのは強いリーダーと徹底的な議論なわけで、そういう世界でできあ
がった宗教だからこそ議論に命をかけるというのはわかるんですよ。
でも大昔の日本みたいに水と森が豊富な世界の場合は、100人の人間がいて
100人分の収穫がある土地に、新たに100人が移動してきた場合、お互い
に協力すれば300人分の収穫があがるという相互協力の「和」の世界で出来
た宗教観にはなじまない考え方なんだよねぇ。
有能なリーダーの元に従わないと部族全体が滅びる砂漠の世界でできあがった
宗教観である以上、そういうのは仕方がないというのはわかるんだけど、
それを聞かされたびに「あ〜ぁ」って思うよ。
>☆信徒レベルでそれを本当に理解して語っている人はまずいないと思います。
>日本人特有の,分かったふり,というか,本音と建前の使い分けに嵌まっている
>と思いますよ。だから,そういう人々(そう言う信徒たちと,そのような信徒を
>作り出した教職者(牧師)たち)の言いぐさを聞けば聞くほどキリスト教特有の
>救いの概念は分からなくなります。
これは同意です。感性で理解してるからそれを言葉にするのは苦手な人が多い
ですね。そしてこれがわかんなかったから私は長期間教会めぐりをしたんです
よ。私は信者さんだろうが牧師だろうが片っ端にこれを聞きまくったけど、み
んな答えが漠然としすぎて結局全然わかりませんでした。だから発言を長期間
観察して自分なりの答えは出したんだけど、その答えが「信仰心=依頼心」に
近い感覚という感想です。
>☆その点が正反対なので,お互い,同じ物事を正反対の見地で見て,正反対の
>表現をするのでしょうね。他の人のことは関知しませんが,私にとっては信
>仰心=依頼心ではありません。いうなれば,相互に認め合って共に歩む関係,
>とでもいうべきでしょうか。
この「相互に認め合って共に歩む関係」っていう表現を私的に表現すると
「信仰心=依頼心」になっちゃうんですよ。
まぁ、他人に勧める目的じゃなくて自分が納得する目的で教会巡りをしたんだ
から新たな答えが見つかるまでは自分的にはこれでいいと思ってますよ。私は
永遠にキリスト教徒になるつもりはないですからね。なにしろエホバとかいう
聖書に出てくる神様が大っ嫌いだからさ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
でさ、大空の浪人さんにちょい提案なんだけど、
さふらんさんの次の話を待っている人がいっぱいいるんですよ。
大空の浪人さんも前に言ってたけど、人間には宗教を必要とする人と必要と
しない人がいるわけですよね。で、その中の宗教を必要とする人たちの中には、
生きていく上で聖書を必要とする人たちがこれまた少数いるわけです。
元JWで言えば、聖書を必要とする人たちってのは元1世に多く元2世は少数
なんだけど、そういう人たちにとって、JWを離れると聖書を捨てた心の空虚
感を感じてる人もいると思うんですよ。そういう人たちの中の何%かはキリス
ト教で救われるかもしれないと思うわけです。(もちろん教会は新規信者の歩
留まりがものすごく悪いからその何%の全員なんてことは絶対にあり得ないけ
どさ)そういう人たちにとって、さふらんさんの話は興味深いから耳がダンボ
になる話だと思うんですよ。
我々ネットの古狸はちょっと引っ込みましょうよ
このお話は、さふらんさんのお話が一段落してからまたやればいいんじゃないの。
てことでよろしくね(^^
・・・と思ったら一足違いでさふらんさんのレスが早かったぁぁぁ(^_^;
まぁいいや。私はROMに回りますね。