目覚め太です
さふらんさん・・
> これは、反論ではなく、意見ですが、そのような救われるべきJW がいるということであるならば、そのような救われるべき方たち はどんなに不条理であると思われる組織の提案にだって喜んで従う はずですし、
私は「不条理だと思われる組織の提案に」従順にではなく、柔順だと思いますね・・
>またそれを前向きに試練と捉えて、忍耐し、 だからこそ、JV(エホバのこと)に是認されている確信を持つことが出来、自らの神殿を清く保っていることが出来るわけですから
聖書にはこうありますね・・
「試練に耐えてゆく人は幸いです。なぜなら,その人は是認されるとき,エホバがご自分を愛し続ける者たちに約束されたもの,すなわち命の冠を受けるからです」
ですが続く聖句には、「試練に遭うとき,だれも,「わたしは神から試練を受けている」と言ってはなりません。悪い事柄で神が試練に遭うということはありえませんし,[そのようにして]ご自身がだれかに試練を与えることもないからです」ヤコブ1:12,13
確かに試練は忍耐を生み出しますが、それは是認される忍耐でなければなりません。闇雲にただ辛抱するというものではないはずです。
> また、彼ら自身は改革など考えもしていないとするならば、やは り、ここに矛盾が生まれるのではないのかと私は思う次第でありま す。だから、私はどうすべきだなどと言うことも出来ないのであり ます。これは、私個人の勝手な解釈なのですが。
大抵のJWはエホバを待つことで希望を持ちます。ですが改革を期待していないのではないと思います。
改革の必要性を感じないJWは理性による神聖な奉仕ではなく、盲目的な、他の人間に影響されながら行なう、ながらのJWでしかありません・・
エホバを待つこと・・
これはある意味では正当なことと思えますが、聖書は幾つもの原則、
過去の事例をはっきりと示しています。
以前にも書きましたが・・・
「したがって,正しいことをどのように行なうかを知っていながら行なわないなら,それはその人にとって罪なのです」ヤコブ4:17
「ケファがアンティオキアに来た時,わたしは面と向かって彼に抵抗しました。彼には責めるべきところがあったからです。ヤコブのもとからある人たちが来るまでは,諸国民の者たちと一緒に食事をしていたのに,彼らが来ると,割礼組の者たちへの恐れのために,身を引いて離れて行ったからです。残りのユダヤ人たちも彼と共にこの虚偽に加わり,その結果,バルナバさえも彼らと共にその虚偽に引かれて行きました。 しかし,彼らが良いたよりの真理にしたがってまっすぐに歩んでいないのを見た時,わたしはみんなの前でケファにこう言いました。「あなたは,自分ではユダヤ人でありながら諸国民のように生活し,ユダヤ人がするようにはしていないのに,どうして諸国民の者たちに,ユダヤ人の習わしにしたがって生活することを強いているのですか」
ガラテア2:11〜14
パウロはこの時のペテロに従順だったでしょうか?
JWが勧めている一致や従順とはこの時のユダヤ人やバルナバのような精神態度であり、パウロの取った行動は反逆とみなすでしょう・・
これは明らかに聖書の事例が示す原則と大いに異なっています!
JWが主張するように、一人一人がエホバの証し人であるのなら、
この時のパウロの精神態度に倣うべきであり、何人の虚偽の振る舞いに従うべきではないのです!
さふらんさん・・
> これは、反論ではなく、意見ですが、そのような救われるべきJW がいるということであるならば、そのような救われるべき方たち はどんなに不条理であると思われる組織の提案にだって喜んで従う はずですし、
私は「不条理だと思われる組織の提案に」従順にではなく、柔順だと思いますね・・
>またそれを前向きに試練と捉えて、忍耐し、 だからこそ、JV(エホバのこと)に是認されている確信を持つことが出来、自らの神殿を清く保っていることが出来るわけですから
聖書にはこうありますね・・
「試練に耐えてゆく人は幸いです。なぜなら,その人は是認されるとき,エホバがご自分を愛し続ける者たちに約束されたもの,すなわち命の冠を受けるからです」
ですが続く聖句には、「試練に遭うとき,だれも,「わたしは神から試練を受けている」と言ってはなりません。悪い事柄で神が試練に遭うということはありえませんし,[そのようにして]ご自身がだれかに試練を与えることもないからです」ヤコブ1:12,13
確かに試練は忍耐を生み出しますが、それは是認される忍耐でなければなりません。闇雲にただ辛抱するというものではないはずです。
> また、彼ら自身は改革など考えもしていないとするならば、やは り、ここに矛盾が生まれるのではないのかと私は思う次第でありま す。だから、私はどうすべきだなどと言うことも出来ないのであり ます。これは、私個人の勝手な解釈なのですが。
大抵のJWはエホバを待つことで希望を持ちます。ですが改革を期待していないのではないと思います。
改革の必要性を感じないJWは理性による神聖な奉仕ではなく、盲目的な、他の人間に影響されながら行なう、ながらのJWでしかありません・・
エホバを待つこと・・
これはある意味では正当なことと思えますが、聖書は幾つもの原則、
過去の事例をはっきりと示しています。
以前にも書きましたが・・・
「したがって,正しいことをどのように行なうかを知っていながら行なわないなら,それはその人にとって罪なのです」ヤコブ4:17
「ケファがアンティオキアに来た時,わたしは面と向かって彼に抵抗しました。彼には責めるべきところがあったからです。ヤコブのもとからある人たちが来るまでは,諸国民の者たちと一緒に食事をしていたのに,彼らが来ると,割礼組の者たちへの恐れのために,身を引いて離れて行ったからです。残りのユダヤ人たちも彼と共にこの虚偽に加わり,その結果,バルナバさえも彼らと共にその虚偽に引かれて行きました。 しかし,彼らが良いたよりの真理にしたがってまっすぐに歩んでいないのを見た時,わたしはみんなの前でケファにこう言いました。「あなたは,自分ではユダヤ人でありながら諸国民のように生活し,ユダヤ人がするようにはしていないのに,どうして諸国民の者たちに,ユダヤ人の習わしにしたがって生活することを強いているのですか」
ガラテア2:11〜14
パウロはこの時のペテロに従順だったでしょうか?
JWが勧めている一致や従順とはこの時のユダヤ人やバルナバのような精神態度であり、パウロの取った行動は反逆とみなすでしょう・・
これは明らかに聖書の事例が示す原則と大いに異なっています!
JWが主張するように、一人一人がエホバの証し人であるのなら、
この時のパウロの精神態度に倣うべきであり、何人の虚偽の振る舞いに従うべきではないのです!