昼寝するぶた 掲示板過去ログ:#2043

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No.2043 Re:それも一つの試練というものかも。 投稿者:ヤオ 投稿日:2003/01/13 15:32     
> 目覚め太さん、レス有り難うございました。
> これは、反論ではなく、意見ですが、
> そのような、救われるべきJWがいるということであるならば
> そのような救われるべき方たちは、どんなに不条理であると
> 思われる、組織の提案にだって喜んで従うはずですし
> また、それを前向きに試練と捉えて、忍耐し、
> だからこそ、JV(エホバのこと)に是認されている確信を持つことが出来、自らの神殿を清く保っていることが出来るわけですから
> また、彼ら自身は改革など考えもしていないとするならば
> やはり、ここに矛盾が生まれるのではないのかと
> 私は思う次第であります。だから、私はどうすべきだなどと言うことも出来ないのであります。これは、私個人の勝手な解釈なのですが。

反論と言うべきものではありませんが、こんな考え方もあると参考に聞いてください。

自由と最大のおきてについて
エホバの証人として教育され、思考の自由を奪われていらっしゃるかもしれない方々に少しでも問題解決の助けになればと願って書いてみました。

 と言いますのは、 カルガリに住むエホバの証人である16歳の少女 の輸血裁判において、ものみの塔側は成熟した判断能力のある未成年者として扱い、16歳であっても、大人と同じように扱って、本人の輸血拒否の意志を尊重すべきであると主張しました。
 これに対し、児童保護局側はこの少女がエホバの証人の両親の元に育てられ、血に関する別の見方に触れる機会がなかったことから、充分な情報を得ていないと判断して、少女を大人扱いにすべきではないと主張しました。そして上訴審に至るまでその児童保護局側の主張が認められたことが伝えられています。しかし今回は輸血の是非を考えるのではありません。

 最も重要なことは、充分な情報を得ていないことを理由に本人の自由意志による決定を正常なものとは見なせないと判断したことにあるのです。成熟した判断能力のある未成年者と認められるためには充分な情報をを得ていなければならない事が判例として確立されたことにあります。それでもほとんどのエホバの証人はこう言います。自分たちは組織からなにも制限されてはいないし自由であると。充分な情報を得て自由意志で行動していると。

 こうしたことの典型的な例としてサリン事件の時のオーム真理教の信者達の反応を思い出します。あれだけの報道がなされていながらそれでも信じようとしない信者が多かったのです。また似たような例としてユダヤ人の悲惨な歴史があります。イエスの警告どおりにエルサレムは崩壊し、さらにイエスに死を求めた民衆の言葉どうりに現在に至るまで血の争いと災いの耐えないユダヤ人達は、この圧倒的な証拠を見てもイエスキリストを認めようとはしていません。現実に一方的な情報を頼りにユダヤ教は今も存在しています。

(マタ 27:25) すると,民はみな答えて言った,「彼の血はわたしたちとわたしたちの子供とに臨んでもよい」この言葉のゆえに彼らに関して、この血の罪は未だに贖われてはいないのです。呪いの下に引き続き留まっているとしか思えないのです。
誰が神の子であるイエスの命の代価を支払うことができるでしょう。許しを得る唯一の方法はイエスキリストご自身に許していただくほかありません。そのあがないの恩恵にあずかるほかに道は絶対にないのです。
 
さて本題に戻って、 この判例は聖書の中に流れる自由思想と一致していると思います。では聖書的観点からそのことについて考えていきましょう。

 日本人のもっとも不得意とする概念に自由があるといわれています。「自由」「自由意志」のために命を懸けるというようなことは日本人の思想概念の中にほとんどありません。
 自由ということに関してアダムとイヴやカインとアベルの逸話は真の神が「命より自由」を大切なこととして扱っていらっしゃると言うことも理解してはおりません。

基本的には聖書の事例を見る限り、人殺しでさえ自由意志に任されて 忠実なご自分の民が殺されてしまうのをそのままにされています。西洋諸国のキリスト教世界の人々はこうした聖書理解によって自由が命より大切なことであると見なしているようです。アメリカの大統領が同時多発テロの一周忌の演説の際に自由の女神の像をバックにされたことでもわかるように、テロが自由に対する挑戦であるという印象を国民に与えようとしているのが佳くわかります。

 あらためて「えっ、自由って本当に命より大切なものなの」と疑問をもたれる方がほとんどではないかと思っております。ではその方々に質問します。もし「自由より命」が大切ならばなぜ真の神はカインの手をとどめて忠実なアベルを救い出すことをしなかったのでしょうか。なぜ力において強大な方が彼を「死」に囚われるままにされたのですか。

 またある方は律法における第一と第二のおきてにおいて真の神は愛を強制しているではないか。愛こそ自由意志で表すべきものではないか。愛を強制しておきながら自由が命より大切だと言っても一貫性がなく納得できないではないかと言うかもしれません。

 このように書かれています。「イエスは彼に言われた、『あなたは、心をこめ、魂をこめ、思いをこめてあなたの神エホバを愛さねばならない』。」 マタイ22:37[新世界訳]のようにほかの日本語の聖書もほとんどが同じように訳されています。

 この事に関して以前に投稿した内容の中に、この律法を元に人間が他人を裁くことができない故、(なぜなら愛は心の問題であるから人間には裁けない)この律法はまさに神のものといえると書いたことがありました。しかし、確かに愛を強制していることだけには違和感を覚えていたのも事実なのです。

 ところがあるサイトにおいて 新約聖書翻訳委員会訳(岩波書店)の翻訳が紹介されていて「 愛さねばならない 」と言う命令形が「愛するであろう」と未来形で書かれていることを知りました。この事を元に言語のギリシャ語を調べたところエホバの証人の発行しているギリシャ語行間逐語訳 でもその元々のギリシャ語は未来形で、その部分だけの英訳は(You shall love)となっていることを確認したのです。

 新世界訳にするときにあえてその部分を(You shall love)→(You must love)と言う命令形に置き換えていることも確認しました。なぜあえて置き換えてしまったのでしょう。この言葉の違いは実はとても重要なことであって真の神の本当の姿を理解するために変えてはならない部分だと思うのですが。

 命令形ではないと言うことがそれほど重要でしょうか。はい重要なことだと私は思います。何でも強制して裁くような方ではない、多くの人が自由意志で「愛するようになる」事を求める本当に善良な神であることが良くわかるすばらしい発見ではないでしょうか。真の神は決して愛を強制するような命令をしてはいなかったのです。

真の神は「愛」を強制されてはいなかったと原語のギリシャ語はそのことを証明していました。この翻訳により「自由意志」によって愛するようになることを期待していることが明らかになったのです。それ故に私はさらにこの律法は真の神からのものに間違いないという確信を強くするものとなりました。あの違和感がなくなりました。

 あらためて真の神に対する愛はその存在を認めるという事から始まるのだと言うことも確信となったのです。それ故に「愛さないものは人殺しです」という聖句は真実であり、愛さないものは相手の存在を認めないゆえに人殺しになるのです。存在を認めたくないゆえに抹殺することになるというのは理の当然というものです。過激に見えるこの聖句が実は第一の律法と見事な整合性を見せるのは驚きでした。もう一度強調しておきます。愛は相手の存在を認めるところから始まるのであり、存在を認めないことはその反対で憎むことなのです。

 話を戻して今までのことをまとめるなら自由と愛が密接な関係にあること、そして時にはそれが命より大切なものとされることもあるということがわかりました。では、あなたは 自由を正しく用いるためにはどうしたらいいのかと考えていますか。聖書は答えをはじめから与えています。

@ 真の神は先ず正しい情報を与えます。
A 選択の結果に対する警告も与えます。
B 後は本人の自由意志に任せます。

 その人がどうなるかは基本的にその人が自由意志で選択した行動の結果がでるだけです。
真の神はよほどの理由がない限りその人に介入することはありません。実はこの事が、こうした理解が、多くの人の抱く当然な疑問に対する答えとなっているのです。

 その当然な疑問とは「なぜ神が本当に存在するならこうしたひどいことをそのまま放置されているのだろうか」と言うようなものです。もう一度アベルの事件を思い出してください。
たった数人しかいない世界で殺人が行われようとしていたのです。今の世界で言えば世界の人口の4分の1が死滅するようなものかもしれません。それほどの大事件ではありませんか。

 それでも真の神は直接介入することを控えられたのです。ですから多くの人が言うようなこんなひどいことが起きるのは神も仏も存在しないからだというような考え方は聖書を読んでいる人からは出てこないはずなのですが・・・。しかし現実はその反対です。

 それだけではありません。よくエホバの証人が口にされる「エホバを待つべきだ」と言う言葉もこうした考察から明らかなように会衆内の問題や協会組織の腐敗の解決にならない事は明らかなのです。その人達はなにもしないことを自由意志で選択したことになるだけなのです。
そしてその選択の結果を必ず刈り取らねばなりません。それが真理なのです。

「エホバを待つべきだ」とのこの言葉も敬虔な装いをしてはいるが滅びとなる教えの一つかもしれません。人の耳にはもっともな良い事に聞こえはするが聖書が教えている教えと現実からはかけ離れているのです。聖書の事例によれば歴史家ヨセフスが証言したようにイエスの警告に従わずエホバを待った人々は西暦70年の滅びの際のようになるのです。なぜなら@とAは与えられ彼らはBの結果を刈り取っただけなのです。

 しかしその結果を刈り取らされた人々の全てが@やAを問題なく受けていたかは疑問の残るところではあります。もし人々に与えられるべき情報をコントロールして「エホバを待つべきだ」という行動を選択させるようにしたものがいるとすれば殺人より重い罪に値することになるかもしれません。その点に関してめざめよ誌にこのような解説がありました。
  目93 8/8 11-13
聖書によれば,殺人の償いがなされていない場合,殺人者に加え,殺人者に法の処罰を与えなかった地域社会も責めを受けました。(申命記 21:1-9)一例として,ベニヤミン族は部族内にいた殺人者たちを処罰しなかったため,部族全体として血の罪があるという判断がなされたことがあります。ベニヤミン族の人の大半は,殺人にじかに荷担したわけではなかったとはいえ,この犯罪を放置して大目に見たために,ある程度の責めを負うことになりました。(裁き人 20:8-48)確かに,「沈黙は承諾のしるし」と言われているとおりです。

「エホバを待つべきだ」と言う言葉を掲げてなにも行動をとらなかったとするならばその人はめざめよの解説によればその組織の中で行われた悪を承諾したことになるわけです。

さて 真の自由がそれほど大切なことであるなら自由を阻害することも重大な罪とされてもおかしくないといえるでしょう。その結果として重大な損害を受けることがあり得るわけです。そうしたことに対して主イエスはこう言っています。

「しかし,信じるこれら小さな者の一人をつまずかせるのがだれであっても,その者は,ろばの回すような臼石を首にかけられて海に投げ込まれてしまったとすれば,そのほうが良いのです。」ルカ9:42新世界訳

 それ故真の自由、そうした意味においてある少女の輸血裁判で彼女に与えられた情報が偏っていることを理由に真に自由意志を行使したことに当たらないとの結論は聖書的にも正当な判断であったと結論できるでしょう。この結論に反発するならそれは即、「神の言葉」に対する反逆ととらえることができませんか。とにもかくにもエホバの証人の組織が自分たちに都合の良い情報だけを偏って教えているという事実を司法上の結論として認めたことは重要なことなのです。

 ですから組織の提供するものだけを取り入れるようにと言う指示は、エホバの証人の組織が自由を故意に阻害する組織であるという結論になりせんか。この事実は彼らが自由に関して真の神とは真っ向から対立する存在であることを示している事になりませんか。あなた方が真の自由を得るためには得られる全ての情報を考慮すべきではありませんか。こうした警告に注意すべきではありませんか。

コロサイ2:21 「手にするな,味わうな,触れるな」といった定めになおも服するのですか。22 これは,用いつくされてすべて滅びるはずのものに関することであり,人間の命令や教えにしたがうものです。23 いかにもそうした事柄は,自ら課した崇拝の方式と[見せかけの]謙遜,すなわち体を厳しく扱うことにおいて,知恵の外見を有してはいますが,肉の満足と闘う点では何の価値もありません。(新世界訳)

 あなたはこれらの情報を得て真の神が自由がどれほど大事なことと見ているかを理解されたでしょうか。愛も自由と切り離せないものであることも。しかしこの事がわかったとしてもその次が問題なのです。それはモーセの時代イスラエルはあれだけの奇跡を目の当たりにしても真の神の存在を認め真の神を愛するようにはならなかったのだという事実なのです。

それでもエホバの証人は組織、組織と言い続けるのでしょうか。そのことを言い換えれば「真の神の存在を認めなかった」は「信仰を持たなかった」と同じ事になります。その結果としてパウロの言う「信仰による義」を受けられなかったユダヤ人達と同じになるのです。

 現在も同じ事がいえるでしょう。かつてのイスラエルが目の前の主イエスの言う神々(王や君たち)ばかりに注目していたのと同じように、現在はイエスキリストが王として私たちを支配しているにもかかわらず、宗教組織やその代表者ばかりに注目しているだけだからです。また宗教組織はどこでもそうした人間の弱さを巧みに利用しようとしているのも事実です。

 宗教組織を運営するものにとって信者が真の自由を理解してしまうことは大きな損失となるのかもしれません。なぜなら組織が支配者とはならずだだの道具にすぎないことが明らかとなるからなのです。主イエス キリストもこう言っています。2,3人が私の名によって集まるところには私も共にいるでしょうと。大きな協会や組織は救いにとって無用であると聖書そのものがイエスの言葉として明らかにしているのです。

さらに付け加えるなら。エホバはいつでも一つの組織を用いてこられたとの主張にはこう答えましょう。あなた方は予言者がどうして起こされたのか、なぜいつも弱者の立場であったのかを理解していないと。一部の例外を除いて真理を語ったのは王たちや君たちではない。真の神が自由意志を尊重するからこそ弱いたちばの予言者を王の所に使わして助言を与えたのではありませんか。ダビデの時でさえ助言の際には予言者を使わしたではありませんか。

 統治体の立場は王や君たちの立場であって予言者の位置にはいないのです。真の神のやり方とは違う有無を言わせぬトップダウン的なやり方で自由意志を尊重するような物事の行い方ではありません。まさに自分をキリストだと主張しているに等しいと思いませんか。イエスキリストが地上にこられて彼を予言する予言者は終了したとはいえ、神の言葉を預かるものとしての予言者は必要に応じてたてられてきているのです。聖書が教えているのは真の神がいつでも唯一の組織を用いたと言うことではなく、いつでも組織は腐敗してきたという事実です。

 こうした事実をふまえて、あなたがどういう行動を選択するかはまた自由なのです。しかしその選択の結果は自ら刈り取らねばならない責任も生じます。もう一度言います。なにもしないことも一つの選択であることを忘れてはなりません決して責任逃れはできないのです。真の自由はもうおわかりとは思いますが一般に認識されている自由の概念(勝手気ままに行動できる)という意味ではありません。自分の選択した行動のもたらす結果にはその責任もついて回るということなのです。必ずしも選択肢は右か左かの二者択一ではありません。よく考えてご自分にあった選択をされますように。

 今回考慮した自由と愛という言葉について理解するために少しでもお役に立ったでしょうか。こうした概念を基礎として聖書を読み直すならおそらく今までとは違った見方を聖書にたいしてするようになると思うのですが。そうすればなぜイエスがこのようなことを言われたかが新たな面がわかることでしょう。(ルカ4;24 ~ 4:27)また王たちや君たちに直接語らずに予言者を通して語られた理由も理解できるはずなのです。そうです自由を強権で押しつぶすことのないようにするためなのです。

 そうした観点から考えるのなら宗教組織の一部の人間に聖書解釈を任せて組織員を支配させることなど自由の観点からすればあり得ないことではありませんか。今の人類に真の神がただ一つ求めているのは「イエスキリストを救い主である」と信ずる信仰だけではありませんか。全てのことはそこから初めて始まるのです。
 
 エホバの証人の人々は是非この事を確認して、組織という名の人間に対してではなく真の神に対する本当の信仰を深めていただければ幸いです。囚われの身から「真の自由」を獲得されますように。 アーメン

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