たいへん簡潔で明快な文章で、興味深い読み物でした。
私もカルガリー裁判のニュースを読んだとき、ぼんやりと感じたことでしたが、みごとに文章にしてくださいました。
ささいなことですが、聖書の翻訳のことでお尋ねさせてください。
> このように書かれています。「イエスは彼に言われた、『あなたは、心をこめ、魂をこめ、思いをこめてあなたの神エホバを愛さねばならない』。」 マタイ22:37[新世界訳]のようにほかの日本語の聖書もほとんどが同じように訳されています。
>
> この事に関して以前に投稿した内容の中に、この律法を元に人間が他人を裁くことができない故、(なぜなら愛は心の問題であるから人間には裁けない)この律法はまさに神のものといえると書いたことがありました。しかし、確かに愛を強制していることだけには違和感を覚えていたのも事実なのです。
目の鋭い方ですね、ヤオさんは。私は自由は命より重要だという考えは理解できましたが、愛だけが強制されているとかいったことは聖書を読んでいて感じたこともありませんでした。
> ところがあるサイトにおいて 新約聖書翻訳委員会訳(岩波書店)の翻訳が紹介されていて「 愛さねばならない 」と言う命令形が「愛するであろう」と未来形で書かれていることを知りました。この事を元に言語のギリシャ語を調べたところエホバの証人の発行しているギリシャ語行間逐語訳 でもその元々のギリシャ語は未来形で、その部分だけの英訳は(You shall love)となっていることを確認したのです。
>
> 新世界訳にするときにあえてその部分を(You shall love)→(You must love)と言う命令形に置き換えていることも確認しました。なぜあえて置き換えてしまったのでしょう。この言葉の違いは実はとても重要なことであって真の神の本当の姿を理解するために変えてはならない部分だと思うのですが。
命令形として翻訳しているのは他の日本語訳聖書も同様ですね?
手元の新共同訳では「あなたの主である神を愛しなさい」となっており、新改訳も同様です。どうして日本語ではこれまで命令形として翻訳されてきたのでしょうか。
どうして新約聖書翻訳委員会の仕事まで未来形が命令形としてみなされてきたのでしょうか。未来形が強い意志を表す場合がある、とかいう文法上の見解でもあったのでしょうか。参照資料つき新世界訳聖書では脚注でも解説は何もありませんでした。ご存知なら教えていただけませんか。
新約聖書翻訳委員会は名前からして旧約は扱ってないんでしょうね。自由に対するわれわれ日本人の未熟な解釈が原因で起こる、翻訳の甘さは旧約でも見出される可能性はありますね?
宗教が人間と神との契約であるという見方も日本人にとっては把握しにくいことかもしれません。それはやはりキリスト教的自由の考え方を把握できていないことが理由なのかも知れません。とかく序列が絶対視されて、契約の記載などより縦の人間関係を重要視するのが日本的思考ですから、キリスト教的自由という考え方を理解しない、したくない風土がとくに私のいた会衆に蔓延していたことを今、苦々しく思い出されます。権力が縦に下るためには情報を制限して自由を奪うというやり方は時代を選ばず採用されるんですね。またの書き込みを楽しみにしています。
気が向いたら、先ほどのことにお答えしてください。
私もカルガリー裁判のニュースを読んだとき、ぼんやりと感じたことでしたが、みごとに文章にしてくださいました。
ささいなことですが、聖書の翻訳のことでお尋ねさせてください。
> このように書かれています。「イエスは彼に言われた、『あなたは、心をこめ、魂をこめ、思いをこめてあなたの神エホバを愛さねばならない』。」 マタイ22:37[新世界訳]のようにほかの日本語の聖書もほとんどが同じように訳されています。
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> この事に関して以前に投稿した内容の中に、この律法を元に人間が他人を裁くことができない故、(なぜなら愛は心の問題であるから人間には裁けない)この律法はまさに神のものといえると書いたことがありました。しかし、確かに愛を強制していることだけには違和感を覚えていたのも事実なのです。
目の鋭い方ですね、ヤオさんは。私は自由は命より重要だという考えは理解できましたが、愛だけが強制されているとかいったことは聖書を読んでいて感じたこともありませんでした。
> ところがあるサイトにおいて 新約聖書翻訳委員会訳(岩波書店)の翻訳が紹介されていて「 愛さねばならない 」と言う命令形が「愛するであろう」と未来形で書かれていることを知りました。この事を元に言語のギリシャ語を調べたところエホバの証人の発行しているギリシャ語行間逐語訳 でもその元々のギリシャ語は未来形で、その部分だけの英訳は(You shall love)となっていることを確認したのです。
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> 新世界訳にするときにあえてその部分を(You shall love)→(You must love)と言う命令形に置き換えていることも確認しました。なぜあえて置き換えてしまったのでしょう。この言葉の違いは実はとても重要なことであって真の神の本当の姿を理解するために変えてはならない部分だと思うのですが。
命令形として翻訳しているのは他の日本語訳聖書も同様ですね?
手元の新共同訳では「あなたの主である神を愛しなさい」となっており、新改訳も同様です。どうして日本語ではこれまで命令形として翻訳されてきたのでしょうか。
どうして新約聖書翻訳委員会の仕事まで未来形が命令形としてみなされてきたのでしょうか。未来形が強い意志を表す場合がある、とかいう文法上の見解でもあったのでしょうか。参照資料つき新世界訳聖書では脚注でも解説は何もありませんでした。ご存知なら教えていただけませんか。
新約聖書翻訳委員会は名前からして旧約は扱ってないんでしょうね。自由に対するわれわれ日本人の未熟な解釈が原因で起こる、翻訳の甘さは旧約でも見出される可能性はありますね?
宗教が人間と神との契約であるという見方も日本人にとっては把握しにくいことかもしれません。それはやはりキリスト教的自由の考え方を把握できていないことが理由なのかも知れません。とかく序列が絶対視されて、契約の記載などより縦の人間関係を重要視するのが日本的思考ですから、キリスト教的自由という考え方を理解しない、したくない風土がとくに私のいた会衆に蔓延していたことを今、苦々しく思い出されます。権力が縦に下るためには情報を制限して自由を奪うというやり方は時代を選ばず採用されるんですね。またの書き込みを楽しみにしています。
気が向いたら、先ほどのことにお答えしてください。