>『人間的な感覚』『組織的な見方』『神の宇宙的な見地』この線引きはどのようにお考えですか?
>聖書から指摘できますか?
しきぶさん、私のわかる範囲で誠実にお答えしたいと思います。しかし私はあなたになぜそのような線引きをする必要があるのか逆にお聞きしたいのですが。
人間はとかく何かに線引きをしたい動物であるようです。たとえば実際の宇宙から見た地球には線は引かれていませんがそれでも国境という線を人間はもうけています。「エホバ神」の見地からすれば地球に線はありませんがそれが組織的なものであれ国家的なものであれ人間がもうけた線が我々を支配している事実は否定できない現実となっているのです。
それと全く同じように聖書自体はあなたの言う『神の宇宙的な見地』で書かれているものと見ることができるでしょう。つまり線のない宇宙から見た現実の地球のようなものなのです。しかしそれに『人間的な感覚』『組織的な見方』という線引きをして小さな地球儀ににしてしまっているのが宗教組織の現実といえるのではありませんか。
>今回考慮した自由と愛という言葉について理解するために少しでもお役に立ったでしょうか。こうした概念を基礎として聖書を読み直すならおそらく今までとは違った見方を聖書にたいしてするようになると思うのですが。そうすればなぜイエスがこのようなことを言われたかが新たな面がわかることでしょう。(ルカ4;24 ~ 4:27)
(ルカ 4; 24 ~ 4: 27)の所を聖書を引いてみていただきたい。実はそこにもヒントがあるのです。そこにはイエスがユダヤ人にたいしてその時代には同じような境遇の人がエホバの証人の言う「エホバ神の神権組織」イスラエルのなかに大勢いたにもかかわらず救われたのは異邦人のやもめとナアマンだけであったと指摘しているのです。
彼らユダヤ人たちは自分たちが神の特別な臣民であって異邦人は汚れた者達であるため救われないという考え方を歴史事実によってイエスが覆した場面ですね。言葉を換えればエホバの組織の中にいなければ救われないと言う主張と同じような考え方といえるでしょう。それが完全に覆されたためユダヤ人たちはイエスを殺そうとまでしたのです。
この事例でも明らかなように聖書は明らかに神の見地から書かれているのですが人間の側の見方組織の提供する教理教典によってこうしたことが見えなくされているのです。思考の自由、霊的な自由、精神的自由などがいかに重要であるか理解されたでしょうか。
>聖書から指摘できますか?
しきぶさん、私のわかる範囲で誠実にお答えしたいと思います。しかし私はあなたになぜそのような線引きをする必要があるのか逆にお聞きしたいのですが。
人間はとかく何かに線引きをしたい動物であるようです。たとえば実際の宇宙から見た地球には線は引かれていませんがそれでも国境という線を人間はもうけています。「エホバ神」の見地からすれば地球に線はありませんがそれが組織的なものであれ国家的なものであれ人間がもうけた線が我々を支配している事実は否定できない現実となっているのです。
それと全く同じように聖書自体はあなたの言う『神の宇宙的な見地』で書かれているものと見ることができるでしょう。つまり線のない宇宙から見た現実の地球のようなものなのです。しかしそれに『人間的な感覚』『組織的な見方』という線引きをして小さな地球儀ににしてしまっているのが宗教組織の現実といえるのではありませんか。
>今回考慮した自由と愛という言葉について理解するために少しでもお役に立ったでしょうか。こうした概念を基礎として聖書を読み直すならおそらく今までとは違った見方を聖書にたいしてするようになると思うのですが。そうすればなぜイエスがこのようなことを言われたかが新たな面がわかることでしょう。(ルカ4;24 ~ 4:27)
(ルカ 4; 24 ~ 4: 27)の所を聖書を引いてみていただきたい。実はそこにもヒントがあるのです。そこにはイエスがユダヤ人にたいしてその時代には同じような境遇の人がエホバの証人の言う「エホバ神の神権組織」イスラエルのなかに大勢いたにもかかわらず救われたのは異邦人のやもめとナアマンだけであったと指摘しているのです。
彼らユダヤ人たちは自分たちが神の特別な臣民であって異邦人は汚れた者達であるため救われないという考え方を歴史事実によってイエスが覆した場面ですね。言葉を換えればエホバの組織の中にいなければ救われないと言う主張と同じような考え方といえるでしょう。それが完全に覆されたためユダヤ人たちはイエスを殺そうとまでしたのです。
この事例でも明らかなように聖書は明らかに神の見地から書かれているのですが人間の側の見方組織の提供する教理教典によってこうしたことが見えなくされているのです。思考の自由、霊的な自由、精神的自由などがいかに重要であるか理解されたでしょうか。