Basket Caseさん,私もプロテスタント教会に籍を置く元JWです。神学的には他の元JWより詳しいと自負していますので,横レスしちゃいますのでご容赦ください。
> 私は多くの元JW同様三位一体を説くキリスト教は受け入れることがで
> きません。プロテスタント教会は当然ながら教理があまりにもJWと似
> すぎていて、これもちょっと拒否反応を示してしまいます。
☆変な話ですがJWにとっての「三位一体を説くキリスト教」は私も受け入れていません。ただ,その「三位一体」の内容が問題なのです。ものみの塔は意図的に,「三位一体」の極論の部分を強調して示し,それとの対比によって(実際にはキリスト教会が否定していない)御父〜御子の関係をものみの塔独自の真理のように示します。
だからJWとして吸い込んだ「三位一体」の概念を鵜呑みにしたままだと「三位一体」論の一つの柱たる「父と子の人格の独立性」を叫びながら全体像を否定する,という事態に陥ります。私自身がそうでしたし,当時「プロテスタント」と思い込んでいたウッド宣教師の文書や本人との会話によってもますますその落とし穴に落ち込んだだけでした。
一般に「プロテスタント」ということになっている教団教派の大半は,実は「プロテスタント」ではありません。「プロテスタント」とは狭義にはルター派を意味しますが,教義体系のどこかの部分でルター派と意見を異にして分離独立していった教団教派はルター派つまり「プロテスタント」ではありません。一般には宗教改革以降に派生した教団教派を非カトリックという意味で「プロテスタント」と一括りにしているのですが,「自分たちは『プロテスタント』ではなく『バプテスト』だ」と明言してはばからないバプテスト派まで「プロテスタント」として扱われていて,教義面では千差万別なのです。
これはウチの教団の神学校の校長と話していて分かったことなのですが,ルター自身はカトリック的三位一体を消極的にですが否定しています。ただ,聖書から明確に答えの出せる問題ではないために,当時,最重要な争点であった「人は何によって義とされるのか」という義認論の議論を優先させざるを得ず,三位一体の検証は後代に譲ることになり,それがそのままになっているのです。
> 私は多くの元JW同様三位一体を説くキリスト教は受け入れることがで
> きません。プロテスタント教会は当然ながら教理があまりにもJWと似
> すぎていて、これもちょっと拒否反応を示してしまいます。
☆変な話ですがJWにとっての「三位一体を説くキリスト教」は私も受け入れていません。ただ,その「三位一体」の内容が問題なのです。ものみの塔は意図的に,「三位一体」の極論の部分を強調して示し,それとの対比によって(実際にはキリスト教会が否定していない)御父〜御子の関係をものみの塔独自の真理のように示します。
だからJWとして吸い込んだ「三位一体」の概念を鵜呑みにしたままだと「三位一体」論の一つの柱たる「父と子の人格の独立性」を叫びながら全体像を否定する,という事態に陥ります。私自身がそうでしたし,当時「プロテスタント」と思い込んでいたウッド宣教師の文書や本人との会話によってもますますその落とし穴に落ち込んだだけでした。
一般に「プロテスタント」ということになっている教団教派の大半は,実は「プロテスタント」ではありません。「プロテスタント」とは狭義にはルター派を意味しますが,教義体系のどこかの部分でルター派と意見を異にして分離独立していった教団教派はルター派つまり「プロテスタント」ではありません。一般には宗教改革以降に派生した教団教派を非カトリックという意味で「プロテスタント」と一括りにしているのですが,「自分たちは『プロテスタント』ではなく『バプテスト』だ」と明言してはばからないバプテスト派まで「プロテスタント」として扱われていて,教義面では千差万別なのです。
これはウチの教団の神学校の校長と話していて分かったことなのですが,ルター自身はカトリック的三位一体を消極的にですが否定しています。ただ,聖書から明確に答えの出せる問題ではないために,当時,最重要な争点であった「人は何によって義とされるのか」という義認論の議論を優先させざるを得ず,三位一体の検証は後代に譲ることになり,それがそのままになっているのです。