私は結局、別の事業所への移動を機会にエホ証やめたのですが、この移動になるまでは戦々恐々でした。要するにリストラなんですから。年長組が時々頭をくっつけてひそひそ話をしているのを見るのが辛くて恐かった。自分はどうなるのだろう。辞めさせられるのかなという心配が続く毎日でした。そしてとうとう私は神に祈ってしまったのです。エホ証がするように長い祈りではなく、自分の努力の及ばない不安から守ってくれって言う祈りでした。思わず知らず出てきた祈りの言葉でした。
してみると宗教というのはやっぱり現実逃避か気休めなのでしょうか。
でもあの祈りが口をついて出てきたときは、不思議に気持ちはさっぱりとして、なるようにまかせよう、という気持ちになれました。私は宗教のあるべき在り方はこのようなもので良いのではないかと思います。確かに宗教は気休めかもしれないけれど、現実逃避にならなければ良いのではないかと思います。不安や自信が持てない時に、気持ちを整理できればそれでよいのではないかと。エホ証の間違いは在りもしない王国の救いを信じ込ませ、業を行う事で救いを確実にできると信じ込ませ、信者の生活や精神を管理・支配しようとすることです。みんなに終わりの日ぎりぎりの時代にいるという信念を生活を作り変えさせることで演出し、大勢の人が終わりの日ぎりぎりの時代に暮らしているという認識を行動で表していますという演出された状態を目の当たりにしてさらに終わりの日預言を信じ込もうという気にさせる・・・こういうのがエホ証のマインド・コントロールではないでしょうか。なんだか混乱した内容になってしまいました。ふと思ったことでした。
してみると宗教というのはやっぱり現実逃避か気休めなのでしょうか。
でもあの祈りが口をついて出てきたときは、不思議に気持ちはさっぱりとして、なるようにまかせよう、という気持ちになれました。私は宗教のあるべき在り方はこのようなもので良いのではないかと思います。確かに宗教は気休めかもしれないけれど、現実逃避にならなければ良いのではないかと思います。不安や自信が持てない時に、気持ちを整理できればそれでよいのではないかと。エホ証の間違いは在りもしない王国の救いを信じ込ませ、業を行う事で救いを確実にできると信じ込ませ、信者の生活や精神を管理・支配しようとすることです。みんなに終わりの日ぎりぎりの時代にいるという信念を生活を作り変えさせることで演出し、大勢の人が終わりの日ぎりぎりの時代に暮らしているという認識を行動で表していますという演出された状態を目の当たりにしてさらに終わりの日預言を信じ込もうという気にさせる・・・こういうのがエホ証のマインド・コントロールではないでしょうか。なんだか混乱した内容になってしまいました。ふと思ったことでした。