りかさんはじめまして。
>私はみなさんがとても傷ついているのかなあと思いました。
何かを信じる信じないは個人のことだと思います。
それは親のせいでもまわりの人のでいでもないと思うんです。
たとえ親やまわりの人からのプレッシャーにより
頑張っていたとしても結局、その人個人が自分で信仰を培わない限り信仰は生まれにくいと思います。
そうでしょうね。酷な言い方かもしれませんが、2世の方々であっても、積極的な理由でないにしても(親がうるさいから、無難だから、この世で一般人としてやっていく自信がないから、等々)、それはそれでその人個人の判断でJWとしての人生を選択しているわけです。
もっと子供の場合は、物理的に家を追い出されでもしたら生命の危機にさえさらされるわけですから、選択の余地はない場合があるかもしれません。でも人の内心の自由までは誰も奪えません。表面的にしたがっていたとしても、心の中では「クソくらえ」ということもあるからです。
サルトルは、「実存は本質に先立つ」「人は自由であるように呪われている」と言いました。人間は他の動物と異なり、自分自身で自分自身を規定していく生き物、いやそれ以外のあり方がありえない生き物です。サルトルの哲学は無神論哲学と呼ばれますが、これは有神論者にも無神論者にもどちらも当てはまることだと思います。またでなければ哲学としての価値はないでしょう。
http://tokyo.cool.ne.jp/mabunabu/tetugaku/tetu/sarutoru.html
>科学的、また考古学的な証拠から
聖書という書物が神の霊感を受けた書物であり
進化論というものがほとんどありえないという
証拠(創造者がいるということ)を
感情ではなく理性的に理解するように
努めていみるのはいかがでしょうか?
あなたがエホバの証人かクリスチャンかは分かりませんが、エホ証の唱える創造説はほとんどファンダメンタリストと呼ばれるキリスト教一派のそれのパクリです。
「証拠」うんぬんを言われるのであれば、確かに進化論もただの仮説にすぎず、それをほぼ裏付ける証拠はありません。でもそれは創造説とて同じこと、いえ少なくとも現段階の科学では進化論のほうが有力な仮説として支持されているということです。
もちろん創造論のほうが進化論より理にかなっている点もあるでしょう。しかし、創造論が仮に正しいとして、それがどうして聖書に書かれている天地創造の内容が字句どおり正しいということになるのでしょうか。少なくとも、現代科学のさまざまな「証拠」は、ファンダメンタリストおよびエホ証の主張を否定する事実をいくつも裏付けています。
この世の万物は神が創ったのかもしれません。そしてある一定の進化は自主的にとげる能力をも備えるように創造したのかもしれません。
ただここで批判されているのは、そんなことではなく、エホ証の言う、創造論は正しい→聖書は(その字句どおり)正しい(ここまでは多くのファンダメンタリスト的キリスト教会と同じ)→聖書を唯一正しく解釈している組織はエホ証→エホ証にならなければハルマゲドンで滅ぼされる、統治体の言うとおりしろ、というような論法になっていることです。
聖書を字句どおり信じるファンダメンタリスト的キリスト教は、自由主義神学と呼ばれる立場から現代ではことごとく否定されています。
http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/errors.html
信仰の書として聖書を読むのなら別ですが、少なくとも、「証拠」うんぬんを言われるのであれば、現代における「証拠」は、(残念ながら)ファンダメンタリスト的キリスト教徒の信仰を否定するものばかりです。
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/7256/
もっとも、キリスト教徒といえど、天地創造説やマリアの処女懐胎などはまじめに信じていないようです。
http://www.yorozu.indosite.org/agama/bbs/messages2/760.html
あなたがおっしゃるように、「理性的に」とらえる限り、ファンダメンタリストやエホ証の主張をまともに鵜呑みにすることはとてもできません。それでも彼らの主張が正しいと思う(思いたい)のであれば、それは「理性」ではなく、「信仰」とか、自分が正しいと思うことを否定するような都合の悪い事実に目を向けていないというだけではないでしょうか。
>神は人を誰も分け隔てることなく愛されているからです。
そうですね。私もそう思うからこそ、エホ証でなければ滅ぼされる、クリスチャンでなければ滅ぼされる、といったエホ証やキリスト教の言うことはもはや信じません。
>たとえば聖書の中にでてくる数多くの聖書予言が
成就していることなどを考慮に入れてみるのはいかがでしょうか
聖書の時代には確かに成就していたのかもしれませんが、聖書預言をいったいどうやってどういう根拠で当てはめているというのでしょうか。少なくとも、預言好きなラッセルからはじまったエホ証の預言ははずれてばかりです。たまたまラッセルの言っていた1914年に第一次大戦が起こってしまったから信者獲得には有利に働いたようですが、彼はハルマゲドンを預言したのであり、第一次大戦は一種の大患難だったでしょうが、イエスの再臨も楽園の到来もありませんでした。
セブンズデーアドベンティストは預言をはずしたことを公式に謝罪していますが、エホ証はこれだけいいかげんな預言を繰り返しておきながら謝罪したことはただの一遍もありません。
北の王がソ連で、南の王がアメリカだとするダニエル書の解釈も、実際はファンダメンタリスト的キリスト教会も言っていたことで、エホ証はそのパクリです。実際はどうだったでしょうか。ソ連はもうありません。
あのノストラダムスも、聖書と占星術により未来を予知しようとしたそうです。有名な1999年の預言も、実際はキリストの再臨を預言したものとか(再臨を期待しただけかもしれませんが)。また、天文学的には1999年8月に起こるフランスでの日蝕を事前に告知したにすぎなかったようです(それだけでもすごいといえばすごい)。
預言なんて、どうとでも解釈できるし、しかもはずれてばかりではありませんか。どうしてウソの預言ばかりする人々の言うことを信用できるのでしょうか?
>私はみなさんがとても傷ついているのかなあと思いました。
何かを信じる信じないは個人のことだと思います。
それは親のせいでもまわりの人のでいでもないと思うんです。
たとえ親やまわりの人からのプレッシャーにより
頑張っていたとしても結局、その人個人が自分で信仰を培わない限り信仰は生まれにくいと思います。
そうでしょうね。酷な言い方かもしれませんが、2世の方々であっても、積極的な理由でないにしても(親がうるさいから、無難だから、この世で一般人としてやっていく自信がないから、等々)、それはそれでその人個人の判断でJWとしての人生を選択しているわけです。
もっと子供の場合は、物理的に家を追い出されでもしたら生命の危機にさえさらされるわけですから、選択の余地はない場合があるかもしれません。でも人の内心の自由までは誰も奪えません。表面的にしたがっていたとしても、心の中では「クソくらえ」ということもあるからです。
サルトルは、「実存は本質に先立つ」「人は自由であるように呪われている」と言いました。人間は他の動物と異なり、自分自身で自分自身を規定していく生き物、いやそれ以外のあり方がありえない生き物です。サルトルの哲学は無神論哲学と呼ばれますが、これは有神論者にも無神論者にもどちらも当てはまることだと思います。またでなければ哲学としての価値はないでしょう。
http://tokyo.cool.ne.jp/mabunabu/tetugaku/tetu/sarutoru.html
>科学的、また考古学的な証拠から
聖書という書物が神の霊感を受けた書物であり
進化論というものがほとんどありえないという
証拠(創造者がいるということ)を
感情ではなく理性的に理解するように
努めていみるのはいかがでしょうか?
あなたがエホバの証人かクリスチャンかは分かりませんが、エホ証の唱える創造説はほとんどファンダメンタリストと呼ばれるキリスト教一派のそれのパクリです。
「証拠」うんぬんを言われるのであれば、確かに進化論もただの仮説にすぎず、それをほぼ裏付ける証拠はありません。でもそれは創造説とて同じこと、いえ少なくとも現段階の科学では進化論のほうが有力な仮説として支持されているということです。
もちろん創造論のほうが進化論より理にかなっている点もあるでしょう。しかし、創造論が仮に正しいとして、それがどうして聖書に書かれている天地創造の内容が字句どおり正しいということになるのでしょうか。少なくとも、現代科学のさまざまな「証拠」は、ファンダメンタリストおよびエホ証の主張を否定する事実をいくつも裏付けています。
この世の万物は神が創ったのかもしれません。そしてある一定の進化は自主的にとげる能力をも備えるように創造したのかもしれません。
ただここで批判されているのは、そんなことではなく、エホ証の言う、創造論は正しい→聖書は(その字句どおり)正しい(ここまでは多くのファンダメンタリスト的キリスト教会と同じ)→聖書を唯一正しく解釈している組織はエホ証→エホ証にならなければハルマゲドンで滅ぼされる、統治体の言うとおりしろ、というような論法になっていることです。
聖書を字句どおり信じるファンダメンタリスト的キリスト教は、自由主義神学と呼ばれる立場から現代ではことごとく否定されています。
http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/errors.html
信仰の書として聖書を読むのなら別ですが、少なくとも、「証拠」うんぬんを言われるのであれば、現代における「証拠」は、(残念ながら)ファンダメンタリスト的キリスト教徒の信仰を否定するものばかりです。
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/7256/
もっとも、キリスト教徒といえど、天地創造説やマリアの処女懐胎などはまじめに信じていないようです。
http://www.yorozu.indosite.org/agama/bbs/messages2/760.html
あなたがおっしゃるように、「理性的に」とらえる限り、ファンダメンタリストやエホ証の主張をまともに鵜呑みにすることはとてもできません。それでも彼らの主張が正しいと思う(思いたい)のであれば、それは「理性」ではなく、「信仰」とか、自分が正しいと思うことを否定するような都合の悪い事実に目を向けていないというだけではないでしょうか。
>神は人を誰も分け隔てることなく愛されているからです。
そうですね。私もそう思うからこそ、エホ証でなければ滅ぼされる、クリスチャンでなければ滅ぼされる、といったエホ証やキリスト教の言うことはもはや信じません。
>たとえば聖書の中にでてくる数多くの聖書予言が
成就していることなどを考慮に入れてみるのはいかがでしょうか
聖書の時代には確かに成就していたのかもしれませんが、聖書預言をいったいどうやってどういう根拠で当てはめているというのでしょうか。少なくとも、預言好きなラッセルからはじまったエホ証の預言ははずれてばかりです。たまたまラッセルの言っていた1914年に第一次大戦が起こってしまったから信者獲得には有利に働いたようですが、彼はハルマゲドンを預言したのであり、第一次大戦は一種の大患難だったでしょうが、イエスの再臨も楽園の到来もありませんでした。
セブンズデーアドベンティストは預言をはずしたことを公式に謝罪していますが、エホ証はこれだけいいかげんな預言を繰り返しておきながら謝罪したことはただの一遍もありません。
北の王がソ連で、南の王がアメリカだとするダニエル書の解釈も、実際はファンダメンタリスト的キリスト教会も言っていたことで、エホ証はそのパクリです。実際はどうだったでしょうか。ソ連はもうありません。
あのノストラダムスも、聖書と占星術により未来を予知しようとしたそうです。有名な1999年の預言も、実際はキリストの再臨を預言したものとか(再臨を期待しただけかもしれませんが)。また、天文学的には1999年8月に起こるフランスでの日蝕を事前に告知したにすぎなかったようです(それだけでもすごいといえばすごい)。
預言なんて、どうとでも解釈できるし、しかもはずれてばかりではありませんか。どうしてウソの預言ばかりする人々の言うことを信用できるのでしょうか?