よこレス失礼します。
電波扱いのヤオです。
貴方の言いたいことは分るつもりです。しかし思い違いがあります。聖書では貴方が言う執着する意味で愛を教えてはいないのです。
> >あと「愛」ですが、JWで、「愛」=「アガペー」って変な事を教わってるから話がややこしくなるんだよね。日本語の「愛」とは恋人を愛するため愛であって、隣人に対する愛は意味が違うんだよね。「隣人愛」なんて普通の人は使わないしさ。
>
> 失礼ながら反対意見を話させていただきます。
> 日本語にも恋愛とは別に愛は使われます。愛国心というように。
> 愛は、愛する対象への強い専心です。執着心と言えるでしょう。ですから愛は力です。力であるゆえ、愛そのものに道徳性はありません。
> アガペーについてですが、それは感情に左右されない愛です。エホバとイエスが示された愛です。アガペー愛こそ人種・民族・あらゆる階級差別を乗り越えさせる力です。真に悔い改める人を進んで赦すよう人を動かす力だからです。
貴方は聖書を重んじていらっしゃいますか。おそらくそうでしょう。ならばこういう言葉が聖書にあったことを覚えているでしょうか。
諸国民は愛を求めてきた。しかし彼らはそれを情欲(執着心)と取り違えている。という意味の言葉なのです。
愛は真の神の存在そのものなのです。それ故、存在させる神が求めることは、自分以外のものの存在を認めることなのです。それが愛です。
存在を認めないことは人殺しになるのです。愛さないものは人殺しだと聖書は言っているからです。それ故に善人の上にも悪人の上にも雨は降ることになります。また福音も伸べ伝えられるのです。
それ故に敵を愛せよと言われても、敵をすきになったり慕ったりせよという意味ではありません。存在を認めるだけでまずは合格なのです。
前にも書きましたが、最初の律法、真の神エホバを愛すべしと訳されているところの原語では、命令形ではなくあなた方は愛するようになる。と未来形で書かれている事の意味があるのです。
神への愛はその存在を認めることから始まり、その存在を確信するところまで進むのです。それができるとその人はイエスを認めることができ、真の自由も見いだすことができるでしょう。
そうした意味においてものみの塔は神の愛を実践するどころか全く反対の道を進んでしまっていないでしょうか。自分の条件に合うものしか認めない組織はそういわれても仕方がないと思いませんか。神の愛アガペーも条件付きになっているではありませんか。真に悔い改めることが神の愛を受ける条件に果たしてなっているのでしょうか。救いと愛も違うものではないでしょうか。
愛と自由は切り離せないものだと思いますよ。もう一度福音書の中でイエスが何を言っているか良く読み直してみてください。
電波扱いのヤオです。
貴方の言いたいことは分るつもりです。しかし思い違いがあります。聖書では貴方が言う執着する意味で愛を教えてはいないのです。
> >あと「愛」ですが、JWで、「愛」=「アガペー」って変な事を教わってるから話がややこしくなるんだよね。日本語の「愛」とは恋人を愛するため愛であって、隣人に対する愛は意味が違うんだよね。「隣人愛」なんて普通の人は使わないしさ。
>
> 失礼ながら反対意見を話させていただきます。
> 日本語にも恋愛とは別に愛は使われます。愛国心というように。
> 愛は、愛する対象への強い専心です。執着心と言えるでしょう。ですから愛は力です。力であるゆえ、愛そのものに道徳性はありません。
> アガペーについてですが、それは感情に左右されない愛です。エホバとイエスが示された愛です。アガペー愛こそ人種・民族・あらゆる階級差別を乗り越えさせる力です。真に悔い改める人を進んで赦すよう人を動かす力だからです。
貴方は聖書を重んじていらっしゃいますか。おそらくそうでしょう。ならばこういう言葉が聖書にあったことを覚えているでしょうか。
諸国民は愛を求めてきた。しかし彼らはそれを情欲(執着心)と取り違えている。という意味の言葉なのです。
愛は真の神の存在そのものなのです。それ故、存在させる神が求めることは、自分以外のものの存在を認めることなのです。それが愛です。
存在を認めないことは人殺しになるのです。愛さないものは人殺しだと聖書は言っているからです。それ故に善人の上にも悪人の上にも雨は降ることになります。また福音も伸べ伝えられるのです。
それ故に敵を愛せよと言われても、敵をすきになったり慕ったりせよという意味ではありません。存在を認めるだけでまずは合格なのです。
前にも書きましたが、最初の律法、真の神エホバを愛すべしと訳されているところの原語では、命令形ではなくあなた方は愛するようになる。と未来形で書かれている事の意味があるのです。
神への愛はその存在を認めることから始まり、その存在を確信するところまで進むのです。それができるとその人はイエスを認めることができ、真の自由も見いだすことができるでしょう。
そうした意味においてものみの塔は神の愛を実践するどころか全く反対の道を進んでしまっていないでしょうか。自分の条件に合うものしか認めない組織はそういわれても仕方がないと思いませんか。神の愛アガペーも条件付きになっているではありませんか。真に悔い改めることが神の愛を受ける条件に果たしてなっているのでしょうか。救いと愛も違うものではないでしょうか。
愛と自由は切り離せないものだと思いますよ。もう一度福音書の中でイエスが何を言っているか良く読み直してみてください。