『 このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。・・・「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」ヨハネ12:37,40/新共同訳/日本聖書協会
みなさんは「認知的不協和」という心理学用語をごぞんじでしょうか?
『「認知的不協和」とはフェスティンガーの用語で,認知を構成する要素相互の間に,不一致・不調和などの起きる事をいう。
認知的不協和が起きると不協和を低減する行動が起きるという。
この考え方は,心理的葛藤が起きると,その葛藤をなくそうとする傾向が起きるという考えと相通ずるものだが,心理的葛藤は情動的動因に起因しているのに対して,認知的不協和の場合は,全く情動的動因とは別個に認知的動因を明らかにした点で意義がある。
例;愛煙家が喫煙は肺がんのもとになるという知識に接すると,自分は喫煙をしているという知識と,喫煙は肺がんになるという知識との間には不協和が生じてくる。
この認知的不協和を低減するためには,喫煙を止めるとか,肺がんになるという知識を打ち消すような情報を探すとか,不協和を低減するためのさまざまな方法がとられる。』
もし自分が確固としたJWの信仰をもっているとしたならば、そもそも批判的なHPを見ないだろうし、仮に見たとしても必死で擁護「しなければならない」とは感じないはずであろうと思う。
なぜならば、それらの情報に接しても自らのアイデンティティに危機を感じないからです。
簡単に言えば「余裕がある」。「言いたい奴には言わしておけ」「JWは真理なのだから、誰が何と言おうが正しいのだ」という安心感がそこにあるわけです。
しかし、皆さんがおっしゃっているように、自分のJWの信仰にぐらつきや疑問があればあるほど、JWを擁護「しなければならない」と感じてしまうのです。
なぜならば、もしJWが間違っているあるいは真理でないならば、自分のアイデンティティが脅かされるし、ひいてはJWの信仰を基盤として形成されている自分の実生活すら、意味のないものとなってしまう危機があるからです。
ですから、必死で擁護する人ほど、実は内面でJWの信仰に対するぐらつきや疑問があり、そしてそのレベルはアイデンティティ・クライシスを及ぼすほどの強烈なもの、と言う風に理解できるのではないでしょうか。
ですから、いかに論理的にJWの矛盾や問題を議論したところで、そういう人は認めようとしないし(目があっても見ず、耳があっても聞こえない)、自分の頭で考えようとしない・・・ように感じる、のではないでしょうか。
本当の信仰のカギは、神さまに心を癒して貰うこと。
つまり、聖霊によって心を開き、いろいろなことを調べ・自分の頭で感じ・考えた結果として、獲得できるものだと思います。
その結果がJWの信仰ならそれでよし、もしそうでないなら、自分なりの本物を捜し求める「旅」に出かけるべきではないかと思います。
みなさんは「認知的不協和」という心理学用語をごぞんじでしょうか?
『「認知的不協和」とはフェスティンガーの用語で,認知を構成する要素相互の間に,不一致・不調和などの起きる事をいう。
認知的不協和が起きると不協和を低減する行動が起きるという。
この考え方は,心理的葛藤が起きると,その葛藤をなくそうとする傾向が起きるという考えと相通ずるものだが,心理的葛藤は情動的動因に起因しているのに対して,認知的不協和の場合は,全く情動的動因とは別個に認知的動因を明らかにした点で意義がある。
例;愛煙家が喫煙は肺がんのもとになるという知識に接すると,自分は喫煙をしているという知識と,喫煙は肺がんになるという知識との間には不協和が生じてくる。
この認知的不協和を低減するためには,喫煙を止めるとか,肺がんになるという知識を打ち消すような情報を探すとか,不協和を低減するためのさまざまな方法がとられる。』
もし自分が確固としたJWの信仰をもっているとしたならば、そもそも批判的なHPを見ないだろうし、仮に見たとしても必死で擁護「しなければならない」とは感じないはずであろうと思う。
なぜならば、それらの情報に接しても自らのアイデンティティに危機を感じないからです。
簡単に言えば「余裕がある」。「言いたい奴には言わしておけ」「JWは真理なのだから、誰が何と言おうが正しいのだ」という安心感がそこにあるわけです。
しかし、皆さんがおっしゃっているように、自分のJWの信仰にぐらつきや疑問があればあるほど、JWを擁護「しなければならない」と感じてしまうのです。
なぜならば、もしJWが間違っているあるいは真理でないならば、自分のアイデンティティが脅かされるし、ひいてはJWの信仰を基盤として形成されている自分の実生活すら、意味のないものとなってしまう危機があるからです。
ですから、必死で擁護する人ほど、実は内面でJWの信仰に対するぐらつきや疑問があり、そしてそのレベルはアイデンティティ・クライシスを及ぼすほどの強烈なもの、と言う風に理解できるのではないでしょうか。
ですから、いかに論理的にJWの矛盾や問題を議論したところで、そういう人は認めようとしないし(目があっても見ず、耳があっても聞こえない)、自分の頭で考えようとしない・・・ように感じる、のではないでしょうか。
本当の信仰のカギは、神さまに心を癒して貰うこと。
つまり、聖霊によって心を開き、いろいろなことを調べ・自分の頭で感じ・考えた結果として、獲得できるものだと思います。
その結果がJWの信仰ならそれでよし、もしそうでないなら、自分なりの本物を捜し求める「旅」に出かけるべきではないかと思います。