>大〜昔の話ですが
>1960年の京都の国際大会を覚えています。
私も行ったみたいです。(アルバムに写真があった)
でも京都の大会に行って銀閣寺を見たという記憶しか無いです(爆)
外人がいっぱいいた記憶があるけど、当時は米軍立川基地に住んでたし
京都は観光地だからそんなもんだろと思ってたけどありゃ国際大会だったんですね。
言われて初めて気が付きました。
*** 鑑78 245‐246ページ 日本 ***
日本における王国の拡大の別の里程標となったものは,1963年8月21日から25日に
かけて京都で開催された「永遠の福音」大会でした。140万以上の人口を擁し,1,500
の寺院と3,500の神社のある京都は日本文化の中心地の一つとしてよく知られており,
この理由で第二次大戦中は爆撃を免れました。京都は幅の広い街路や大きな並木
道のある近代都市ですが,同時に古風な日本家屋や美しいながめの庭園を備え,
日本古来のふん囲気を漂わせています。京都は,世界中の訪問者のやって来る理
想的な大会都市でした。訪問者たちはいろいろな場所を見物している間に,キリスト
教世界の信条や儀式の多くが仏教のそれと非常によく似ていることを知り,興味を
そそられました。そうした信条や儀式としては,たとえば,火の燃える地獄の教理,
意味の分からない言葉を繰り返し唱えて祈ること,じゅず,聖水,ろうそくの使用,
後光をいただいた“聖人”の崇拝などがあります。確かに,すべての宗派的宗教は
古代バビロンという,ただ一つの源に起源を発しています。
この大会のころまでには,日本の野外では2,884人の伝道者最高数が報告されてい
ました。しかし大会の最初の日から,市営の美しい,近代的な京都会館に2,221人が
集まりました。大会の最初の二日間,聴衆はノア兄弟とロナルド・バイブル兄弟の話
を聞いて感動しました。話は英語で行なわれ,それから日本語に通訳されました。土
曜日の朝,当時のバプテスマとしては最高の数である292人が,木のこんもり生い茂
った嵐山の美しい背景の中を保津川で浸礼を受けました。大会の最高潮は支部の
監督による公開講演でした。その講演には3,534人が出席しました。この出席数は,
これまでの大会出席者の最高数,つまりちょうど40か月前にヘンシェル兄弟が訪問
した時の大会の出席数の2倍以上でした。しかし,さらに多くの増加がもたらされよう
としていたのです,
さらに多くの都市に広がる
1963年から1969年までの期間は,多くの新しい人びとを円熟に導き,新しい区域に
特別開拓者を派遣して,『建てたり,植えたり』する時期でした。京都国際大会の時
から,6年後に開かれた次の大きな大会の時までに,伝道者の最高数は2,884人から
7,889人に増加し,野外で働く開拓者の数は379人から1,573人に増えました。「大患難」
が始まる前に日本全体が徹底的な証言を受けるためには,さらに大勢の開拓者が必
要であるように思われ,この奉仕に携わる特権があらゆる方法で兄弟たちに強調され
ました。
>1960年の京都の国際大会を覚えています。
私も行ったみたいです。(アルバムに写真があった)
でも京都の大会に行って銀閣寺を見たという記憶しか無いです(爆)
外人がいっぱいいた記憶があるけど、当時は米軍立川基地に住んでたし
京都は観光地だからそんなもんだろと思ってたけどありゃ国際大会だったんですね。
言われて初めて気が付きました。
*** 鑑78 245‐246ページ 日本 ***
日本における王国の拡大の別の里程標となったものは,1963年8月21日から25日に
かけて京都で開催された「永遠の福音」大会でした。140万以上の人口を擁し,1,500
の寺院と3,500の神社のある京都は日本文化の中心地の一つとしてよく知られており,
この理由で第二次大戦中は爆撃を免れました。京都は幅の広い街路や大きな並木
道のある近代都市ですが,同時に古風な日本家屋や美しいながめの庭園を備え,
日本古来のふん囲気を漂わせています。京都は,世界中の訪問者のやって来る理
想的な大会都市でした。訪問者たちはいろいろな場所を見物している間に,キリスト
教世界の信条や儀式の多くが仏教のそれと非常によく似ていることを知り,興味を
そそられました。そうした信条や儀式としては,たとえば,火の燃える地獄の教理,
意味の分からない言葉を繰り返し唱えて祈ること,じゅず,聖水,ろうそくの使用,
後光をいただいた“聖人”の崇拝などがあります。確かに,すべての宗派的宗教は
古代バビロンという,ただ一つの源に起源を発しています。
この大会のころまでには,日本の野外では2,884人の伝道者最高数が報告されてい
ました。しかし大会の最初の日から,市営の美しい,近代的な京都会館に2,221人が
集まりました。大会の最初の二日間,聴衆はノア兄弟とロナルド・バイブル兄弟の話
を聞いて感動しました。話は英語で行なわれ,それから日本語に通訳されました。土
曜日の朝,当時のバプテスマとしては最高の数である292人が,木のこんもり生い茂
った嵐山の美しい背景の中を保津川で浸礼を受けました。大会の最高潮は支部の
監督による公開講演でした。その講演には3,534人が出席しました。この出席数は,
これまでの大会出席者の最高数,つまりちょうど40か月前にヘンシェル兄弟が訪問
した時の大会の出席数の2倍以上でした。しかし,さらに多くの増加がもたらされよう
としていたのです,
さらに多くの都市に広がる
1963年から1969年までの期間は,多くの新しい人びとを円熟に導き,新しい区域に
特別開拓者を派遣して,『建てたり,植えたり』する時期でした。京都国際大会の時
から,6年後に開かれた次の大きな大会の時までに,伝道者の最高数は2,884人から
7,889人に増加し,野外で働く開拓者の数は379人から1,573人に増えました。「大患難」
が始まる前に日本全体が徹底的な証言を受けるためには,さらに大勢の開拓者が必
要であるように思われ,この奉仕に携わる特権があらゆる方法で兄弟たちに強調され
ました。