>おお、銀閣寺なら上等ですよ。
思い出してきました。キーワードがあると芋蔓式で記憶が出てきますね(^^;
ポケットに入れた鹿せんべいの束を後ろから近づいてきた鹿に強奪された記憶もあります(笑)
>外人多かったですよね。
いわゆる外人顔の人は在日米軍の軍属と家族が多かったですよ。
当時は在日米軍基地内の会衆は日本の大会に参加する義務はなかったので
(参加しても日本語だから意味不明なので)京都でノア会長に会える、京都の大会で
英語の話が聞けるってことで日本全国の在日米軍の軍属と家族が集まって来ました。
それ以外はハワイから来た人たちで、米本土から来た人達はJW幹部を除くとほんの
数人だった記憶があります。
当時は外人が珍しい時代だったから、ほんの数人でも外人がいるとやたらと存在感が
あったけど人数的には紅毛碧眼&黒人の外人はそんなにいなかった記憶があります。
暇だから会場で人数を数えたんですが、外人顔の大人は30人くらいだったかな。
その半分は米軍立川基地のA,会衆,B会衆の軍属と家族でした。
>彼らやっぱり古都観光が魅力だったんでしょうね!
ハワイから来た人たちはアメリカ国籍を持つ日系人がほとんどだったようで、
里帰りを兼ねて日本に来た人が多かったみたいです。
この人達は日本人と同じ顔だからが何人来たのか全然わかりません。
ふと思ったんですが、京都国際大会が1963年8月でしょ。日本国内のムチの発表が
1964年5月でしょ。これに何か因果関係があるのかなぁ?
当時の母親は公衆の面前でおっぱいをだして子供にお乳を飲ませるのは常識だったし、
子供が何か悪さをすると公衆の面前で母親が子供のパンツを降ろして手でお尻を叩く
のが常識だったわけで、(子供が泣いたら叩くのを辞めるので5発〜10発くらい)
大会会場の待合室でもそういうシーンはよくあったんですが、それが野蛮人の行為だって
外人の宣教師が言い出したのはその頃のような記憶があります。
てことはもしかしてJWのムチの具体的指導は、京都国際大会の待合室で
母親が子供のお尻を手で叩くのを目撃したノア会長からの直接指示かも?(推測)
思い出してきました。キーワードがあると芋蔓式で記憶が出てきますね(^^;
ポケットに入れた鹿せんべいの束を後ろから近づいてきた鹿に強奪された記憶もあります(笑)
>外人多かったですよね。
いわゆる外人顔の人は在日米軍の軍属と家族が多かったですよ。
当時は在日米軍基地内の会衆は日本の大会に参加する義務はなかったので
(参加しても日本語だから意味不明なので)京都でノア会長に会える、京都の大会で
英語の話が聞けるってことで日本全国の在日米軍の軍属と家族が集まって来ました。
それ以外はハワイから来た人たちで、米本土から来た人達はJW幹部を除くとほんの
数人だった記憶があります。
当時は外人が珍しい時代だったから、ほんの数人でも外人がいるとやたらと存在感が
あったけど人数的には紅毛碧眼&黒人の外人はそんなにいなかった記憶があります。
暇だから会場で人数を数えたんですが、外人顔の大人は30人くらいだったかな。
その半分は米軍立川基地のA,会衆,B会衆の軍属と家族でした。
>彼らやっぱり古都観光が魅力だったんでしょうね!
ハワイから来た人たちはアメリカ国籍を持つ日系人がほとんどだったようで、
里帰りを兼ねて日本に来た人が多かったみたいです。
この人達は日本人と同じ顔だからが何人来たのか全然わかりません。
ふと思ったんですが、京都国際大会が1963年8月でしょ。日本国内のムチの発表が
1964年5月でしょ。これに何か因果関係があるのかなぁ?
当時の母親は公衆の面前でおっぱいをだして子供にお乳を飲ませるのは常識だったし、
子供が何か悪さをすると公衆の面前で母親が子供のパンツを降ろして手でお尻を叩く
のが常識だったわけで、(子供が泣いたら叩くのを辞めるので5発〜10発くらい)
大会会場の待合室でもそういうシーンはよくあったんですが、それが野蛮人の行為だって
外人の宣教師が言い出したのはその頃のような記憶があります。
てことはもしかしてJWのムチの具体的指導は、京都国際大会の待合室で
母親が子供のお尻を手で叩くのを目撃したノア会長からの直接指示かも?(推測)