はじめまして、yさん。
> 親は子供によかれと思って、多くの世話をしてしまいます。その結果は子供に経験させるべき仕事を怠ってしまい、後になって気付いた時には“私が子供のやるべきことまで手出しし過ぎてしまった"と後悔するはめになる場合もあります。
元1世の親のこころの痛いお気持ち、よく理解いたしました。
癒えない生傷に心ない攻撃のことばでむち打ってしまったのですね。
ほんとうにごめんなさいね。
> 子供の自立を願わない親はいないと思います。私は子供の自立を妨げてきた親の一人かもしれませんが、それでも子供の事を思い、子供を愛し、子供を慈しみ、子供にとって良かれと思った事を精一杯やってきたつもりです。ただ満足な事はしてあげられませんでした。その事は済まないと思っています。
女にとっては、自分のお腹を痛めて産んだ子ですから、気持ちとしては一生懸命なおつもりだったのはよく理解しました。ただ気持ちが一生懸命だということもきちんと伝えられなければ、子どもにわかってはもらえないと思います。だって、子どもですから、親も人の子だから自分の気持ちや固定観念に凝り固まることもあるよね、なんて考えることはできません。
愛情も正しく伝えられなければ、ストーカーとみなされてもしょうがないのです。親は子どものために良かれと思って、ああいう風にしなさい、あなたの希望はダメです、と言うのかもしれません。でもそれはやはり子どもにとっては、自分という人格の否定であり、そういう積み重ねが、さふらんさんのご子息のおっしゃる、「自己評価の低さ」を作ってしまうのです。
そういう子どもたちは、自分らしく精いっぱい生きたいって思ってはいるのです。もっと前向きに、そして積極的に生きたいって思っているのです。でもいざ、生身の人間の前に立つと、心と意欲が萎縮するのです。傷つけられてたまるか、あなたの言うことにはきっとウラがある、バカにされてたまるか、そういう扱いするんならわたしはあなたとの間に一枚障子を立てさせてもらいます…なんて自分の防衛に走ってしまうんです。
それがいけない、そういう「身構え」が恋を終わらせ、人と対立を生み、やがて自分を孤独に追いやる…。分かっていても心が動かない、そして終わったあとに、どうして自分はこんな風なのだと、わめくのです。子どものほんとうの気持ちを斟酌してもらえないのは、子どもの人格の全否定なのです、親の一生懸命の気持ちにもかかわらず、それがもたらす実際の効果は…。
どちらか一方だけじゃなく、同時に親と子の両方が歩み寄って、心をさらけ出して、新しい道を見出さなければ、けっして事態は変わらないでしょう。yさんはもうそうする用意のできた方です。そして実際子どもさんともあらたな関係を築いておられることでしょう。でもわたしの親は違います。あくまでエホバの基準にわたしを合わさせることが「最善の生き方」だという方針をいまだに棄てないのです。
わたしは彼らに妥協すべきですか?
親も真摯に子どもの事を考えてる、その親の気持ちを汲まないのは、わたしが大人げないからですか?
そう言われてもいい。何と非難されてもいい。わたし自身を傷つけることで親との人間関係をうわべだけよく見えるようにしたって…それこそ正真正銘、自分に真性人格障害を烙印のように焼き付ける行いなのです、ほんとうに…
ただ日本では、子どもの教育としつけについての考え方は旧態依然としており、また人間が生きるってどういうことか、についても経済的な安泰だけが強調されてきました。食えれば人生二重丸、というのがいまだに信じられています。そんな中で育ってきたのですから、正しく人間を受け入れるということができなかったからといって、一方的には責められませんよね。
だから距離を置くのがいいのです。わたしとわたしの親は。でもこのHPに来られる1世の親の方々は、yさんのようにお考えになってる方々だと信じて、言葉遣いには注意しますね。
> 子供達は親の喜びであり、希望であり、生きる力です。
> 親にとって子供とはそういうものです。
そういう気持ち、どうか子どもにちゃんと伝わるように、相手の側に立って振舞ってくれれば、ものみの塔の研究で「感情移入」を学んでいるのだから…というのがわたしの願いです。
> 親は子供によかれと思って、多くの世話をしてしまいます。その結果は子供に経験させるべき仕事を怠ってしまい、後になって気付いた時には“私が子供のやるべきことまで手出しし過ぎてしまった"と後悔するはめになる場合もあります。
元1世の親のこころの痛いお気持ち、よく理解いたしました。
癒えない生傷に心ない攻撃のことばでむち打ってしまったのですね。
ほんとうにごめんなさいね。
> 子供の自立を願わない親はいないと思います。私は子供の自立を妨げてきた親の一人かもしれませんが、それでも子供の事を思い、子供を愛し、子供を慈しみ、子供にとって良かれと思った事を精一杯やってきたつもりです。ただ満足な事はしてあげられませんでした。その事は済まないと思っています。
女にとっては、自分のお腹を痛めて産んだ子ですから、気持ちとしては一生懸命なおつもりだったのはよく理解しました。ただ気持ちが一生懸命だということもきちんと伝えられなければ、子どもにわかってはもらえないと思います。だって、子どもですから、親も人の子だから自分の気持ちや固定観念に凝り固まることもあるよね、なんて考えることはできません。
愛情も正しく伝えられなければ、ストーカーとみなされてもしょうがないのです。親は子どものために良かれと思って、ああいう風にしなさい、あなたの希望はダメです、と言うのかもしれません。でもそれはやはり子どもにとっては、自分という人格の否定であり、そういう積み重ねが、さふらんさんのご子息のおっしゃる、「自己評価の低さ」を作ってしまうのです。
そういう子どもたちは、自分らしく精いっぱい生きたいって思ってはいるのです。もっと前向きに、そして積極的に生きたいって思っているのです。でもいざ、生身の人間の前に立つと、心と意欲が萎縮するのです。傷つけられてたまるか、あなたの言うことにはきっとウラがある、バカにされてたまるか、そういう扱いするんならわたしはあなたとの間に一枚障子を立てさせてもらいます…なんて自分の防衛に走ってしまうんです。
それがいけない、そういう「身構え」が恋を終わらせ、人と対立を生み、やがて自分を孤独に追いやる…。分かっていても心が動かない、そして終わったあとに、どうして自分はこんな風なのだと、わめくのです。子どものほんとうの気持ちを斟酌してもらえないのは、子どもの人格の全否定なのです、親の一生懸命の気持ちにもかかわらず、それがもたらす実際の効果は…。
どちらか一方だけじゃなく、同時に親と子の両方が歩み寄って、心をさらけ出して、新しい道を見出さなければ、けっして事態は変わらないでしょう。yさんはもうそうする用意のできた方です。そして実際子どもさんともあらたな関係を築いておられることでしょう。でもわたしの親は違います。あくまでエホバの基準にわたしを合わさせることが「最善の生き方」だという方針をいまだに棄てないのです。
わたしは彼らに妥協すべきですか?
親も真摯に子どもの事を考えてる、その親の気持ちを汲まないのは、わたしが大人げないからですか?
そう言われてもいい。何と非難されてもいい。わたし自身を傷つけることで親との人間関係をうわべだけよく見えるようにしたって…それこそ正真正銘、自分に真性人格障害を烙印のように焼き付ける行いなのです、ほんとうに…
ただ日本では、子どもの教育としつけについての考え方は旧態依然としており、また人間が生きるってどういうことか、についても経済的な安泰だけが強調されてきました。食えれば人生二重丸、というのがいまだに信じられています。そんな中で育ってきたのですから、正しく人間を受け入れるということができなかったからといって、一方的には責められませんよね。
だから距離を置くのがいいのです。わたしとわたしの親は。でもこのHPに来られる1世の親の方々は、yさんのようにお考えになってる方々だと信じて、言葉遣いには注意しますね。
> 子供達は親の喜びであり、希望であり、生きる力です。
> 親にとって子供とはそういうものです。
そういう気持ち、どうか子どもにちゃんと伝わるように、相手の側に立って振舞ってくれれば、ものみの塔の研究で「感情移入」を学んでいるのだから…というのがわたしの願いです。