私も肉親を失い慟哭と怨念と憎悪と後悔と悲嘆と恐怖とその他言葉にならない諸々の激しい想念に10年以上悩まされました。
簡単に得られる救い、というのは残念ながらあまり期待できません。それほど詳しくはありませんが、福音派とされるキリスト教会に通ったこともあるので事情はある程度お察しします。非常に人格的に優れた相性のいい牧師さんとの出会い等あれば良いのですが。
ご自身の内なる激しい想いと、ご自分が徹底的に向き合ってみるしかないのではないでしょうか。そうすれば自分が何者なのか、何を憎んでいるのか、何に対して怖れているのか、何を欲しているのか、何に飢えているのか、その他諸々が見えてくると思います。口で言うほど簡単ではありませんが、私にとっては結局これが唯一の根本的解決の糸口でした。
私自身の信条では、万人の人の心のコアの部分に神性があり(これは聖書のイエスの言葉と対応しています)、誰でもここへ立ち返ることで神ないし宇宙精神・隣人、他人、万人の心とつながります。
宗教が救いになるならそれもよいが、キリスト教系の宗教ではこれが難しい。箴言や詩篇の都合のよいところだけを読むという方法もありますが、聖書はイエスが実際に語ったとされるものは人の心を穏やかにするものですが、その他はむしろ私には憎悪・怨念・怒り・恐怖の書です。
座禅や瞑想は仏教に系統せずとも何かのきっかけになりうると思います。
そのままでは自分を激しく狂わせずにはおれない外的環境があれば、できる範囲でそれを遠ざけることです。
あるいは優れた他者との出会いによって新しい道が開けることもあるでしょう。
この世は不公平というのはただの表面だけではないか。お金や容姿や才能などをみれば相違はあるかもしれませんが、そのようなものが人間の本質なのでしょうか。不公平だ不公平だとこだわり他人や社会を憎む人は表面だけしか見てないのだから、そのような考えを捨て去らない限りいつまでたっても苦しみ憎しみは消えません。
簡単に得られる救い、というのは残念ながらあまり期待できません。それほど詳しくはありませんが、福音派とされるキリスト教会に通ったこともあるので事情はある程度お察しします。非常に人格的に優れた相性のいい牧師さんとの出会い等あれば良いのですが。
ご自身の内なる激しい想いと、ご自分が徹底的に向き合ってみるしかないのではないでしょうか。そうすれば自分が何者なのか、何を憎んでいるのか、何に対して怖れているのか、何を欲しているのか、何に飢えているのか、その他諸々が見えてくると思います。口で言うほど簡単ではありませんが、私にとっては結局これが唯一の根本的解決の糸口でした。
私自身の信条では、万人の人の心のコアの部分に神性があり(これは聖書のイエスの言葉と対応しています)、誰でもここへ立ち返ることで神ないし宇宙精神・隣人、他人、万人の心とつながります。
宗教が救いになるならそれもよいが、キリスト教系の宗教ではこれが難しい。箴言や詩篇の都合のよいところだけを読むという方法もありますが、聖書はイエスが実際に語ったとされるものは人の心を穏やかにするものですが、その他はむしろ私には憎悪・怨念・怒り・恐怖の書です。
座禅や瞑想は仏教に系統せずとも何かのきっかけになりうると思います。
そのままでは自分を激しく狂わせずにはおれない外的環境があれば、できる範囲でそれを遠ざけることです。
あるいは優れた他者との出会いによって新しい道が開けることもあるでしょう。
この世は不公平というのはただの表面だけではないか。お金や容姿や才能などをみれば相違はあるかもしれませんが、そのようなものが人間の本質なのでしょうか。不公平だ不公平だとこだわり他人や社会を憎む人は表面だけしか見てないのだから、そのような考えを捨て去らない限りいつまでたっても苦しみ憎しみは消えません。