宗教というものに反射的に嫌悪感を感じる人間のひとりとして、ひとこと述べます。
わたしがいちばん拒否反応を覚える点が、こういう考え方です。
>三位一体の教理も聖霊の働きによって理解できるのです。
そこではじめて主イエスを救い主と信仰告白する事が出来るのです。
これは理屈抜きです。
理屈抜きで、つまり筋の通らない主観でも、「聖霊」によって権威づけられるから「正当」になる…。こういう言い方で自己主張できるんなら、「なんでもあり」じゃないかと思うのです。
想像力が豊かであるのはいいことだと思います。とくに相手の立場に共感したり、理解を持とうと思ったら、相手の人の気持ちを想像してみるでしょうから。一方で、いま目前にある事象を主観を排して陳述するという思考もやっぱり重要だと思います。倫理とか道徳を権威づけたい、という思いから宗教に信仰を持つのはいいことだとは思いますが、しかし現実に生きてゆくのには科学的な思考は欠かせないものなのです。
現代科学の母体はギリシャ哲学だと言われています。ギリシャで哲学が始まったのは、宗教ごとの自然観や人間観、世界観を民族・宗教の違いを超えて、共通の理解の仕方を探ろうという試みが企てられたことによるのだそうです。お互いがもっとよく分かり合えるようにっていう目的の下に。
ギリシャ神話に登場する神々の結婚によって世界が存在したと信じる人びとと、エホバという神によって創造されたと信じる人々を結びつけるのに、お互いが理解でき、納得もできる、「共通の陳述」を探ろうとして、こう述べられました。「万物は水である」。「水」というギリシャにもパレスチナにも共通に存在するものを、新たに「概念(固有名詞としてではなく、一般的に通用することば)」として使って説明しようとした(「大人のための哲学授業」/西田研・著)というのが哲学の始まりなのだそうです。宗教的神話に固執するのをやめようとしたんですね。
こういう考え方のおかげでわたしたちの社会生活は恩恵を受けていますよね? 「こういう考え方」というのは「理屈で突きつめよう」という考え方のことです。誰でも理解でき、誰でも納得できる話をしようっていうことです。
ひとりひとりは貴重な存在で尊重しなければならない、という道徳は理屈を突きつめなくても、「公理」として受け入れていいと思います。誰もが自然に望むことだから。でも近所の間で利害が対立したら、調停によって互いに譲歩を引き出しあって解決します。考え抜かれた法律を尊重して、ね。お腹がへったら自分の労働によって付加価値を社会に提供し、それで生計を立てようと考えます。経済学の理屈を尊重して、ね。
自分の都合のいいように「聖霊」に助けてもらおうなんて思うんじゃない。そういう何の付加価値も生まない「聖霊」の話やら三位一体の話やらを講演して、代わりにお布施を受けようなんて企むんじゃない。誰でも納得のゆく方法で、つまり筋の通る働きかけによって身を処して行こうとするんです、わたしたちはね。法律があればお互い納得できるし、労働によって生活するんなら誰が見ても「詐欺」には見えないでしょう? 納得できますよ。
三位一体の話が聖霊によってでしか、また理屈抜きにしか信じれることじゃないんなら、それを信じようとするのはあなたの意地でしかありません。神が三位一体であるかどうかをほのめかす状況証拠でさえ提出できないんなら、議論は成立しませんしね。だから無意味な話は振らないでほしいです。でも、あなたにとってキリスト教の信仰がこんなに役に立った、という話なら案外平気に聞けます。ホントの話。
思わず返事してしまいました。
わたしがいちばん拒否反応を覚える点が、こういう考え方です。
>三位一体の教理も聖霊の働きによって理解できるのです。
そこではじめて主イエスを救い主と信仰告白する事が出来るのです。
これは理屈抜きです。
理屈抜きで、つまり筋の通らない主観でも、「聖霊」によって権威づけられるから「正当」になる…。こういう言い方で自己主張できるんなら、「なんでもあり」じゃないかと思うのです。
想像力が豊かであるのはいいことだと思います。とくに相手の立場に共感したり、理解を持とうと思ったら、相手の人の気持ちを想像してみるでしょうから。一方で、いま目前にある事象を主観を排して陳述するという思考もやっぱり重要だと思います。倫理とか道徳を権威づけたい、という思いから宗教に信仰を持つのはいいことだとは思いますが、しかし現実に生きてゆくのには科学的な思考は欠かせないものなのです。
現代科学の母体はギリシャ哲学だと言われています。ギリシャで哲学が始まったのは、宗教ごとの自然観や人間観、世界観を民族・宗教の違いを超えて、共通の理解の仕方を探ろうという試みが企てられたことによるのだそうです。お互いがもっとよく分かり合えるようにっていう目的の下に。
ギリシャ神話に登場する神々の結婚によって世界が存在したと信じる人びとと、エホバという神によって創造されたと信じる人々を結びつけるのに、お互いが理解でき、納得もできる、「共通の陳述」を探ろうとして、こう述べられました。「万物は水である」。「水」というギリシャにもパレスチナにも共通に存在するものを、新たに「概念(固有名詞としてではなく、一般的に通用することば)」として使って説明しようとした(「大人のための哲学授業」/西田研・著)というのが哲学の始まりなのだそうです。宗教的神話に固執するのをやめようとしたんですね。
こういう考え方のおかげでわたしたちの社会生活は恩恵を受けていますよね? 「こういう考え方」というのは「理屈で突きつめよう」という考え方のことです。誰でも理解でき、誰でも納得できる話をしようっていうことです。
ひとりひとりは貴重な存在で尊重しなければならない、という道徳は理屈を突きつめなくても、「公理」として受け入れていいと思います。誰もが自然に望むことだから。でも近所の間で利害が対立したら、調停によって互いに譲歩を引き出しあって解決します。考え抜かれた法律を尊重して、ね。お腹がへったら自分の労働によって付加価値を社会に提供し、それで生計を立てようと考えます。経済学の理屈を尊重して、ね。
自分の都合のいいように「聖霊」に助けてもらおうなんて思うんじゃない。そういう何の付加価値も生まない「聖霊」の話やら三位一体の話やらを講演して、代わりにお布施を受けようなんて企むんじゃない。誰でも納得のゆく方法で、つまり筋の通る働きかけによって身を処して行こうとするんです、わたしたちはね。法律があればお互い納得できるし、労働によって生活するんなら誰が見ても「詐欺」には見えないでしょう? 納得できますよ。
三位一体の話が聖霊によってでしか、また理屈抜きにしか信じれることじゃないんなら、それを信じようとするのはあなたの意地でしかありません。神が三位一体であるかどうかをほのめかす状況証拠でさえ提出できないんなら、議論は成立しませんしね。だから無意味な話は振らないでほしいです。でも、あなたにとってキリスト教の信仰がこんなに役に立った、という話なら案外平気に聞けます。ホントの話。
思わず返事してしまいました。