> 人それぞれですから。熱心に神学を学ばれていると思います。
> 組織の教える聖霊は活動する力です、と教わりました。
> 救い主イエスは神の被造物とも、、、、、
> 教会の解釈は違います。
> 三位一体の教理も聖霊の働きによって理解できるのです。そこではじめて主イエスを救い主と信仰告白する事が出来るのです。これは理屈抜きです。
、といわれてもね。三位一体論なんてもともと破綻したこじつけであって、分かったようなふりしているだけで実は自称クリスチャンだって全く理解していません。理解不能だから、「聖霊の働きがあってはじめて理解できるのだ」なんて、「それ言っちゃおしめえよ」みたいな、思考停止の非論理的な殺し文句でしか締めくくることができない。
そもそも、聖霊の働きによるなら、それは神の御働きの問題であって、本来人間の力の及ぶところではないのではないか。それをわざわざ「三位一体を信じない自称キリスト教、クリスチャンはカルト、地獄に落ちる」みたいなことを「人間」が言うのは、「隣人愛」を説く聖書の教えに本当に従っているんでしょうか。
こんなことをわざわざ言い放つのは、聖書もイエスの教えも実はどうでもよくて、「俺は常人では理解できない三位一体論を聖霊の力によって受け入れ(ホントは理解なんてできてないからただ鵜呑みにしただけ)た真のクリスチャンだ」って、優越感もって人を見下したいからです。
そもそも三位一体なんて奇妙な教理を金科玉条のごとく掲げているからエホ症みたいなカルトが生まれるんですよ。単なるとらえかたの問題ではないでしょうか。慈愛に満ちた神が三次元世界に住む人間どもの認識不足にそんなに不寛容なのでしょうか。
歴史的には、きわめて政治的な権力闘争の一環としてイエスが神であるか神の子であるかが争われ、三位一体論者が勝利しイエスを神の子、人間とするクリスチャンは異端とされた。現在の異端とは比較になりません。異端を標榜し続けるものは生かしておかない、皆殺しです。
そんなことは、キリスト教の歴史を少し調べれば誰でもわかることです。こんな人間の権力闘争の産物に過ぎない、聖書とも関係のない三位一体なんて教えに何故こだわるんですかね。
そいでもってキリスト教会のドグマに囚われてない人が普通に聖書を読んで「それっておかしいんじゃない?」って思うのもごく当たり前の話です。
ラッセルをものみの塔の創設者で迷惑のはじまりとするのは簡単ですが、彼は聖書やキリスト教の専門教育など受けていなかったがためにキリスト教のドグマにとらわれることもなく、ある意味では聖書に書いていることを彼流に、素朴に字義通り受け入れようとした(のだと思う)のです。
イエスにハトみたいな聖霊が降りてきて、父である神が「これは私の子である」とかのたまうシーンがあるでしょう。あんなの、通常人が普通に読めば、どう考えたってイエスとハトの聖霊と父である神は全くの別人格です。
それを「実は三位一体、全部同じだ、同じなんだけど三つの位格がある」とか言われてもねえ。
そんなことなら、最初からしまいまで一つの(残酷で殺戮が大好きな)旧約聖書の神のほうがよっぽど一貫性がある。
そもそも正統か異端かなんて、正統とされるキリスト教からみたら非公開さんみたいな見方になるが、
キリスト教えの母体であるユダヤ教からみればキリスト教は異端もいいところです。「比較論ができない」「一方的な見方しかできない」「人の話をきかない」のはキリスト教の正統ドグマに犯された狂信的クリスチャンのことです。自分自身がそうである人に限って、こういうことを人に平気で言うのですね。
しかもキリスト教の開祖とされるイエス・キリストは聖書を読む限り「キリスト教」なる新しい宗教を確立しようとしたとは思えない。あくまでユダヤ教の範疇で、言葉の表面だけにとらわれてその本来の精神を失ってしまったユダヤ教の改革者たろうとしただけです。全く別の宗教になって枝分かれしたのはパウロ以降です。
研究の進んだ今日ではイエスの教えに従おうとあくまでユダヤ教の改革派たらんとしていた人が当時は多数存在しました。キリスト教が結果って気に政治権力と融合し、異議を唱えるものは皆殺し、になっていく過程で、人間イエスの教えが消え去り神格化した実際の生前のイエスと関係のないイエス像を正統教理として掲げるキリスト教えだけが正しい教えとされていった、というだけのことです。
> 組織の教える聖霊は活動する力です、と教わりました。
> 救い主イエスは神の被造物とも、、、、、
> 教会の解釈は違います。
> 三位一体の教理も聖霊の働きによって理解できるのです。そこではじめて主イエスを救い主と信仰告白する事が出来るのです。これは理屈抜きです。
、といわれてもね。三位一体論なんてもともと破綻したこじつけであって、分かったようなふりしているだけで実は自称クリスチャンだって全く理解していません。理解不能だから、「聖霊の働きがあってはじめて理解できるのだ」なんて、「それ言っちゃおしめえよ」みたいな、思考停止の非論理的な殺し文句でしか締めくくることができない。
そもそも、聖霊の働きによるなら、それは神の御働きの問題であって、本来人間の力の及ぶところではないのではないか。それをわざわざ「三位一体を信じない自称キリスト教、クリスチャンはカルト、地獄に落ちる」みたいなことを「人間」が言うのは、「隣人愛」を説く聖書の教えに本当に従っているんでしょうか。
こんなことをわざわざ言い放つのは、聖書もイエスの教えも実はどうでもよくて、「俺は常人では理解できない三位一体論を聖霊の力によって受け入れ(ホントは理解なんてできてないからただ鵜呑みにしただけ)た真のクリスチャンだ」って、優越感もって人を見下したいからです。
そもそも三位一体なんて奇妙な教理を金科玉条のごとく掲げているからエホ症みたいなカルトが生まれるんですよ。単なるとらえかたの問題ではないでしょうか。慈愛に満ちた神が三次元世界に住む人間どもの認識不足にそんなに不寛容なのでしょうか。
歴史的には、きわめて政治的な権力闘争の一環としてイエスが神であるか神の子であるかが争われ、三位一体論者が勝利しイエスを神の子、人間とするクリスチャンは異端とされた。現在の異端とは比較になりません。異端を標榜し続けるものは生かしておかない、皆殺しです。
そんなことは、キリスト教の歴史を少し調べれば誰でもわかることです。こんな人間の権力闘争の産物に過ぎない、聖書とも関係のない三位一体なんて教えに何故こだわるんですかね。
そいでもってキリスト教会のドグマに囚われてない人が普通に聖書を読んで「それっておかしいんじゃない?」って思うのもごく当たり前の話です。
ラッセルをものみの塔の創設者で迷惑のはじまりとするのは簡単ですが、彼は聖書やキリスト教の専門教育など受けていなかったがためにキリスト教のドグマにとらわれることもなく、ある意味では聖書に書いていることを彼流に、素朴に字義通り受け入れようとした(のだと思う)のです。
イエスにハトみたいな聖霊が降りてきて、父である神が「これは私の子である」とかのたまうシーンがあるでしょう。あんなの、通常人が普通に読めば、どう考えたってイエスとハトの聖霊と父である神は全くの別人格です。
それを「実は三位一体、全部同じだ、同じなんだけど三つの位格がある」とか言われてもねえ。
そんなことなら、最初からしまいまで一つの(残酷で殺戮が大好きな)旧約聖書の神のほうがよっぽど一貫性がある。
そもそも正統か異端かなんて、正統とされるキリスト教からみたら非公開さんみたいな見方になるが、
キリスト教えの母体であるユダヤ教からみればキリスト教は異端もいいところです。「比較論ができない」「一方的な見方しかできない」「人の話をきかない」のはキリスト教の正統ドグマに犯された狂信的クリスチャンのことです。自分自身がそうである人に限って、こういうことを人に平気で言うのですね。
しかもキリスト教の開祖とされるイエス・キリストは聖書を読む限り「キリスト教」なる新しい宗教を確立しようとしたとは思えない。あくまでユダヤ教の範疇で、言葉の表面だけにとらわれてその本来の精神を失ってしまったユダヤ教の改革者たろうとしただけです。全く別の宗教になって枝分かれしたのはパウロ以降です。
研究の進んだ今日ではイエスの教えに従おうとあくまでユダヤ教の改革派たらんとしていた人が当時は多数存在しました。キリスト教が結果って気に政治権力と融合し、異議を唱えるものは皆殺し、になっていく過程で、人間イエスの教えが消え去り神格化した実際の生前のイエスと関係のないイエス像を正統教理として掲げるキリスト教えだけが正しい教えとされていった、というだけのことです。