夫に対して「もっと家事を手伝ってほしい」という期待を持っている場合。共働きで自分も疲れて帰ってきたのに、自分が食事の支度をしているあいだじゅう、夫はTVの前で横になってビールを飲んでいる。
「わたしも疲れているの。食事の支度を手伝ってくれない?」
「早く食べられるように、食卓の片づけをやってくれる?」
…というふうに言葉で伝えれば、そのままの内容が伝わります。
しかし、「夫はわかっているはず」と思って沈黙し、ただ、ため息をついたり恨めしそうににらんだり、というだけでは、夫には何も伝わりません。嫌な雰囲気だけは伝わるかも知れませんが、実際妻が何に腹を立てているかがわかりません。
それどころか「倦怠期かな」「更年期かな」などと見当違いの方向に夫の想像が働いてしまうことになります。あるいは「うちの妻はいつも不機嫌そうだ」と、夫の妻への評価が下がってしまうかもしれません。もっと悪いことに「うちの妻はオレを嫌っているようだ」と夫自身の人格そのものを否定されたように受けとる夫もいます。これが、夫婦関係のほかの領域についても、ギクシャクした関係に発展してゆくことになるのです。
妻が伝えたかったことは単に「食事の支度を手伝ってほしい」ということだったのに、ことばを使わないことが、これだけのズレを生んでしまうのです。
日本では「沈黙は金なり」と言われたり、また自己主張をするよりも黙っているほうが大人の証拠であると言われたりするなど、「言葉を使ったコミュニケーション」については低く評価する土壌があります。しかし上の例で見たように、言葉を使って相手に正しくものを伝えていかないと、取り返しのつかないことになったり、小さなズレがどんどん広がっていくことにもなりかねません。
暴力行為は違法ですし、最悪のコミュニケーションです。しかし「沈黙」も、ある意味ではそれ以上にタチが悪いのです。対人関係療法のコミュニケーション分析では、「沈黙は破壊的な可能性を持っている」とされています。つまり、コミュニケーションの打ち切りを意味するからです。
(「自分でできる対人関係療法」/水島広子・著)
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わたしはこの考えかたに賛成しています。ですから言葉をたくさん使って、長い文章になることもしばしばです。でも、相手の人格を否定するような言い方はしないように努めています。とくに掲示板では「おしゃべり」ではなく「書き言葉」なので、それは比較的容易です。
相手の人格を否定する、というのは「攻撃」です。なぜならそれは相手を傷つけることによって、自分に対してへこませてやろうと意図されたものだからです。「攻撃」は対話・議論を打ち切ることです。水島さんのことばをお借りすれば、「破壊的な可能性」を持つという点で、暴力や沈黙と同じです。どんなにたくさんオブラートで包んでもね。
「舌はいくら使っても疲れません。
それだけに使い方に注意しましょう」。
…というのは相手を非難する言葉です。自分のいらだちや怒りをぶつける表現です。感情をぶつけるだけの言い合いは「口論」と言って、「議論」「対話」とは言いません。聖書には「口論が起きる前にそこを離れよ」とか「塩で味付けされた慈しみのある言葉を言うように」とあるじゃないですか。
ご自分が不満に思う点をそのまま率直に述べてください。わたしが求道者さんの立場にいたなら、「エホバの証人を批判することとキリスト教を批判することとを区別するべきだ。エホバやイエスを批判することはキリスト教全体を批判することだし、少なくとも自分的にはたいへんにいらだつ」と言います。「キリスト教が絶対必要な人」なんですから。
ただこういうふうに言えば受け入れてもらえるという保証はありません。むしろカモネギです。叩かれまくると思います。所詮、宗教が必要な人と、宗教が無くてもとりたてて困ることのない人とでは住む世界が違うんですから。ただ自分の信じていることを言葉にすると、とくに書き言葉にすると、かえって自分個人の信条がはっきり見えて、信仰は強まることさえあります。エホバの証人時代にそれは個人的にも実感しました。
宗教は、あなたの言うとおり理屈ぬきででも信じれるものです。というか、信じるのに事実が必要なのでもありません。ただ2世の子たちのように、情報を制限されて「信じ込ませられた」ということが重大な人権の蹂躙なのです。そうして育った人たちが、だれ彼となく出会う人にみな、とくに反対の考えを持つ人たちを説得するか、攻撃して倒すかして、自分の正しさを自分で確認しようとすることが「間違いだ」と言うのです、わたし的にはね。それは「すべての人に対して平和を追い求める」こととは矛盾しているのではないでしょうか。
ということで、
舌はいくら使っても疲れません。
それだけに使い方に注意しましょう。
などと言って、相手が暴言やわいせつのように口にすべきでないことをわめきたてているかのような言い方はもう止めてください。不満や怒りやいらだちは、きちんと具体的に陳述してください。相手がどうか、ではなく、相手の意見のどこに反感を覚えるかを述べてください。
以上、いつも長ったらしい小梅でした。
「わたしも疲れているの。食事の支度を手伝ってくれない?」
「早く食べられるように、食卓の片づけをやってくれる?」
…というふうに言葉で伝えれば、そのままの内容が伝わります。
しかし、「夫はわかっているはず」と思って沈黙し、ただ、ため息をついたり恨めしそうににらんだり、というだけでは、夫には何も伝わりません。嫌な雰囲気だけは伝わるかも知れませんが、実際妻が何に腹を立てているかがわかりません。
それどころか「倦怠期かな」「更年期かな」などと見当違いの方向に夫の想像が働いてしまうことになります。あるいは「うちの妻はいつも不機嫌そうだ」と、夫の妻への評価が下がってしまうかもしれません。もっと悪いことに「うちの妻はオレを嫌っているようだ」と夫自身の人格そのものを否定されたように受けとる夫もいます。これが、夫婦関係のほかの領域についても、ギクシャクした関係に発展してゆくことになるのです。
妻が伝えたかったことは単に「食事の支度を手伝ってほしい」ということだったのに、ことばを使わないことが、これだけのズレを生んでしまうのです。
日本では「沈黙は金なり」と言われたり、また自己主張をするよりも黙っているほうが大人の証拠であると言われたりするなど、「言葉を使ったコミュニケーション」については低く評価する土壌があります。しかし上の例で見たように、言葉を使って相手に正しくものを伝えていかないと、取り返しのつかないことになったり、小さなズレがどんどん広がっていくことにもなりかねません。
暴力行為は違法ですし、最悪のコミュニケーションです。しかし「沈黙」も、ある意味ではそれ以上にタチが悪いのです。対人関係療法のコミュニケーション分析では、「沈黙は破壊的な可能性を持っている」とされています。つまり、コミュニケーションの打ち切りを意味するからです。
(「自分でできる対人関係療法」/水島広子・著)
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わたしはこの考えかたに賛成しています。ですから言葉をたくさん使って、長い文章になることもしばしばです。でも、相手の人格を否定するような言い方はしないように努めています。とくに掲示板では「おしゃべり」ではなく「書き言葉」なので、それは比較的容易です。
相手の人格を否定する、というのは「攻撃」です。なぜならそれは相手を傷つけることによって、自分に対してへこませてやろうと意図されたものだからです。「攻撃」は対話・議論を打ち切ることです。水島さんのことばをお借りすれば、「破壊的な可能性」を持つという点で、暴力や沈黙と同じです。どんなにたくさんオブラートで包んでもね。
「舌はいくら使っても疲れません。
それだけに使い方に注意しましょう」。
…というのは相手を非難する言葉です。自分のいらだちや怒りをぶつける表現です。感情をぶつけるだけの言い合いは「口論」と言って、「議論」「対話」とは言いません。聖書には「口論が起きる前にそこを離れよ」とか「塩で味付けされた慈しみのある言葉を言うように」とあるじゃないですか。
ご自分が不満に思う点をそのまま率直に述べてください。わたしが求道者さんの立場にいたなら、「エホバの証人を批判することとキリスト教を批判することとを区別するべきだ。エホバやイエスを批判することはキリスト教全体を批判することだし、少なくとも自分的にはたいへんにいらだつ」と言います。「キリスト教が絶対必要な人」なんですから。
ただこういうふうに言えば受け入れてもらえるという保証はありません。むしろカモネギです。叩かれまくると思います。所詮、宗教が必要な人と、宗教が無くてもとりたてて困ることのない人とでは住む世界が違うんですから。ただ自分の信じていることを言葉にすると、とくに書き言葉にすると、かえって自分個人の信条がはっきり見えて、信仰は強まることさえあります。エホバの証人時代にそれは個人的にも実感しました。
宗教は、あなたの言うとおり理屈ぬきででも信じれるものです。というか、信じるのに事実が必要なのでもありません。ただ2世の子たちのように、情報を制限されて「信じ込ませられた」ということが重大な人権の蹂躙なのです。そうして育った人たちが、だれ彼となく出会う人にみな、とくに反対の考えを持つ人たちを説得するか、攻撃して倒すかして、自分の正しさを自分で確認しようとすることが「間違いだ」と言うのです、わたし的にはね。それは「すべての人に対して平和を追い求める」こととは矛盾しているのではないでしょうか。
ということで、
舌はいくら使っても疲れません。
それだけに使い方に注意しましょう。
などと言って、相手が暴言やわいせつのように口にすべきでないことをわめきたてているかのような言い方はもう止めてください。不満や怒りやいらだちは、きちんと具体的に陳述してください。相手がどうか、ではなく、相手の意見のどこに反感を覚えるかを述べてください。
以上、いつも長ったらしい小梅でした。