> 「あぶさんは元JW1世じゃない」という言葉に喜んでいいものやら、悲しんでいいものやら、複雑な心境で今います^^;
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> デイジーさん。「JWのマイコンを受けたか、どうかで本当に苦しんでいる根っこの部分は理解できない」って所ですが、私は今だにしっこく理解できると信じています。理由は、同じ素材(人間&母)だからです。
この根っこの部分というのは、繰り返しになりますが、あくまで、個人の自由意思でJWの信仰を受け入れそれに基づいて行動したかどうか、に関わることですから。
実際に良かれと思って実際にはわが子を虐待してしまったことに対する自責の念というのは同じ体験をした人でないと分からないと私も思います。私にも分かりません。ただ同じように自分でJW信仰を受け入れてしまったことがあるために、自分もエホバの証人として子供を持てば同じ事をしたであろう、という意味では心情的に推察しやすい、というだけです。
逆に言えば、あぶさんさんのお気持ちは元JWには本当には分からないのです。また分かるとも誰も思っていません(今のところ)。だからお互いの違いを認めて、お互いを尊重してこそ有意義な対話が成り立つのでは?と提案してみたわけです。それを「あくまで私は絶対に理解できると今でも思っている」と言われると、やっぱり引いてしまうわけですよ。
あぶさんさんが今後もっと多くの元JWの過去の体験を知るようになっていけばおそらく頭では理解できるようになると思います。でもデイジーさんが言われている「根っこの部分は理解できない」っていうのはあくまで実際に自分が自由意思で選択した行動から生じた結果に対する激しい自責の念、ということですから。
元JW2世といっても、自らの自由意思でJW信仰を選び取った要素の強い人は、1世的な面がかなりあることになります。逆に1世であっても周囲の状況に流されて、といった面の強い人は、2世的な面が強いことになります。
1世とか2世とかいうのは、JW問題を語る上で決定的に重要な前提となる要素に関してとりあえず分かりやすい色分けをして話をしやすくしよう、というようなことであって、あまりこだわると本末転倒になると私は思います。
元2世の場合は、選択の余地が実質上存在せず、詐欺の被害者の側面が強いわけですが、騙されていたにせよ、一時は本人の自由意思でJWを信じていたということには変わりないわけです。騙された、という点では、元1世も同じなわけで、あくまで、極端に言って程度の差なのだと思います。
でもあぶさんさんの場合は、どこまで行ってもJW信仰をご自分の自由意思で受け入れたことがないのですから、やはり違うと思うんですよね。ですから、逆に言えば元JWは根っこの部分ではあぶさんさんの気持ちは分からないのです。それを前提とした上で話をすることに、何か問題があるのでしょうか?というのが私の疑問なんですが。
> それから、私は「元1世」とか「元2世」とかのレッテルに拘っているのじゃなくってtamaさんから「あぶさん自身がJW関係者でもないのに、あぶさんがJW非難をするのに違和感がある」の意見を受けて、じゃあそれなら自分の立ち位置をわかりやすくした方がいいのかな?と思っただけで。「仲間でいたい」という気持ちは本当!でも、違和感ある人じゃ無理ですよね。
私自身はJW関係者というと自らの意思でJW信仰を受け入れたことがなくても親族がJWになって被害を受けていたり、あるいはJW被害者救済活動をしている第三者やキリスト教関係者等もすべて含みます。
実際に自分の自由意思でJWになったことがなくても、彼らの多くは相当にJWを研究していますから、かなり深い心情的な部分まで自分がJWになったつもりで考えたかのように理解するまでになっています。それでも、やはり実際の元JWからすれば違和感を感じることがあるのです。
ですから、私の個人的な意見ですが、あぶさんさんも無理にきばって「絶対に理解できる」などと思わずに、違いを認めた方がいいのではと言っているわけです。
親子といっても、究極的にはやはり別の人間なのです。このあたりが、JW問題、なかでも2世の虐待問題などを考える上でも問われる部分なんじゃないかと思います。あぶさんさんが、お嬢さんがJWにハイってしまい心の傷を負った、あるいは傷を深めてしまったために、「絶対に分かってやろう、分かるはずだ」と思われる気持ちは分からなくもないですが、
実際にわが子を虐待してしまった元JWからすれば、あぶさんさんのように子供の気持ちを分かってやろうともせずにJWの信仰から良かれと思って実際には親の信仰を押し付けた、子供の気持ちを理解しようともせずに無視して虐待した、ことに対する激しい自責の念があるわけで、
このままあくまであぶさんさんが「絶対に分かるはず」と意気込まれるなら、さらに「あぶさんさんには私たちの気持ちは理解できるはずもない」ってことになってしまうと思うのですが、どうでしょうか。
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> デイジーさん。「JWのマイコンを受けたか、どうかで本当に苦しんでいる根っこの部分は理解できない」って所ですが、私は今だにしっこく理解できると信じています。理由は、同じ素材(人間&母)だからです。
この根っこの部分というのは、繰り返しになりますが、あくまで、個人の自由意思でJWの信仰を受け入れそれに基づいて行動したかどうか、に関わることですから。
実際に良かれと思って実際にはわが子を虐待してしまったことに対する自責の念というのは同じ体験をした人でないと分からないと私も思います。私にも分かりません。ただ同じように自分でJW信仰を受け入れてしまったことがあるために、自分もエホバの証人として子供を持てば同じ事をしたであろう、という意味では心情的に推察しやすい、というだけです。
逆に言えば、あぶさんさんのお気持ちは元JWには本当には分からないのです。また分かるとも誰も思っていません(今のところ)。だからお互いの違いを認めて、お互いを尊重してこそ有意義な対話が成り立つのでは?と提案してみたわけです。それを「あくまで私は絶対に理解できると今でも思っている」と言われると、やっぱり引いてしまうわけですよ。
あぶさんさんが今後もっと多くの元JWの過去の体験を知るようになっていけばおそらく頭では理解できるようになると思います。でもデイジーさんが言われている「根っこの部分は理解できない」っていうのはあくまで実際に自分が自由意思で選択した行動から生じた結果に対する激しい自責の念、ということですから。
元JW2世といっても、自らの自由意思でJW信仰を選び取った要素の強い人は、1世的な面がかなりあることになります。逆に1世であっても周囲の状況に流されて、といった面の強い人は、2世的な面が強いことになります。
1世とか2世とかいうのは、JW問題を語る上で決定的に重要な前提となる要素に関してとりあえず分かりやすい色分けをして話をしやすくしよう、というようなことであって、あまりこだわると本末転倒になると私は思います。
元2世の場合は、選択の余地が実質上存在せず、詐欺の被害者の側面が強いわけですが、騙されていたにせよ、一時は本人の自由意思でJWを信じていたということには変わりないわけです。騙された、という点では、元1世も同じなわけで、あくまで、極端に言って程度の差なのだと思います。
でもあぶさんさんの場合は、どこまで行ってもJW信仰をご自分の自由意思で受け入れたことがないのですから、やはり違うと思うんですよね。ですから、逆に言えば元JWは根っこの部分ではあぶさんさんの気持ちは分からないのです。それを前提とした上で話をすることに、何か問題があるのでしょうか?というのが私の疑問なんですが。
> それから、私は「元1世」とか「元2世」とかのレッテルに拘っているのじゃなくってtamaさんから「あぶさん自身がJW関係者でもないのに、あぶさんがJW非難をするのに違和感がある」の意見を受けて、じゃあそれなら自分の立ち位置をわかりやすくした方がいいのかな?と思っただけで。「仲間でいたい」という気持ちは本当!でも、違和感ある人じゃ無理ですよね。
私自身はJW関係者というと自らの意思でJW信仰を受け入れたことがなくても親族がJWになって被害を受けていたり、あるいはJW被害者救済活動をしている第三者やキリスト教関係者等もすべて含みます。
実際に自分の自由意思でJWになったことがなくても、彼らの多くは相当にJWを研究していますから、かなり深い心情的な部分まで自分がJWになったつもりで考えたかのように理解するまでになっています。それでも、やはり実際の元JWからすれば違和感を感じることがあるのです。
ですから、私の個人的な意見ですが、あぶさんさんも無理にきばって「絶対に理解できる」などと思わずに、違いを認めた方がいいのではと言っているわけです。
親子といっても、究極的にはやはり別の人間なのです。このあたりが、JW問題、なかでも2世の虐待問題などを考える上でも問われる部分なんじゃないかと思います。あぶさんさんが、お嬢さんがJWにハイってしまい心の傷を負った、あるいは傷を深めてしまったために、「絶対に分かってやろう、分かるはずだ」と思われる気持ちは分からなくもないですが、
実際にわが子を虐待してしまった元JWからすれば、あぶさんさんのように子供の気持ちを分かってやろうともせずにJWの信仰から良かれと思って実際には親の信仰を押し付けた、子供の気持ちを理解しようともせずに無視して虐待した、ことに対する激しい自責の念があるわけで、
このままあくまであぶさんさんが「絶対に分かるはず」と意気込まれるなら、さらに「あぶさんさんには私たちの気持ちは理解できるはずもない」ってことになってしまうと思うのですが、どうでしょうか。