昼寝するぶた 掲示板過去ログ:#8370

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No.8370 Re:懐かしいなぁ、こんなコアな話が出来ると思わなかった 投稿者:まさ吉 投稿日:2005/10/31 00:45 ただの一般人 ♂    部外者です 40代後半 神がいても無宗教な人

>最初に1分隊の「射撃」に配属されて、その後で2分隊の「水測」に行ったって
> 事は、まさ吉さんの方が私よりちょっと先輩みたいですね。私は初級海士課程
> の第1期ですから、最初に3分隊の「内燃」配置だったら配置換えがあっても
> 最後まで3分隊の中だけでした。私が横須賀教育隊にいたのは4ヶ月強で、
> その後で第2術科学校に2ヶ月強でしたけど、まさ吉さんは教育隊に6ヶ月いた
> 口じゃないかと思います。

当時も今もそうじゃないかと思うのですが、水測は基本的に一分隊なんですよね。但しそれは護衛艦乗り組みの場合であって、潜水艦の水測員は二分隊になる訳です。水測員には少術校出身の若い三曹がいて(19歳程度)海士長になっても、こいつらにアゴで使われるという配置が嫌で辞めたのかもしれません。それと、私は現在45歳で、ゆーじさんよりは少し年下なんですよね。私も教育隊の期間は4.5ケ月でした。中級水測員課程は6ケ月でずっと江田島にいました。江田島の上陸時の楽しみと言えば、広島の薬研堀のソープに行くか、呉の隊員クラブで徹夜マージャンするか・・・・今思うと荒んだ生活だったかもしれませんけど、今思うとこれが懐かしい・・時期から考えるとリムパックでは顔を会わせているかもですねw 当時、米軍の補給艦と洋上補給で併走しながら空母ミッドウェイを見た記憶があります。第七艦隊の旗艦はブルーリッジで今も健在じゃなかったかと・・・私の当時の二護群は佐世保に司令部があり、名実共に佐世保の部隊でした。当時の教育隊の訓練は佐世保の教育隊が一番厳しいと噂でしたけど、護衛艦に乗り組むようになってからは、どこの教育隊出身者も変わらなかったです。教育隊時代の親友はみんな三分隊に進み、教育隊の修業式と別れで激しく涙したことを憶えています。彼らは今、どうしているのだろうか・・

あと、二護群のたかつき時代に「特艇員」に選ばれて、2ケ月間、カッターばかり漕いでいました。20歳だったこの時期は気力体力共に絶頂期にあり、辛くも楽しい時期でした。なんせ仕事がカッター漕ぐ事で特別扱いでしたから、朝から醤油味のステーキ(これが今思うと旨かった)食って、カッター漕いで、昼飯にステーキ食って夕方までカッター漕いで、晩飯にステーキ食って、まむしドリンクとにんにくの錠剤飲まされてまたまたカッター漕いでという生活が2ケ月も続きました。メンバーは全員気合を入れるためにまゆげを剃る、スキンヘッドにする、とまぁハチャメチャだった訳です。最後には、あのオールをバキバキと何本も折る位まで全員鍛えられていた訳ですから・・・メンバーは一心同体の扱いを受けるため、上陸後、ピンサロに行くのまで一緒。メンバーの中にとても恐ろしい先輩がいたのですがね訓練の途中で立ち寄った港のピンサロでは恐ろしい金額が書き込んである明細書を受け取ったのですが、それを見た先輩は店員に「なんじゃいこりゃぁ〜なんかのまちがいじゃないんかい?」といって店員のおにいさんの目の前で飲み物が入ったグラスをニヤニヤしながら手で握りつぶってました。とにかくあの頃は極道のおにいさん方に刺されても死ぬ気がしないほど鍛われていました。結局たかつきのカッターチームは乗組員全員の見送りとZ旗に見送られ競技に参加、見事優勝を成し遂げ記念のメダルを授与された訳ですが、今もそのメダルは三年満期の金杯と教育隊の修業アルバムと共に私の手許に大切に保管してあります。

ゆーじさんもちゃんと金杯もってますか〜?
ていうか、二人で自衛隊よもやま話「涙の艦隊勤務」なんて執筆できそうですね(´ー`)

あまりにコアでディープな話に成り過ぎましたので少し余談を書かせていただきました。

ではまた。
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