☆ゆーじさん
発売、おめでとうございます。
>東京駅前の八重洲ブックセンターで昼寝するぶたの本の現物を確認してきました。宗教批判書コーナーの「良心の危機」があるのと同じ場所に5冊平積みされてました。
無事出産って感じかな?
>執筆中にものみの塔の弁護士に介入されたりいろいろごたごたしたけど、ちゃんとした形になってほっとしています。
「ものみの塔の弁護士の雇い主のものみの塔の人」にもぜひ読んでもらいましょうね。一冊余分に買って海老名に郵送するっていうのもおもしろいかも。「その節は『適切な助言』をありがとうございました。無事出版にこぎつけました」ってメッセージつけて。
たのしみです。東京へは行けないけれど、ここでお祝いの言葉を述べさせていただきます。
☆“聖書は正しい”さん
鋭いご意見、楽しませていただきました。
>聖書を読んでも、ある人にとって愛の神は自明の存在と感じられて、別の人には神が漠然とした曖昧なものに感じられるのは、なぜなんでしょうか。これは信仰の問題ではないと思います。
そう思います。信仰の問題じゃなくて、本人の気持ちのありようではないでしょうか。つまり、自分は救いを必要としている、と感じているか、それとも今は自分の力で個人的な目標を成しとげたいって思っているか、という問題じゃないでしょうか。だから、自分の理想や目標があまりにも達しがたく感じたときって、人間は神頼みしますもんね。
救われたいっていう気持ちにも種類があると思います。いくら練習してもスランプから抜け出れない、力を貸してくださいっていう気持ちや、どうかいつも通りの力が出せますようにっていう気持ち、危険な事態に見舞われたときに助けてっていうような気持ち。こういうのは適切な指導や援助があれば救われます。
でも、なにをやってもうまく行かないで人生の多くの時間を浪費してきた、こんなダメな自分を救ってくださいとか、自分が好きになれないとか、そういう精神的な未熟さから来る救いの必要なら、やっぱり何か強力な導きがほしいって切望しますよね。そんなときには聖書も光り輝いて見えるんじゃないでしょうか。「私の足もとのともし火」なんてね。あと、宗教的な家庭で育てられたって言うこともあるかもしれない。
真理がなければ自分達は絶望的だって思う人は神を求めるかもしれない。でも一方、どこに間違いがあるかを探って、事態に対処しようっていう人は、神さまはかなり修辞的なものにとどめるかもしれません。
心理学の理論に、E.T.ヒギンズ教授による「セルフ・ディスクレパンシー理論」というのを読んだことがあります。
現実の自己(自己概念:自分について持っているイメージ)と理想的な自己のあいだにズレ(ディスクレパンシー)があると自分を肯定的に見れないので、落胆や悲しみという感情が生じる、また「かくあるべき自己」と現実の自分とのあいだにズレが大きいと、自分を否定してしまうので怖れや不安といった感情が生じる…らしいです。
だから、人間はかくあるべしって厳格に教えられてきたりすると、自分という存在を許せなかったりして、神に強く救いなんかを求めてしまうのかな、なんて読後に感想を持ちました。
神を信じて、生活がしやすくなるんならそれでけっこうだと思いますが、考えることや、選択すること、決断することなんかを神や「神の代弁者」の人たちに委ねてしまうのは、不健全で無責任だと思います。
事実が自分の望むことに反していても、それがどれほどの脅威なのかをまずしっかり確かめるなら、現在の状況も将来も絶望と決めつけてしまうほど、悪くはないのではないか、パニックになるほどのことではないのではないか、と思うのですが…。
発売、おめでとうございます。
>東京駅前の八重洲ブックセンターで昼寝するぶたの本の現物を確認してきました。宗教批判書コーナーの「良心の危機」があるのと同じ場所に5冊平積みされてました。
無事出産って感じかな?
>執筆中にものみの塔の弁護士に介入されたりいろいろごたごたしたけど、ちゃんとした形になってほっとしています。
「ものみの塔の弁護士の雇い主のものみの塔の人」にもぜひ読んでもらいましょうね。一冊余分に買って海老名に郵送するっていうのもおもしろいかも。「その節は『適切な助言』をありがとうございました。無事出版にこぎつけました」ってメッセージつけて。
たのしみです。東京へは行けないけれど、ここでお祝いの言葉を述べさせていただきます。
☆“聖書は正しい”さん
鋭いご意見、楽しませていただきました。
>聖書を読んでも、ある人にとって愛の神は自明の存在と感じられて、別の人には神が漠然とした曖昧なものに感じられるのは、なぜなんでしょうか。これは信仰の問題ではないと思います。
そう思います。信仰の問題じゃなくて、本人の気持ちのありようではないでしょうか。つまり、自分は救いを必要としている、と感じているか、それとも今は自分の力で個人的な目標を成しとげたいって思っているか、という問題じゃないでしょうか。だから、自分の理想や目標があまりにも達しがたく感じたときって、人間は神頼みしますもんね。
救われたいっていう気持ちにも種類があると思います。いくら練習してもスランプから抜け出れない、力を貸してくださいっていう気持ちや、どうかいつも通りの力が出せますようにっていう気持ち、危険な事態に見舞われたときに助けてっていうような気持ち。こういうのは適切な指導や援助があれば救われます。
でも、なにをやってもうまく行かないで人生の多くの時間を浪費してきた、こんなダメな自分を救ってくださいとか、自分が好きになれないとか、そういう精神的な未熟さから来る救いの必要なら、やっぱり何か強力な導きがほしいって切望しますよね。そんなときには聖書も光り輝いて見えるんじゃないでしょうか。「私の足もとのともし火」なんてね。あと、宗教的な家庭で育てられたって言うこともあるかもしれない。
真理がなければ自分達は絶望的だって思う人は神を求めるかもしれない。でも一方、どこに間違いがあるかを探って、事態に対処しようっていう人は、神さまはかなり修辞的なものにとどめるかもしれません。
心理学の理論に、E.T.ヒギンズ教授による「セルフ・ディスクレパンシー理論」というのを読んだことがあります。
現実の自己(自己概念:自分について持っているイメージ)と理想的な自己のあいだにズレ(ディスクレパンシー)があると自分を肯定的に見れないので、落胆や悲しみという感情が生じる、また「かくあるべき自己」と現実の自分とのあいだにズレが大きいと、自分を否定してしまうので怖れや不安といった感情が生じる…らしいです。
だから、人間はかくあるべしって厳格に教えられてきたりすると、自分という存在を許せなかったりして、神に強く救いなんかを求めてしまうのかな、なんて読後に感想を持ちました。
神を信じて、生活がしやすくなるんならそれでけっこうだと思いますが、考えることや、選択すること、決断することなんかを神や「神の代弁者」の人たちに委ねてしまうのは、不健全で無責任だと思います。
事実が自分の望むことに反していても、それがどれほどの脅威なのかをまずしっかり確かめるなら、現在の状況も将来も絶望と決めつけてしまうほど、悪くはないのではないか、パニックになるほどのことではないのではないか、と思うのですが…。