エホバの証人にあまり知識のない私ですが、もしよろしかったら、ここでちょっと質問をさせていただきたいのですが。
私は「キリスト教に傷ついた」と言っているのですが、キリスト教にもいろいろありますよね。「神の恵み」を強調するような、生の肯定に結びつく喜びの教えならば、とてもよかったと思いますが、私の行っていた教会では、罪と罰が強調されていて、どうしても人生真っ暗闇のように感じられました。「わたしたちは一瞬ごとに死にむかっている」「裁きの時は迫っている」と殆ど毎週、聞かされました。耳タコです。また、他の宗派に対して排他的で、他宗派の悪口はしょっちゅう囁かれていました。つまり、グループ全体が機能不全のカルト集団になってしまっていたということだったんだと思います。一緒に通っていた子供たちの中で、心がおかしくなった子はたくさんいます。
しかし、その教会が公に異端と認知されていない以上は、私自身も個人的な理由から傷つきやすかったのかもしれない、とも思うわけです。私の場合、幼い時に親に対して強烈な不信感を感じてしまうような、命にかかわる体験がありました。その体験から救われたとき(すでに親は信じられないと思いこんでいますから)、私を救ったのは神なんだと思っていました。そう思うことで、幼少時代から今まで、虐待的な環境を乗り切りました。乗り越えてこられたのは信仰のお蔭なのかもしれないし、信じたことは、それなりに良かったのかもしれません。ただ、その神というのが、罪と罰で脅す「裁きの神」だったので、常に強迫的に何事も頑張るというような調子でした。心の余裕がなくて、神経過敏でした。今になって、大人として生きる意味が分からなくなって、少し困ったことになっています。家庭が機能不全に陥っていて、親が私に愚痴や悪口ばかりを吹き込むという環境だったこともあり、また思春期からはお付き合いのあった恋人たちに対して卑屈に振舞ってしまったことなどから、人間不信が強化されていきました。それで、カルト教会の教えを自分で成就?する方向へ歩んできたようなところがあります。(このへんのことは、ゲストブックのほうへ別に投稿させていただこうかなぁ。個人的な事情で面白いかどうかわからないけど。)
私たちの教会では、出産育児、社会での労働などを、原罪に対する罰とみていました。このような考え方は、親が普段こぼしている愚痴ともピッタリ合致する考え方です。私は本当に世の中は悪いもので、大人になってすることは、みんな苦行ばかりだと思っていました。(それ以前に、私は自分は大人にならずに死ぬんだろうとも思っていましたが、これは虐待などの影響と思います)。エホバの証人のほうでは、そのあたりは、どうですか。「仕事は罰だ」と思ってしまうと、なかなか、汗水流して働いて生活を維持していくことを、本当に有り難いことだと喜んで受け入れようとは思えません。それに、おなかを痛めて子供を産むこと、子供を育てること、誰かに愛情をかけ社会貢献し、パートナーシップを組んでお互いに成長していくことさえも「罰だから仕方がない」「天国に行くまでの我慢だ」ということになってしまいますね。すると、愛情のやりとりは仮の姿、信じられない、嘘ばかりだということになってしまいます。天国を夢見ていれば、それでも何とかやっていけますが、宗教を捨てると「天国」という報酬と、「神」というお守りがなくなります。すると辛いとき、何のため我慢しているのか分からなくなります。ちょっと体調が悪かったり、すこし物事がうまくいかないだけで、コントロールを失って自暴自棄のようになってしまいます。ほんの少しのことで「なんで生きているのか」という深い悩みへ引きずられていきます。
つまり、心の抵抗力の問題ですね。気分転換のタイミングを早めに見つけられたら、それでいいのかもしれない。天国の代わりに、何らかの報酬を自分で用意できたらいいのかもしれない。心のどこかで自分を裁こうとするから、落ち込むのかもしれない。このようなことで、辛さを感じられたことのある方、いらっしゃいますか。きっと、いらっしゃるでしょうね。よかったら、そのご経験、共有させていただけませんか。もし立ち直られたのでしたら、そのキッカケやプロセスについて、少しでもお話を伺えたら幸せです。いつも長文でごめんなさいね。
私は「キリスト教に傷ついた」と言っているのですが、キリスト教にもいろいろありますよね。「神の恵み」を強調するような、生の肯定に結びつく喜びの教えならば、とてもよかったと思いますが、私の行っていた教会では、罪と罰が強調されていて、どうしても人生真っ暗闇のように感じられました。「わたしたちは一瞬ごとに死にむかっている」「裁きの時は迫っている」と殆ど毎週、聞かされました。耳タコです。また、他の宗派に対して排他的で、他宗派の悪口はしょっちゅう囁かれていました。つまり、グループ全体が機能不全のカルト集団になってしまっていたということだったんだと思います。一緒に通っていた子供たちの中で、心がおかしくなった子はたくさんいます。
しかし、その教会が公に異端と認知されていない以上は、私自身も個人的な理由から傷つきやすかったのかもしれない、とも思うわけです。私の場合、幼い時に親に対して強烈な不信感を感じてしまうような、命にかかわる体験がありました。その体験から救われたとき(すでに親は信じられないと思いこんでいますから)、私を救ったのは神なんだと思っていました。そう思うことで、幼少時代から今まで、虐待的な環境を乗り切りました。乗り越えてこられたのは信仰のお蔭なのかもしれないし、信じたことは、それなりに良かったのかもしれません。ただ、その神というのが、罪と罰で脅す「裁きの神」だったので、常に強迫的に何事も頑張るというような調子でした。心の余裕がなくて、神経過敏でした。今になって、大人として生きる意味が分からなくなって、少し困ったことになっています。家庭が機能不全に陥っていて、親が私に愚痴や悪口ばかりを吹き込むという環境だったこともあり、また思春期からはお付き合いのあった恋人たちに対して卑屈に振舞ってしまったことなどから、人間不信が強化されていきました。それで、カルト教会の教えを自分で成就?する方向へ歩んできたようなところがあります。(このへんのことは、ゲストブックのほうへ別に投稿させていただこうかなぁ。個人的な事情で面白いかどうかわからないけど。)
私たちの教会では、出産育児、社会での労働などを、原罪に対する罰とみていました。このような考え方は、親が普段こぼしている愚痴ともピッタリ合致する考え方です。私は本当に世の中は悪いもので、大人になってすることは、みんな苦行ばかりだと思っていました。(それ以前に、私は自分は大人にならずに死ぬんだろうとも思っていましたが、これは虐待などの影響と思います)。エホバの証人のほうでは、そのあたりは、どうですか。「仕事は罰だ」と思ってしまうと、なかなか、汗水流して働いて生活を維持していくことを、本当に有り難いことだと喜んで受け入れようとは思えません。それに、おなかを痛めて子供を産むこと、子供を育てること、誰かに愛情をかけ社会貢献し、パートナーシップを組んでお互いに成長していくことさえも「罰だから仕方がない」「天国に行くまでの我慢だ」ということになってしまいますね。すると、愛情のやりとりは仮の姿、信じられない、嘘ばかりだということになってしまいます。天国を夢見ていれば、それでも何とかやっていけますが、宗教を捨てると「天国」という報酬と、「神」というお守りがなくなります。すると辛いとき、何のため我慢しているのか分からなくなります。ちょっと体調が悪かったり、すこし物事がうまくいかないだけで、コントロールを失って自暴自棄のようになってしまいます。ほんの少しのことで「なんで生きているのか」という深い悩みへ引きずられていきます。
つまり、心の抵抗力の問題ですね。気分転換のタイミングを早めに見つけられたら、それでいいのかもしれない。天国の代わりに、何らかの報酬を自分で用意できたらいいのかもしれない。心のどこかで自分を裁こうとするから、落ち込むのかもしれない。このようなことで、辛さを感じられたことのある方、いらっしゃいますか。きっと、いらっしゃるでしょうね。よかったら、そのご経験、共有させていただけませんか。もし立ち直られたのでしたら、そのキッカケやプロセスについて、少しでもお話を伺えたら幸せです。いつも長文でごめんなさいね。