>>月経があるというだけで「けがれている」と言われてしまうのだから、たまりませんよ。
>この点に関しては,昔,どこで見たのか,まったく思い出せない
>のですが,これは,女性に対する「思いやり」だと,
>どこかに書いてあった記憶があります。
>(思い出せないゆえ,引用してあげられないのが残念です。)
ソース出しておくね。
『女性に対する「思いやり」』というのは、
セックスの仕方まで細かく規制された1970時代の話しですね。
「生理中に性行為をすると審理委員会にかけられて排斥にされるのか?」
という質問とその答えからきています。
*** 塔72 12/1 735‐736ページ 読者からの質問 ***
● 女の月経期間中の,夫婦関係を禁ずるユダヤ人の律法は,どの程度まで
クリスチャンに当てはまりますか。―アメリカの一読者より
女性の月経期間中の性交渉に関する律法はこう述べています。「人がもし,月のさわりのある女と寝て,そのはだを現すならば,男は女の源を現し,女は自分の血の源を現したのであるから,ふたり共にその民のうちから断たれなければならない」。(レビ 20:18,口語; 18:19,20)ユダヤ人の律法はまた,妻の月経が,夫との性交中に始まる可能性をも考慮に入れています。
そうした状況にかんする規定は,レビ記 15章24節(口語)に見いだせます。「男がもし,その女と寝て,その不浄を身にうけるならば,彼は七日のあいだ汚れるであろう。また彼の寝た床はすべて汚れるであろう」。このことからもわかるように,月経期間中の女性との故意の性関係のみが,『断たれること』,つまり死刑を招いたのです。
月経期間中の女性との性関係を禁ずるその規定には,目的がありました。月経のある女性の血にさわって,宗教的に汚れることがないよう律法は男性を保護しました。それはまた,女性の身体的および生物学的な限界をも考慮に入れていました。この律法は,守られたときは,明らかにイスラエル人の女性の健康に貢献しました。ジェイコブ・B・グレン博士は,その著書,「聖書と現代医学」の中でこう述べています。「女性の性殖器はとくに抵抗力が低下する期間中(月経),刺激物に対してとりわけ傷つきやすい。ユダヤ人の間に,この期間中の夫婦生活を禁ずる厳しい律法があったのはその理由による」。
クリスチャンはモーセの律法のもとにはいません。(ロマ 6:14)しかし彼らは,そこに示されている原則に正しく考慮を払い,それらの原則に従って生活するよう努めます。
女性が月経期間中にあることを知りながら性交を行なえば,死刑になったという事実は,エホバ神がこの事柄を重要視しておられることを示しています。
クリスチャンは,人を儀式的にも宗教的にも「汚れた」者とする律法のもとにはいませんが,神の前に清い良心を保つことに関心を持っています。たとえば,クリスチャンの婦人は,かぶり物のことや服装の面で「適当」なことを行なうよう勧められています。使徒パウロもまた,ある行為を,神のしもべたちにとって,「似つかわしくない」,また「適切でない」行為として記述しています。(エペソ 5:3,4,新。ロマ 1:28,新。コリント前 11:13,新。テモテ前 2:9,10を比較しなさい)確かに夫婦関係は,公の問題ではなく,私的な事がらです。とはいえ,自分の妻のからだから,血液や排泄物が流出しているときに,性関係を持つのは「適当で」,「似つかわしい」ことと,自分は思うだろうか。そうするのは「自然な」ことだろうかとクリスチャンが自問してみるのは正しいことです。わたしたちは次のことを思い起こすかもしれません。つまり,ある事柄を行ないえても,そのためにそのことが聖書的見地からして「自然な」行為になるとはかぎりません。(ロマ 1:26,27と較べなさい),それゆえクリスチャンは,清い良心をもって個人として行ないうることを決定するにさいし,自然なこと,適当なこと,ふさわしいことを考慮すべきです。
そのうえ,クリスチャンの夫は,『知識にしたがって〔妻〕とともに住み続け,より弱い器,女性たるものとして,これに誉れを配(する)』ようにと命令を受けています。(ペテロ前 3:7,新)モーセの律法に照らしてみると,知識にしたがって妻とともに住むことには,月経期間中,妻に思いやりを示すという事柄が含まれていることがわかります。もし夫が,妻の最善の福祉よりも自分の欲情を満たすことのほうを優先させるなら,妻に『誉れを配して』いないことは明らかです。もし夫が妻の月経周期や気分の変化を考慮しなければ,『知識にしたがって妻とともに住んでいる』ことにはなりません。配偶者の福祉が危うくなるかもしれないときに自制をしないなら,夫は次の聖書の命令を無視していることになります。「各自,気をつけて自分のからだを清く尊く保ち」なさい。―テサロニケ前 4:4,口語。
もとより,夫婦間の密接な関係は,クリスチャン会衆の審査委員を構成する長老たちによって調査される性質のものではありません。それらの長老たちは,もしそうした問題で援助を求められれば,適切な助言を与えるかもしれませんが,彼らの権威はそこで終わります。結婚している人びとも,他のクリスチャンすべてと同じように,何が正しいかに関する自分自身の内面的な意識に留意することにより,自らを霊的に強めたいと考えるでしょう。またそれらの人は,夫婦の間の事柄でどう行動するかにかんし,エホバ神が関心を示しておられることに感謝するでしょう。
>この点に関しては,昔,どこで見たのか,まったく思い出せない
>のですが,これは,女性に対する「思いやり」だと,
>どこかに書いてあった記憶があります。
>(思い出せないゆえ,引用してあげられないのが残念です。)
ソース出しておくね。
『女性に対する「思いやり」』というのは、
セックスの仕方まで細かく規制された1970時代の話しですね。
「生理中に性行為をすると審理委員会にかけられて排斥にされるのか?」
という質問とその答えからきています。
*** 塔72 12/1 735‐736ページ 読者からの質問 ***
● 女の月経期間中の,夫婦関係を禁ずるユダヤ人の律法は,どの程度まで
クリスチャンに当てはまりますか。―アメリカの一読者より
女性の月経期間中の性交渉に関する律法はこう述べています。「人がもし,月のさわりのある女と寝て,そのはだを現すならば,男は女の源を現し,女は自分の血の源を現したのであるから,ふたり共にその民のうちから断たれなければならない」。(レビ 20:18,口語; 18:19,20)ユダヤ人の律法はまた,妻の月経が,夫との性交中に始まる可能性をも考慮に入れています。
そうした状況にかんする規定は,レビ記 15章24節(口語)に見いだせます。「男がもし,その女と寝て,その不浄を身にうけるならば,彼は七日のあいだ汚れるであろう。また彼の寝た床はすべて汚れるであろう」。このことからもわかるように,月経期間中の女性との故意の性関係のみが,『断たれること』,つまり死刑を招いたのです。
月経期間中の女性との性関係を禁ずるその規定には,目的がありました。月経のある女性の血にさわって,宗教的に汚れることがないよう律法は男性を保護しました。それはまた,女性の身体的および生物学的な限界をも考慮に入れていました。この律法は,守られたときは,明らかにイスラエル人の女性の健康に貢献しました。ジェイコブ・B・グレン博士は,その著書,「聖書と現代医学」の中でこう述べています。「女性の性殖器はとくに抵抗力が低下する期間中(月経),刺激物に対してとりわけ傷つきやすい。ユダヤ人の間に,この期間中の夫婦生活を禁ずる厳しい律法があったのはその理由による」。
クリスチャンはモーセの律法のもとにはいません。(ロマ 6:14)しかし彼らは,そこに示されている原則に正しく考慮を払い,それらの原則に従って生活するよう努めます。
女性が月経期間中にあることを知りながら性交を行なえば,死刑になったという事実は,エホバ神がこの事柄を重要視しておられることを示しています。
クリスチャンは,人を儀式的にも宗教的にも「汚れた」者とする律法のもとにはいませんが,神の前に清い良心を保つことに関心を持っています。たとえば,クリスチャンの婦人は,かぶり物のことや服装の面で「適当」なことを行なうよう勧められています。使徒パウロもまた,ある行為を,神のしもべたちにとって,「似つかわしくない」,また「適切でない」行為として記述しています。(エペソ 5:3,4,新。ロマ 1:28,新。コリント前 11:13,新。テモテ前 2:9,10を比較しなさい)確かに夫婦関係は,公の問題ではなく,私的な事がらです。とはいえ,自分の妻のからだから,血液や排泄物が流出しているときに,性関係を持つのは「適当で」,「似つかわしい」ことと,自分は思うだろうか。そうするのは「自然な」ことだろうかとクリスチャンが自問してみるのは正しいことです。わたしたちは次のことを思い起こすかもしれません。つまり,ある事柄を行ないえても,そのためにそのことが聖書的見地からして「自然な」行為になるとはかぎりません。(ロマ 1:26,27と較べなさい),それゆえクリスチャンは,清い良心をもって個人として行ないうることを決定するにさいし,自然なこと,適当なこと,ふさわしいことを考慮すべきです。
そのうえ,クリスチャンの夫は,『知識にしたがって〔妻〕とともに住み続け,より弱い器,女性たるものとして,これに誉れを配(する)』ようにと命令を受けています。(ペテロ前 3:7,新)モーセの律法に照らしてみると,知識にしたがって妻とともに住むことには,月経期間中,妻に思いやりを示すという事柄が含まれていることがわかります。もし夫が,妻の最善の福祉よりも自分の欲情を満たすことのほうを優先させるなら,妻に『誉れを配して』いないことは明らかです。もし夫が妻の月経周期や気分の変化を考慮しなければ,『知識にしたがって妻とともに住んでいる』ことにはなりません。配偶者の福祉が危うくなるかもしれないときに自制をしないなら,夫は次の聖書の命令を無視していることになります。「各自,気をつけて自分のからだを清く尊く保ち」なさい。―テサロニケ前 4:4,口語。
もとより,夫婦間の密接な関係は,クリスチャン会衆の審査委員を構成する長老たちによって調査される性質のものではありません。それらの長老たちは,もしそうした問題で援助を求められれば,適切な助言を与えるかもしれませんが,彼らの権威はそこで終わります。結婚している人びとも,他のクリスチャンすべてと同じように,何が正しいかに関する自分自身の内面的な意識に留意することにより,自らを霊的に強めたいと考えるでしょう。またそれらの人は,夫婦の間の事柄でどう行動するかにかんし,エホバ神が関心を示しておられることに感謝するでしょう。