> 歴史的背景がどうあれ、現代の私が読んだときに、全然いい気持ちがしないのですから、私個人の宗教思想としては、全く受け入れられないものです。
そうですね。背景はどうあれ、気分を害されたわけですね。
> 本当に、おっしゃるとおりですね。もちろん親子関係のあり方は、時とともに変わっていきますね。ただ、このことを発達心理学的に考えてみると、子供自身が、成長のそれぞれの段階を経験する時期は、「その時」しかないのだ、ということが分かります。成長期に子供の中で構築された自己価値感や、世界に対する基本的信頼感の程度などは、それがどのようなものであれ、とても強烈で確固としたものになってしまいます。大事な成長期に、あまりにも残酷な言葉でののしられるなど、虐待的な環境におかれていれば、自己価値感がとても低くなり、世界に対する基本的な信頼感が少なくなってしまいます。親が子供にとって、最大の「環境」になっているからです。大きくなって親に頼る度合いが少なくなってきた後で、いくら親が急に優しくなったとしても、それによって、それまでに(成長期に)その子が受けた心の傷が無条件に解消するというわけではないのです。
>
勿論、そうですよね。おっしゃりたいことよくわかるつもりです。
私も同じですよ。私は大学生のころにいきなり抑圧から解放されて、暫くAC関係の本を読み漁ったりしてました。社会人になって一人暮らしをしてたんですが、その時期は特に、親との嫌な思い出ばかり思い出し、「いつか仕返ししてやろう」と毎日思ってましたよ。体罰は体が記憶しているから、昔のことは水に流そう・・とはなかなか思えないものです。人間は感情の生き物と言いますし。その後ある人と出会って、「なんかもう、こういう復讐だのなんだのってのは疲れたな、どうせ親も死ぬし、自分も死ぬ。エネルギーの矛先を変えよう」と思い、覚悟して一度実家に帰って関係を作り直してみました。それは自分の過去を受け入れる作業でもあったのですが。それまではどうしても、自分がJWにかかわったことを心底は受け入れたくなかったし、親のこともどうしても受け入れられなかった。そして、なにより自分が自分であることが嫌だったです。早く死なないかなと思ってたし。ま、そんなこんなだったのですが、関係を作り直したら昔ほど嫌ではなかった。昔より親を受け入れることができた。お互い大人になったのかなと感じました。親をある意味親と思わず、同性の、ただひとりの人間として捉えなおしてみたら、少しだけ共感できるところもありましたし。ただ、、しこりはありますね、確実に。昔のことで、親とは何十回(何百回かな)も喧嘩しましたよ。でも、どうにも通じないんですよね。「神様の素晴らしさをあなたに教えられずに、神に申し訳ない」と言う。あり得ないですよ、こっち(子供)には謝罪の一言もない。だから、もう、それはそれで仕方がないんだな、と。やるだけのことはやったし、これ以上は望まないことにしました。話し合っても通じないことって、ありますもんね。それも込みで受け入れようと思いました。そんなようなしこりをどう処理するかが今後の課題です。あまり感情のいいなりになりたくないので。。私は結婚しているけど、まだ怖くて子供はつくれません。自分が母親ってものになりたくないんです。自分のこういう面倒な面とは今後もじっくり付き合っていくつもりです。
> 「親代わり」と私が喩えて言ったのは、健全な親を持った普通の人にわかりやすい表現にしようと思って表現した言葉です。チーズケーキさんが、それを特に「わかりやすい」と思われたのでしたら、あなたはACではないだろうと、私は思います。ACという言葉が本当に必要な人は、ACの情報に出会うと涙を流して感動し、その夜はそのことばかり考えて眠れなくなります。あなたのお母様のことについては、私にはわかりません。明らかにACである私が、「親代わり」という言葉を発展させて説明することも、やはり、ちょっと難しいと感じます。
>
なるほど。確かにそうですね。妙に納得してしまいました。
なにせ、ACのことを知ったのが10年くらい前なので、感動とかはもう無いな。でも、「ほほう、こういう考えもあるのね」と驚きましたが。でも、ずっとACやってるのも、なんか環境ですべてが決まってしまうみたいで嫌だなと思ったのです。環境は環境で、それでもそれをバネにできる人間になりたいと思いました。ま、甘ちゃんの戯言かもしれないけども。。ただ、いずれにしても自分を信じなおすことって大切だと思います。自分の味方は自分なので。
では、では。長くなり恐縮です(^^)
そうですね。背景はどうあれ、気分を害されたわけですね。
> 本当に、おっしゃるとおりですね。もちろん親子関係のあり方は、時とともに変わっていきますね。ただ、このことを発達心理学的に考えてみると、子供自身が、成長のそれぞれの段階を経験する時期は、「その時」しかないのだ、ということが分かります。成長期に子供の中で構築された自己価値感や、世界に対する基本的信頼感の程度などは、それがどのようなものであれ、とても強烈で確固としたものになってしまいます。大事な成長期に、あまりにも残酷な言葉でののしられるなど、虐待的な環境におかれていれば、自己価値感がとても低くなり、世界に対する基本的な信頼感が少なくなってしまいます。親が子供にとって、最大の「環境」になっているからです。大きくなって親に頼る度合いが少なくなってきた後で、いくら親が急に優しくなったとしても、それによって、それまでに(成長期に)その子が受けた心の傷が無条件に解消するというわけではないのです。
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勿論、そうですよね。おっしゃりたいことよくわかるつもりです。
私も同じですよ。私は大学生のころにいきなり抑圧から解放されて、暫くAC関係の本を読み漁ったりしてました。社会人になって一人暮らしをしてたんですが、その時期は特に、親との嫌な思い出ばかり思い出し、「いつか仕返ししてやろう」と毎日思ってましたよ。体罰は体が記憶しているから、昔のことは水に流そう・・とはなかなか思えないものです。人間は感情の生き物と言いますし。その後ある人と出会って、「なんかもう、こういう復讐だのなんだのってのは疲れたな、どうせ親も死ぬし、自分も死ぬ。エネルギーの矛先を変えよう」と思い、覚悟して一度実家に帰って関係を作り直してみました。それは自分の過去を受け入れる作業でもあったのですが。それまではどうしても、自分がJWにかかわったことを心底は受け入れたくなかったし、親のこともどうしても受け入れられなかった。そして、なにより自分が自分であることが嫌だったです。早く死なないかなと思ってたし。ま、そんなこんなだったのですが、関係を作り直したら昔ほど嫌ではなかった。昔より親を受け入れることができた。お互い大人になったのかなと感じました。親をある意味親と思わず、同性の、ただひとりの人間として捉えなおしてみたら、少しだけ共感できるところもありましたし。ただ、、しこりはありますね、確実に。昔のことで、親とは何十回(何百回かな)も喧嘩しましたよ。でも、どうにも通じないんですよね。「神様の素晴らしさをあなたに教えられずに、神に申し訳ない」と言う。あり得ないですよ、こっち(子供)には謝罪の一言もない。だから、もう、それはそれで仕方がないんだな、と。やるだけのことはやったし、これ以上は望まないことにしました。話し合っても通じないことって、ありますもんね。それも込みで受け入れようと思いました。そんなようなしこりをどう処理するかが今後の課題です。あまり感情のいいなりになりたくないので。。私は結婚しているけど、まだ怖くて子供はつくれません。自分が母親ってものになりたくないんです。自分のこういう面倒な面とは今後もじっくり付き合っていくつもりです。
> 「親代わり」と私が喩えて言ったのは、健全な親を持った普通の人にわかりやすい表現にしようと思って表現した言葉です。チーズケーキさんが、それを特に「わかりやすい」と思われたのでしたら、あなたはACではないだろうと、私は思います。ACという言葉が本当に必要な人は、ACの情報に出会うと涙を流して感動し、その夜はそのことばかり考えて眠れなくなります。あなたのお母様のことについては、私にはわかりません。明らかにACである私が、「親代わり」という言葉を発展させて説明することも、やはり、ちょっと難しいと感じます。
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なるほど。確かにそうですね。妙に納得してしまいました。
なにせ、ACのことを知ったのが10年くらい前なので、感動とかはもう無いな。でも、「ほほう、こういう考えもあるのね」と驚きましたが。でも、ずっとACやってるのも、なんか環境ですべてが決まってしまうみたいで嫌だなと思ったのです。環境は環境で、それでもそれをバネにできる人間になりたいと思いました。ま、甘ちゃんの戯言かもしれないけども。。ただ、いずれにしても自分を信じなおすことって大切だと思います。自分の味方は自分なので。
では、では。長くなり恐縮です(^^)