聖書を単なる歴史書と思っていて聖書の神を一切信じてない私に現役的な聖句ネタを
振ってもミントさんの期待した答えは絶対に返って来ませんよ。(え?振ってないって?)
>聖句に「真の友は、『どんな時』にも愛しつづけるものであり、苦難のときのために
>生まれた兄弟である」とありますがこの「どんな時」ってどんな時なのかな?と考えて
>しまうんですがさてどんな時なんでしょうかしら?
新世界訳聖書(箴言 17:17)
真の友はどんな時にも愛しつづけるものであり,
苦難のときのために生まれた兄弟である。
「どんな時」の時ってのは義務感からではなく、自分がそうしたいと思った時です。
だから、「したくないな」って心が思ったときは自分の気持ちに正直になって何も
しなけりゃいいだけですよ。
人間的に嫌な奴とか自分と致命的に相性の悪い奴、自己愛が強すぎる自分勝手な
奴は自分とは「縁無き衆生」だから、そんな奴がどうなろうが俺の知ったことじゃない。
そいつが生きようが死のうが俺は知らん!ものごとの決定は自分の心に正直である
べきで、嫌いな奴を義務で好きになる必要は無い。「嫌いな奴は嫌い」 それで充分。
そして聖書や組織の出版物に書いてあるから自分を愛せと要求してくる奴は人間の
中でも最悪な奴と思っとります。もっともそう言う人はJWの閉鎖的な社会の中にしか
いませんけどね。(他人に自分のわがままを要求して自分の思い通りに行かないと、
すぐに「○○さんは愛がないのねー」っておきまりのセリフを連発して、相手を見下して
自分を高みにあげようとする人たちの事)
その人が人間的にいい人だったり、自分と相性のいい人や、後輩として可愛い奴なら
誰でも自然にその人に対して親愛の情が湧いてくるものです。その自分の心の底から
涌いてくる自然な気持ちや優しい気持ちに正直であるべきで、誰かが勝手に作った
価値観に従って嫌いな他人を無理に愛さなきゃならない義務なんかないと思ってます。
それにこれは中東のアラブ人的な考え方で日本人にはなじみませんよ。彼らは自分の
友や自分の部族のために平気で人を殺しちゃう社会ですから、他人を平気で殺せるっ
てことは自分も簡単に殺される社会なわけですから、自分がその社会の中で生きていく
ためにも真の友が絶対必要です。そういうバックボーンがあってこそ初めて成立する話
ですね。日本のヤクザ社会にも『血をわけた義兄弟』ってのがありますが、あれと同じことです。
日本で言う「真の友」とはいつでも喧嘩したり仲直りしたりできる腐れ縁の親友のことで、
日本人で『どんな時にも愛しつづけれるもの』なんて言えるのは、真の友を作ったことが
ない世間知らずだけが言える机上の空論ですね。
それにJW社会で「真の友」なんていっても、それは「条件付きの友情」ですから、相手が
排斥されたり断絶したらその時点で友情はおしまいで完全に絶縁ですから、そんなのは
宗教という名の営業上のおつき合いであって、真の友情ではないです。
>あ〜あ。気分がめげてます。
友情ってのは本来楽しいものですし、親友ってのは自分にとって貴重な存在です。JWの
教理に従って親友でも無い人を無理に親友と思わなければならないのがそもそも無理。
最初から無理なものを無理に信じようとするから心が疲れるんであって、自分の心の奥底
の気持ちに正直になって、親友ではなく、ただの知り合いとして付き合えばめげませんよ。
振ってもミントさんの期待した答えは絶対に返って来ませんよ。(え?振ってないって?)
>聖句に「真の友は、『どんな時』にも愛しつづけるものであり、苦難のときのために
>生まれた兄弟である」とありますがこの「どんな時」ってどんな時なのかな?と考えて
>しまうんですがさてどんな時なんでしょうかしら?
新世界訳聖書(箴言 17:17)
真の友はどんな時にも愛しつづけるものであり,
苦難のときのために生まれた兄弟である。
「どんな時」の時ってのは義務感からではなく、自分がそうしたいと思った時です。
だから、「したくないな」って心が思ったときは自分の気持ちに正直になって何も
しなけりゃいいだけですよ。
人間的に嫌な奴とか自分と致命的に相性の悪い奴、自己愛が強すぎる自分勝手な
奴は自分とは「縁無き衆生」だから、そんな奴がどうなろうが俺の知ったことじゃない。
そいつが生きようが死のうが俺は知らん!ものごとの決定は自分の心に正直である
べきで、嫌いな奴を義務で好きになる必要は無い。「嫌いな奴は嫌い」 それで充分。
そして聖書や組織の出版物に書いてあるから自分を愛せと要求してくる奴は人間の
中でも最悪な奴と思っとります。もっともそう言う人はJWの閉鎖的な社会の中にしか
いませんけどね。(他人に自分のわがままを要求して自分の思い通りに行かないと、
すぐに「○○さんは愛がないのねー」っておきまりのセリフを連発して、相手を見下して
自分を高みにあげようとする人たちの事)
その人が人間的にいい人だったり、自分と相性のいい人や、後輩として可愛い奴なら
誰でも自然にその人に対して親愛の情が湧いてくるものです。その自分の心の底から
涌いてくる自然な気持ちや優しい気持ちに正直であるべきで、誰かが勝手に作った
価値観に従って嫌いな他人を無理に愛さなきゃならない義務なんかないと思ってます。
それにこれは中東のアラブ人的な考え方で日本人にはなじみませんよ。彼らは自分の
友や自分の部族のために平気で人を殺しちゃう社会ですから、他人を平気で殺せるっ
てことは自分も簡単に殺される社会なわけですから、自分がその社会の中で生きていく
ためにも真の友が絶対必要です。そういうバックボーンがあってこそ初めて成立する話
ですね。日本のヤクザ社会にも『血をわけた義兄弟』ってのがありますが、あれと同じことです。
日本で言う「真の友」とはいつでも喧嘩したり仲直りしたりできる腐れ縁の親友のことで、
日本人で『どんな時にも愛しつづけれるもの』なんて言えるのは、真の友を作ったことが
ない世間知らずだけが言える机上の空論ですね。
それにJW社会で「真の友」なんていっても、それは「条件付きの友情」ですから、相手が
排斥されたり断絶したらその時点で友情はおしまいで完全に絶縁ですから、そんなのは
宗教という名の営業上のおつき合いであって、真の友情ではないです。
>あ〜あ。気分がめげてます。
友情ってのは本来楽しいものですし、親友ってのは自分にとって貴重な存在です。JWの
教理に従って親友でも無い人を無理に親友と思わなければならないのがそもそも無理。
最初から無理なものを無理に信じようとするから心が疲れるんであって、自分の心の奥底
の気持ちに正直になって、親友ではなく、ただの知り合いとして付き合えばめげませんよ。