昔のことですが、私の小さい頃、母には被害妄想がありました。
家の中で、なにか彼女の気に入らないことが起こると、
彼女は、泣き叫んで金切り声をあげました。なんでも大抵は、
私が「裏切り者」扱いにされて、ひどくののしられました。
私がまだ教会に行っていた頃、聖書の登場人物の中で、
最も親近感を感じた人物が「イスカリオテのユダ」でした。
イスカリオテのユダは、聖書の中で、なくてはならない存在です。
彼なしでは「キリストの受難」という、キリスト教にとって、
最も大事なストーリーが、成立しないのですから・・・。
私は、イスカリオテのユダのように、自分が必然的な存在で、
しかも「悪役」としてこの世に必要とされていると感じていました。
イエスがユダに「生まれてこなかったほうがよかっただろう」
と言った言葉は、私にとって、長い間、疑問でした。
「救い主」が、命を否定するようなことを言っているからです。
私は「イエスはイスカリオテのユダを救うつもりはないのだ」
と思って、それを自分に重ねて考えて、自分にも絶望しました。
でも、長い時間が経って、そのうちに考えが変わりました。
今では、このイエスの言葉は、冷淡なものでもなく、
ユダを突き放したものでもなかったのだと感じます。
イエスは自分の損得だけを考えるような人ではないからです。
最も親しい人を裏切らずにいられない、疑わずにいられない、
そういう心持で毎日を暮らすことは、本当に哀しいものです。
イエスは、たぶんユダの心の内面の哀しさや孤独をよく知って、
その心の内を言い当てて、ただ「理解しているよ」と、
共感の気持ちを言葉にしただけなのではないか、と思うのです。
イエスは、人の心の分かる、いい人だったんだろうな、と思います。
家の中で、なにか彼女の気に入らないことが起こると、
彼女は、泣き叫んで金切り声をあげました。なんでも大抵は、
私が「裏切り者」扱いにされて、ひどくののしられました。
私がまだ教会に行っていた頃、聖書の登場人物の中で、
最も親近感を感じた人物が「イスカリオテのユダ」でした。
イスカリオテのユダは、聖書の中で、なくてはならない存在です。
彼なしでは「キリストの受難」という、キリスト教にとって、
最も大事なストーリーが、成立しないのですから・・・。
私は、イスカリオテのユダのように、自分が必然的な存在で、
しかも「悪役」としてこの世に必要とされていると感じていました。
イエスがユダに「生まれてこなかったほうがよかっただろう」
と言った言葉は、私にとって、長い間、疑問でした。
「救い主」が、命を否定するようなことを言っているからです。
私は「イエスはイスカリオテのユダを救うつもりはないのだ」
と思って、それを自分に重ねて考えて、自分にも絶望しました。
でも、長い時間が経って、そのうちに考えが変わりました。
今では、このイエスの言葉は、冷淡なものでもなく、
ユダを突き放したものでもなかったのだと感じます。
イエスは自分の損得だけを考えるような人ではないからです。
最も親しい人を裏切らずにいられない、疑わずにいられない、
そういう心持で毎日を暮らすことは、本当に哀しいものです。
イエスは、たぶんユダの心の内面の哀しさや孤独をよく知って、
その心の内を言い当てて、ただ「理解しているよ」と、
共感の気持ちを言葉にしただけなのではないか、と思うのです。
イエスは、人の心の分かる、いい人だったんだろうな、と思います。