フィリピンのイスラム過激派、キリスト教伝道師2人を処刑(ロイター)
[サンボアンガ(フィリピン) 22日 ロイター] イスラム過激派組織アルカイダとの関連が指摘されるフィリピンのイスラム過激組織アブサヤフが、人質にしていたキリスト教伝道師の男性2人を処刑した。
フィリピン軍高官によると、エホバの証人の信徒とされる2人の頭部が南部ホロ島の密林で発見された。
アブサヤフは、このほかに女性4人を含む6人を人質としていたが、イスラム教徒の男性2人は既に解放されている。
私は巡回大会などで招待されたベテルの話し手が、聴衆の感動や静謐な雰囲気を買うために、子供が命を捨てて、輸血拒否の姿勢を保ったとかいう話をすることにこれ以上ない嫌悪感を感じます。思わず顔を歪めてしまいます。
死という厳粛な不幸をダシに使う性根がいやらしいからです。
亡くなられた二人のキリスト教伝道師がJW宣教者か地元の伝道者かは知りませんが、彼らも私のようなJWを見ればきっと蔑んだことでしょう。大会の話にハクをつけるために遠い場所のJWの死をダシに使う話し手に「ありがとうございましたー」と真っ先に握手を求めに行く手合いかもしれません。
しかし、人災による死という無念な結果に見舞われてしまったことには、まじめな哀悼の意を表明します。きっと恐ろしかったことでしょう。エホバへの信仰が強かったから、終始確固としていた、なんて言わせない! どんな人間にとっても、まさに自分が殺されようとしている瞬間は恐ろしいはずなのです。それは巡回大会でベテルのセンセイが引き合いに出した子供さんも同じなのです。無残なことです。私はイスラム原理主義のやり方に非常に怒りを覚えます。アメリカの無差別の戦争行為へも同じ気持ちを感じます。貧困や社会的な不公正のために見過ごされて、短い生涯をひっそりと終えてしまう現実があったとしても、それで殺人が正当化されはしない。少なくとも無関係な非武装市民への暴行は。非武装市民も無関心という犯罪者だなんて、難しい議論をするつもりもありません。このような事件をサカナにして、自分の意見をひけらかす人は、ベテルからの招待講演者と同じ穴のむじなです。大の主義・信条を正当化するために小の犠牲を平気にみなす連中はみんなJWと同じだと感じてしまいます。「お前は甘いよ。世の中なんてみんなそんなものさ」と大人ぶった言い方で私のような「青臭い」意見は一蹴されることでしょう。それでも私はそう思うのです。
ものみの塔の出版物などでは、テロリストたちの手に落ちても、JWであることを明かすと、「この人たちは平和主義者だ」といって、解放されたとかいう記事が掲載されます。今回のような事態になれば、予見し得ない不幸に見舞われたが、エホバは復活によって報いてくださるでしょう、という記事になります。自分たちが創作しておいて自分たちで尊重しない統治体にとっては、世界中のJWを励ます話題の一つにすぎないのでしょうか。
私としては、亡くなられた方々がJWであっても、なくても無念だったろう、悔しいだろう、恐かっただろうとしか言えません。
[サンボアンガ(フィリピン) 22日 ロイター] イスラム過激派組織アルカイダとの関連が指摘されるフィリピンのイスラム過激組織アブサヤフが、人質にしていたキリスト教伝道師の男性2人を処刑した。
フィリピン軍高官によると、エホバの証人の信徒とされる2人の頭部が南部ホロ島の密林で発見された。
アブサヤフは、このほかに女性4人を含む6人を人質としていたが、イスラム教徒の男性2人は既に解放されている。
私は巡回大会などで招待されたベテルの話し手が、聴衆の感動や静謐な雰囲気を買うために、子供が命を捨てて、輸血拒否の姿勢を保ったとかいう話をすることにこれ以上ない嫌悪感を感じます。思わず顔を歪めてしまいます。
死という厳粛な不幸をダシに使う性根がいやらしいからです。
亡くなられた二人のキリスト教伝道師がJW宣教者か地元の伝道者かは知りませんが、彼らも私のようなJWを見ればきっと蔑んだことでしょう。大会の話にハクをつけるために遠い場所のJWの死をダシに使う話し手に「ありがとうございましたー」と真っ先に握手を求めに行く手合いかもしれません。
しかし、人災による死という無念な結果に見舞われてしまったことには、まじめな哀悼の意を表明します。きっと恐ろしかったことでしょう。エホバへの信仰が強かったから、終始確固としていた、なんて言わせない! どんな人間にとっても、まさに自分が殺されようとしている瞬間は恐ろしいはずなのです。それは巡回大会でベテルのセンセイが引き合いに出した子供さんも同じなのです。無残なことです。私はイスラム原理主義のやり方に非常に怒りを覚えます。アメリカの無差別の戦争行為へも同じ気持ちを感じます。貧困や社会的な不公正のために見過ごされて、短い生涯をひっそりと終えてしまう現実があったとしても、それで殺人が正当化されはしない。少なくとも無関係な非武装市民への暴行は。非武装市民も無関心という犯罪者だなんて、難しい議論をするつもりもありません。このような事件をサカナにして、自分の意見をひけらかす人は、ベテルからの招待講演者と同じ穴のむじなです。大の主義・信条を正当化するために小の犠牲を平気にみなす連中はみんなJWと同じだと感じてしまいます。「お前は甘いよ。世の中なんてみんなそんなものさ」と大人ぶった言い方で私のような「青臭い」意見は一蹴されることでしょう。それでも私はそう思うのです。
ものみの塔の出版物などでは、テロリストたちの手に落ちても、JWであることを明かすと、「この人たちは平和主義者だ」といって、解放されたとかいう記事が掲載されます。今回のような事態になれば、予見し得ない不幸に見舞われたが、エホバは復活によって報いてくださるでしょう、という記事になります。自分たちが創作しておいて自分たちで尊重しない統治体にとっては、世界中のJWを励ます話題の一つにすぎないのでしょうか。
私としては、亡くなられた方々がJWであっても、なくても無念だったろう、悔しいだろう、恐かっただろうとしか言えません。