ゲストブック過去ログ:#1064

昼寝するぶた

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No.1064 修行の場 投稿者:AL 投稿日:2005/02/14 21:53      
最近読んだニューソート系の本に感銘を受けました。

ニューソートはキリスト教をベースにして仏教その他の東洋思想、宗教の考えも取り入れたものといわれています。

その本によると、人生は修行の場。各人はその霊にしたがってこの世に肉体をまとってさまざまな経験をする。ある者は学び、ある者は堕落する。死んでもそれは単に肉体を失うだけ。ただし死後は肉体がなく、人間の想念がそのまますぐ現実化する世界になるので、現世で肉体をまとったときのような体験、困難を通して教訓を学び取り霊を向上させることができない。よって人はまた肉体をまとって転生していく。
たとえば性やドラッグに溺れた人は、死後も強い執着心が残っているが、肉体を失っているのでもはやその欲望を満たす手段がない。ある者は悟り、またある者は自らを律することができずに新たな転生において欲望実現をはかるのかもしれない。

自殺者は必ずしも言われているように罰を受けるわけではない。自殺の多くは単なる悪い環境等が重なった不運な事故である場合が多いから。しかし死者について生き残ったものがいつまでも嘆き悲しむなら死者は多大な苦痛を感じることになる。もはや肉体はなく、自分に向けられたそうした強い感情を生前とは比較にならないほど鋭敏に感じ取るから。
よって不遇の死を遂げた人はあるいは死後も家族の哀しみのために苦しみを受けなければならないのかもしれない。

周囲の迷惑も考えず自らの命を絶ち残った家族を哀しみのどん底に突き落としたような者は、当然罪の意識に苛まれることになるのだろう。


自分も死ぬのが怖いとは思わないけど、まだやり残していることがある。それ以外別に生に対して執着心はない。結局遅かれ早かれ人間みな死ぬのだ。自分の死、あるいは親族や他人の死を恐れあるいはいつまでも嘆き悲しむのもやめたほうがいい。みんなそれそれ限りある命でそれぞれに与えられた状況で生き、そして死んでいく。家族関係さえ限られた一度限りの人生において有効なのみ。表面上家族であっても真の心のつながりのないものは死後もお互い会うことはない。新しい転生でも全く別人の家族として生まれ変わる。

キリスト教の天国とかエホ証の地上の楽園とか、死の恐怖に向き合うことができない人間の弱さ、この世での欲望に執着する心が作り上げた幻想だ。

苦しみの多い人生ではあったと思うけど、考えてみればこれも自分で選択した人生だろうし、おそらく生まれる前も自分の霊がこの人生に感応したのだろう。こういう人生でなければ学べなかったことがたくさんあったと思う。
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