子供の頃から、「甘えてはいけない」という気持ちが、強かった。
平均的日本女性から比べると、私は気の強い、勝気な人間だ。
しかし、はたちごろまで、周りからは、
「お嬢様風でおっとりしているね」と言われた。
口のわるい人は「あんたは、ぼうっとしている」と言った。
なぜだろう。
恐らく、それなりの理由があって、気の強さを隠していたのだろう。
教会へ行くと、説教の中で「お前は罪深い」と、毎週、いわれた。
神は絶対だった。教会に来る大人の女性は、みな、謙虚で敬虔だ。
いつでも、誰にでも、腰が低くて、にこやかだ。
末席に座り、人の足元にスリッパなどを差し出す。
いつも人に、頭を下げて、相手の事情と、信仰だけを話題にする。
彼女たちの態度を見ているうち、私はいつのまにか、
「女性は人に尽くさなくてはいけない」と思うようになった。
自分を出さずに他人を立てるのが女性の美徳、と思うようになった。
「イエスキリストは、私たちのために犠牲になってくれた」
そう思うと、私は、いてもたってもいられない。
自分の命を恥じるほどの、いたらなさ、申し訳なさを感じた。
普通のキリスト教徒は「彼は救世主なんだから大丈夫、安心だ」
と思うのかもしれないが、私には、とても、そうは思えない。
イエスだって、生身の人間だ。
壇上の牧師の、表現豊かな言い回しから、
私は、十字架上のイエスの苦しみや痛みに、思いを馳せた。
「苦しみがなぜ私たちに与えられず、彼に与えられたのか」
私の胸には、その疑問が、棘のように突き刺さったままだった。
牧師は「それこそが神の愛」と説いたが、私には納得できない。
父なる神が子なる神を処刑することが、愛なのか。
私は、自分の罪ひとつ、自分で責任を取ることもできないのか。
そんなにつまらない自分を、どうして、生きる価値があるのか。
けれど、その点に疑問をいだくと、神を冒涜していると諭された。
教会には、二重予定説という、絶対的な教義があった。
私は知らず知らず、この何百年と続いた教義に勝負を挑んでいた。
二重予定説に対する反論は、歴史上、何度も起こっているが、
そのことについては、あいにく私には、まだ知識がなかった。
どんなに苦しい状況でも、感謝する人間になっていった。
ひどいことをされても、感謝する気持ちだけは決して変わらない。
普通の正邪の基準をひっくり返してでも、私は何かあるたびに、
論理を組み立てなおし、どんなときも、相手に感謝した。
まあ、それも一つの考え方ではあるし、
頭のトレーニングにはなるが、行き過ぎると鬱になる。
今では、いくらか冷静に考えられる。
よく考えてみれば、私が特別に罪深いわけではないと思う。
罪深いと責めて、罪のない人を不安にするほど罪なことはない。
不安感を使って人々をコントロールしているような宗教家は、
自分の胸に手を当てて、もう一度よく考えてみたほうがいい。
間違いなく、人は皆、どこかで「加害者」である。
時々嘘をつく。生き物を殺して食べている。
労働者を働かせて好きなものを手に入れている。
そういう普通の出来事を、みな「罪ゆえ」としてしまったら、
お互いが、心の奥底では、人間嫌いになってしまう。
人間嫌いは、よくない。
人間嫌いは親嫌い、子嫌い、社会嫌いの始まりだ。
私は、生きていることを、ただ「ありがたい」と思う。
感謝できるのはすばらしい。
ただし、感謝しすぎて恩義に縛られては窮屈だ。
平均的日本女性から比べると、私は気の強い、勝気な人間だ。
しかし、はたちごろまで、周りからは、
「お嬢様風でおっとりしているね」と言われた。
口のわるい人は「あんたは、ぼうっとしている」と言った。
なぜだろう。
恐らく、それなりの理由があって、気の強さを隠していたのだろう。
教会へ行くと、説教の中で「お前は罪深い」と、毎週、いわれた。
神は絶対だった。教会に来る大人の女性は、みな、謙虚で敬虔だ。
いつでも、誰にでも、腰が低くて、にこやかだ。
末席に座り、人の足元にスリッパなどを差し出す。
いつも人に、頭を下げて、相手の事情と、信仰だけを話題にする。
彼女たちの態度を見ているうち、私はいつのまにか、
「女性は人に尽くさなくてはいけない」と思うようになった。
自分を出さずに他人を立てるのが女性の美徳、と思うようになった。
「イエスキリストは、私たちのために犠牲になってくれた」
そう思うと、私は、いてもたってもいられない。
自分の命を恥じるほどの、いたらなさ、申し訳なさを感じた。
普通のキリスト教徒は「彼は救世主なんだから大丈夫、安心だ」
と思うのかもしれないが、私には、とても、そうは思えない。
イエスだって、生身の人間だ。
壇上の牧師の、表現豊かな言い回しから、
私は、十字架上のイエスの苦しみや痛みに、思いを馳せた。
「苦しみがなぜ私たちに与えられず、彼に与えられたのか」
私の胸には、その疑問が、棘のように突き刺さったままだった。
牧師は「それこそが神の愛」と説いたが、私には納得できない。
父なる神が子なる神を処刑することが、愛なのか。
私は、自分の罪ひとつ、自分で責任を取ることもできないのか。
そんなにつまらない自分を、どうして、生きる価値があるのか。
けれど、その点に疑問をいだくと、神を冒涜していると諭された。
教会には、二重予定説という、絶対的な教義があった。
私は知らず知らず、この何百年と続いた教義に勝負を挑んでいた。
二重予定説に対する反論は、歴史上、何度も起こっているが、
そのことについては、あいにく私には、まだ知識がなかった。
どんなに苦しい状況でも、感謝する人間になっていった。
ひどいことをされても、感謝する気持ちだけは決して変わらない。
普通の正邪の基準をひっくり返してでも、私は何かあるたびに、
論理を組み立てなおし、どんなときも、相手に感謝した。
まあ、それも一つの考え方ではあるし、
頭のトレーニングにはなるが、行き過ぎると鬱になる。
今では、いくらか冷静に考えられる。
よく考えてみれば、私が特別に罪深いわけではないと思う。
罪深いと責めて、罪のない人を不安にするほど罪なことはない。
不安感を使って人々をコントロールしているような宗教家は、
自分の胸に手を当てて、もう一度よく考えてみたほうがいい。
間違いなく、人は皆、どこかで「加害者」である。
時々嘘をつく。生き物を殺して食べている。
労働者を働かせて好きなものを手に入れている。
そういう普通の出来事を、みな「罪ゆえ」としてしまったら、
お互いが、心の奥底では、人間嫌いになってしまう。
人間嫌いは、よくない。
人間嫌いは親嫌い、子嫌い、社会嫌いの始まりだ。
私は、生きていることを、ただ「ありがたい」と思う。
感謝できるのはすばらしい。
ただし、感謝しすぎて恩義に縛られては窮屈だ。