ゲストブック過去ログ:#1661

昼寝するぶた

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No.1661 感謝のバランス感覚 投稿者:ろかいゆ(プロテスタント某派元二世) 投稿日:2006/07/07 21:10     30代 
子供の頃から、「甘えてはいけない」という気持ちが、強かった。
平均的日本女性から比べると、私は気の強い、勝気な人間だ。

しかし、はたちごろまで、周りからは、
「お嬢様風でおっとりしているね」と言われた。
口のわるい人は「あんたは、ぼうっとしている」と言った。
なぜだろう。
恐らく、それなりの理由があって、気の強さを隠していたのだろう。

教会へ行くと、説教の中で「お前は罪深い」と、毎週、いわれた。
神は絶対だった。教会に来る大人の女性は、みな、謙虚で敬虔だ。
いつでも、誰にでも、腰が低くて、にこやかだ。
末席に座り、人の足元にスリッパなどを差し出す。
いつも人に、頭を下げて、相手の事情と、信仰だけを話題にする。

彼女たちの態度を見ているうち、私はいつのまにか、
「女性は人に尽くさなくてはいけない」と思うようになった。
自分を出さずに他人を立てるのが女性の美徳、と思うようになった。

「イエスキリストは、私たちのために犠牲になってくれた」
そう思うと、私は、いてもたってもいられない。

自分の命を恥じるほどの、いたらなさ、申し訳なさを感じた。
普通のキリスト教徒は「彼は救世主なんだから大丈夫、安心だ」
と思うのかもしれないが、私には、とても、そうは思えない。
イエスだって、生身の人間だ。

壇上の牧師の、表現豊かな言い回しから、
私は、十字架上のイエスの苦しみや痛みに、思いを馳せた。

「苦しみがなぜ私たちに与えられず、彼に与えられたのか」
私の胸には、その疑問が、棘のように突き刺さったままだった。
牧師は「それこそが神の愛」と説いたが、私には納得できない。

父なる神が子なる神を処刑することが、愛なのか。
私は、自分の罪ひとつ、自分で責任を取ることもできないのか。
そんなにつまらない自分を、どうして、生きる価値があるのか。

けれど、その点に疑問をいだくと、神を冒涜していると諭された。
教会には、二重予定説という、絶対的な教義があった。

私は知らず知らず、この何百年と続いた教義に勝負を挑んでいた。
二重予定説に対する反論は、歴史上、何度も起こっているが、
そのことについては、あいにく私には、まだ知識がなかった。

どんなに苦しい状況でも、感謝する人間になっていった。
ひどいことをされても、感謝する気持ちだけは決して変わらない。
普通の正邪の基準をひっくり返してでも、私は何かあるたびに、
論理を組み立てなおし、どんなときも、相手に感謝した。
まあ、それも一つの考え方ではあるし、
頭のトレーニングにはなるが、行き過ぎると鬱になる。

今では、いくらか冷静に考えられる。
よく考えてみれば、私が特別に罪深いわけではないと思う。
罪深いと責めて、罪のない人を不安にするほど罪なことはない。
不安感を使って人々をコントロールしているような宗教家は、
自分の胸に手を当てて、もう一度よく考えてみたほうがいい。

間違いなく、人は皆、どこかで「加害者」である。
時々嘘をつく。生き物を殺して食べている。
労働者を働かせて好きなものを手に入れている。
そういう普通の出来事を、みな「罪ゆえ」としてしまったら、
お互いが、心の奥底では、人間嫌いになってしまう。
人間嫌いは、よくない。
人間嫌いは親嫌い、子嫌い、社会嫌いの始まりだ。

私は、生きていることを、ただ「ありがたい」と思う。
感謝できるのはすばらしい。
ただし、感謝しすぎて恩義に縛られては窮屈だ。
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