五年間、身体の関係のない不倫をしていた。
心も身体も満たされない、長年の関係だったが、ついに終わりにした。
社会性や将来、自分の心身の満足を犠牲にし、相手に合わせた愛だった。
将来を共に語ろうとしても、相手の口からは不満や愚痴しか出てこない。
未来にヴィジョンは何もなく、過去と苦労しか共有できなかった。
最後には、私は、クラブのママを演じているような気分を味わっていた。
無料奉仕で愚痴を聞かされるだけならば、もう勘弁してほしい、
それが、私の本音だった。彼の話を、楽しんで聞けなくなってしまった。
私は、彼のために無理にでも幸せを感じようとし、喜びや感謝の言葉、
そして、褒め言葉や、おだて、希望の言葉だけを口にしていたけれど、
言葉だけでは、心は癒えないということが、ようやく、分かった。
この恋をとおして、正直でいることの価値に、やっと気づくことができた。
お互いのこれからに希望を持つには、終わりにするのが最善だった。
二人が距離を置くことで、やっと、本当の希望が姿を現すだろう。
しかし、そもそも、不倫などすることになったのは、なぜだろうか。
恐らく二人ともが「家庭」という制度を信頼できずにいたからだろう。
それなら、私はこれから、どのようにして、
「家庭」という社会制度を信頼しなおせばいいのだろうか・・・。
私の育った家庭は厳格なクリスチャンホームで、人格障害者をかかえた、
機能不全家庭だった。私には、明確にアダルトチルドレンの自覚がある。
私の場合、男性観、女性観が、すっかりパウロのそれに基づいていた。
そして、家族観というものは、カルヴァンのそれに、基づいていた。
16世紀に生きたカルヴァンは、元は法律家である。
彼のした仕事は、宗教家というよりも、むしろ政治家のそれに近い。
パウロもカルヴァンも、教会を中心にして、家族を支配しようとする。
家族という最小単位のグループを利用し、機能的に民衆を統制した。
考え方としては、戦時中の「隣組」制度に似ている。
「家族成員は、あくまでも神の道具として支配されなければならない、
そして、家庭を治める長は、あくまでも男性である」、
という思想にどっぷりと浸かって、少なくとも18歳まですごしてきた。
私は、「自分は『神の道具』にすぎない」と、本当に思いこんでいた。
それ以外の考え方を知らなかった。自我について教えられたことはない。
そして、女性は、常に自分自身を「男性の道具」として扱い、
どんなときも、男性に仕えることだけが正しく尊い生き方、と教えられた。
なぜなら、「男性は女性の頭(かしら)だ」と、聖書に書いてあるから。
男性は女性よりも清く「聖別された性」なのだと、固く信じていた。
そんなふうだから、私はこれまでセクシャルな面で、多くの傷を負った。
男性の判断を「神の命令」と思って受け取るから、そんなことになる。
そこに根本的な原因として宗教があることには、ずっと気づかなかった。
「女性は男性に従ってさえいれば、神にも護られるはず」と信じこんでいた。
私は、何百年も前の、特殊な女性観を規範にして、暮らしていたのだ。
そして、それ以外の考え方を「罪深い」と思って、極端に排除していた。
私の身体は、この特殊な女性観ゆえに、何度も傷つけられてきた。
実際に、私の身体の中には、大きな不満や怒りが渦を巻いていた。
男性に従おうとして、何度も何度も、身体的な不満を耐えてきたのだ。
自分の身体がリスペクトされない辛い経験を、何度も耐えてきたのだ。
その上、耐えた怒りに、あとから、恥辱感や罪の意識までも上塗りして、
その辛い感情は処理されないまま、ずっと身体の中に残っていたのだ。
それはセルフアビューズだったのかもしれない、と今ではいえるが、
責任の所在は判断が難しい。私はこれ以上、自分を責めたくはない。
自分の親も責めたくないし、過去の恋人や周囲の男性を責めたくもない。
だから、私は、この罪を、カルヴァンとパウロのせいにするつもりだ。
私は、カルヴァンとパウロに対する反抗心を、無意識化していたから、
結局は、自分と他人を傷つける「不倫」という非常に無責任な方法で、
家庭制度に反抗してしまったのだろう。実際に、悪いことをしたのだ。
今は21世紀だ。女性も、男性と同じように、賢くなければならない。
男性におとなしく従っているだけでは、ろくなことにはならない。
意識して行動し「社会人としての責任」をとることは女性にも要求される。
私は、自分が「長」の役になり、男性を治めるくらいのつもりでいてよい。
強い自己主張能力があるのだから、それを大いに役立てることが必要だ。
私は、これからは、自分の知性や判断に従おう。
私は自分と自分の好きな人を「護ろう」という気持ちでいてよいはずだ。
自分の本性を隠して、無理に「従うのが幸せ」のふりをしてみても、
続かないばかりか、かえって、社会に迷惑をかけてしまう。
実際には、男性というものは、私のあばら骨から創造された人間である。
女性が一人でいるのはよくないから、私のために男性が存在している。
そのように思って眺めてみると、世界の景色は全く違って見えてくる。
心も身体も満たされない、長年の関係だったが、ついに終わりにした。
社会性や将来、自分の心身の満足を犠牲にし、相手に合わせた愛だった。
将来を共に語ろうとしても、相手の口からは不満や愚痴しか出てこない。
未来にヴィジョンは何もなく、過去と苦労しか共有できなかった。
最後には、私は、クラブのママを演じているような気分を味わっていた。
無料奉仕で愚痴を聞かされるだけならば、もう勘弁してほしい、
それが、私の本音だった。彼の話を、楽しんで聞けなくなってしまった。
私は、彼のために無理にでも幸せを感じようとし、喜びや感謝の言葉、
そして、褒め言葉や、おだて、希望の言葉だけを口にしていたけれど、
言葉だけでは、心は癒えないということが、ようやく、分かった。
この恋をとおして、正直でいることの価値に、やっと気づくことができた。
お互いのこれからに希望を持つには、終わりにするのが最善だった。
二人が距離を置くことで、やっと、本当の希望が姿を現すだろう。
しかし、そもそも、不倫などすることになったのは、なぜだろうか。
恐らく二人ともが「家庭」という制度を信頼できずにいたからだろう。
それなら、私はこれから、どのようにして、
「家庭」という社会制度を信頼しなおせばいいのだろうか・・・。
私の育った家庭は厳格なクリスチャンホームで、人格障害者をかかえた、
機能不全家庭だった。私には、明確にアダルトチルドレンの自覚がある。
私の場合、男性観、女性観が、すっかりパウロのそれに基づいていた。
そして、家族観というものは、カルヴァンのそれに、基づいていた。
16世紀に生きたカルヴァンは、元は法律家である。
彼のした仕事は、宗教家というよりも、むしろ政治家のそれに近い。
パウロもカルヴァンも、教会を中心にして、家族を支配しようとする。
家族という最小単位のグループを利用し、機能的に民衆を統制した。
考え方としては、戦時中の「隣組」制度に似ている。
「家族成員は、あくまでも神の道具として支配されなければならない、
そして、家庭を治める長は、あくまでも男性である」、
という思想にどっぷりと浸かって、少なくとも18歳まですごしてきた。
私は、「自分は『神の道具』にすぎない」と、本当に思いこんでいた。
それ以外の考え方を知らなかった。自我について教えられたことはない。
そして、女性は、常に自分自身を「男性の道具」として扱い、
どんなときも、男性に仕えることだけが正しく尊い生き方、と教えられた。
なぜなら、「男性は女性の頭(かしら)だ」と、聖書に書いてあるから。
男性は女性よりも清く「聖別された性」なのだと、固く信じていた。
そんなふうだから、私はこれまでセクシャルな面で、多くの傷を負った。
男性の判断を「神の命令」と思って受け取るから、そんなことになる。
そこに根本的な原因として宗教があることには、ずっと気づかなかった。
「女性は男性に従ってさえいれば、神にも護られるはず」と信じこんでいた。
私は、何百年も前の、特殊な女性観を規範にして、暮らしていたのだ。
そして、それ以外の考え方を「罪深い」と思って、極端に排除していた。
私の身体は、この特殊な女性観ゆえに、何度も傷つけられてきた。
実際に、私の身体の中には、大きな不満や怒りが渦を巻いていた。
男性に従おうとして、何度も何度も、身体的な不満を耐えてきたのだ。
自分の身体がリスペクトされない辛い経験を、何度も耐えてきたのだ。
その上、耐えた怒りに、あとから、恥辱感や罪の意識までも上塗りして、
その辛い感情は処理されないまま、ずっと身体の中に残っていたのだ。
それはセルフアビューズだったのかもしれない、と今ではいえるが、
責任の所在は判断が難しい。私はこれ以上、自分を責めたくはない。
自分の親も責めたくないし、過去の恋人や周囲の男性を責めたくもない。
だから、私は、この罪を、カルヴァンとパウロのせいにするつもりだ。
私は、カルヴァンとパウロに対する反抗心を、無意識化していたから、
結局は、自分と他人を傷つける「不倫」という非常に無責任な方法で、
家庭制度に反抗してしまったのだろう。実際に、悪いことをしたのだ。
今は21世紀だ。女性も、男性と同じように、賢くなければならない。
男性におとなしく従っているだけでは、ろくなことにはならない。
意識して行動し「社会人としての責任」をとることは女性にも要求される。
私は、自分が「長」の役になり、男性を治めるくらいのつもりでいてよい。
強い自己主張能力があるのだから、それを大いに役立てることが必要だ。
私は、これからは、自分の知性や判断に従おう。
私は自分と自分の好きな人を「護ろう」という気持ちでいてよいはずだ。
自分の本性を隠して、無理に「従うのが幸せ」のふりをしてみても、
続かないばかりか、かえって、社会に迷惑をかけてしまう。
実際には、男性というものは、私のあばら骨から創造された人間である。
女性が一人でいるのはよくないから、私のために男性が存在している。
そのように思って眺めてみると、世界の景色は全く違って見えてくる。