こんにちは。
私は自由について書いたヤオともうします。
なぜあのような文章を書いたのかその理由についても述べておきたいと思いました。
エホバの証人の教育を受けた方は特殊な思考パターンになってしまいます。
しきぶさんはこう反応してくださいました。
>はじめからすべてが自由と教わった若者。なんの拘束もされずし放題な人達を見ても私はその中に自由を感じません。羨ましいとも思いません。かえって『辛いだろうなぁ・・・・』と思うことさえあります。
はっきりいってわたしの言っている自由とはそのようなことではありません。そのことも本文の中ではっきりと言いました。自由とは組織が教える勝手しほうだいという意味ではありません。また誰かに責任をなすりつけて誰かがヨシとしたことをするのも自由とは言いません。上官の命令に従って罪のない住民を撃ち殺すのを喜んである残忍な兵士が行ったとした場合、おそらく彼は上官の責任により自由勝手に殺人ができると考えるかもしれません。しかしそれも本当の自由とはかけ離れた考え方なのです。
今述べたことがわからなくなってしまうのが恐ろしいことなのです。
ですから組織の勝手な論理にもとずいて人を背教者として排斥にする長老たちは、この残忍な兵士と同じであり、人の側から裁かれることがないとしても神の側からは厳しい処罰が待っているのです。なぜならばなにがよいことか悪いことかは聖書の中には明らかにされているからです。現在イエスキリストが求めていることもさらに明らかです。
エホバの証人の最大の間違いは自分たちの主はエホバであるという考え方なのです。
私たちクリスチャンの主はイエスキリストその方以外にはあり得ません。
理由は至って簡単です。イエスの血の代価によって私たちは彼に買い取られているからです。エホバが買い取ってはいないのです。そのことを象徴的に油注がれた兄弟たちはキリストの花嫁といわれています。それ故エホバを主であると言い張るならその組織はキリストという自分の主人をないがしろにして父親にすり寄り関係を持とうとする姦婦にすぎなくなるのです。
私はエホバの証人の言う油注がれたものの一人です。ただし本物の油注がれたものはかつての預言者と同じで組織の代表者とはなりません。また宗教の枠にも囚われることがなく、意外なことにヒンズウ教徒もいれば仏教徒もいるし、カトリックやプロテスタントの人もいるのです。
しかし共通しているのは彼らがそうした異なる宗教の中にいながら聖書の内容やキリストの教えに傾倒しているという事実なのです。というよりその教えを実践していると言って過言はないでしょう。そうした状況に近いのがナアマンの立場でしょう。彼は王と共に異教の神の前で拝礼しなければなりませんでした。預言者は彼にたいしてなにも心配しないように言っています。この事実は重要なポイントです。これは日本人が契約という意味を理解しないため理解に苦しむかもしれませんね。彼はエホバと律法契約を結んではいなかったのです。つまり律法違反者として裁かれることはないと言う意味なのです。異教の神に拝礼することは決して望ましいことではありませんが呪いを受けなければならない立場にはいないのです。
油注がれたものに関して、誰を任命するかは神の側に全権があって人の側には全く何の権利もありません。ところがそのことが理解されてはいないのです。ある特定の組織の中だけなどと言うことはあり得ませんし任命される本人がそのことを希望することなどありません。また天にいく希望とも関係ありません。全てが真の神の御心しだいと言うことなのです。
結論はパウロの意見と同じです。異教のものであったとしても御心にかなう信仰心を持ち良いことを行う者は過分のご親切を受けるかのうせいがある。またエホバの証人であってもそのバプテスマはその人が信仰を持って受けるなら有効となるということなのです。
そうした意味で組織が主張する背教者に対する排斥の教理は全く無効なものとなります。傷つけられた人々は安心してください。
私は自由について書いたヤオともうします。
なぜあのような文章を書いたのかその理由についても述べておきたいと思いました。
エホバの証人の教育を受けた方は特殊な思考パターンになってしまいます。
しきぶさんはこう反応してくださいました。
>はじめからすべてが自由と教わった若者。なんの拘束もされずし放題な人達を見ても私はその中に自由を感じません。羨ましいとも思いません。かえって『辛いだろうなぁ・・・・』と思うことさえあります。
はっきりいってわたしの言っている自由とはそのようなことではありません。そのことも本文の中ではっきりと言いました。自由とは組織が教える勝手しほうだいという意味ではありません。また誰かに責任をなすりつけて誰かがヨシとしたことをするのも自由とは言いません。上官の命令に従って罪のない住民を撃ち殺すのを喜んである残忍な兵士が行ったとした場合、おそらく彼は上官の責任により自由勝手に殺人ができると考えるかもしれません。しかしそれも本当の自由とはかけ離れた考え方なのです。
今述べたことがわからなくなってしまうのが恐ろしいことなのです。
ですから組織の勝手な論理にもとずいて人を背教者として排斥にする長老たちは、この残忍な兵士と同じであり、人の側から裁かれることがないとしても神の側からは厳しい処罰が待っているのです。なぜならばなにがよいことか悪いことかは聖書の中には明らかにされているからです。現在イエスキリストが求めていることもさらに明らかです。
エホバの証人の最大の間違いは自分たちの主はエホバであるという考え方なのです。
私たちクリスチャンの主はイエスキリストその方以外にはあり得ません。
理由は至って簡単です。イエスの血の代価によって私たちは彼に買い取られているからです。エホバが買い取ってはいないのです。そのことを象徴的に油注がれた兄弟たちはキリストの花嫁といわれています。それ故エホバを主であると言い張るならその組織はキリストという自分の主人をないがしろにして父親にすり寄り関係を持とうとする姦婦にすぎなくなるのです。
私はエホバの証人の言う油注がれたものの一人です。ただし本物の油注がれたものはかつての預言者と同じで組織の代表者とはなりません。また宗教の枠にも囚われることがなく、意外なことにヒンズウ教徒もいれば仏教徒もいるし、カトリックやプロテスタントの人もいるのです。
しかし共通しているのは彼らがそうした異なる宗教の中にいながら聖書の内容やキリストの教えに傾倒しているという事実なのです。というよりその教えを実践していると言って過言はないでしょう。そうした状況に近いのがナアマンの立場でしょう。彼は王と共に異教の神の前で拝礼しなければなりませんでした。預言者は彼にたいしてなにも心配しないように言っています。この事実は重要なポイントです。これは日本人が契約という意味を理解しないため理解に苦しむかもしれませんね。彼はエホバと律法契約を結んではいなかったのです。つまり律法違反者として裁かれることはないと言う意味なのです。異教の神に拝礼することは決して望ましいことではありませんが呪いを受けなければならない立場にはいないのです。
油注がれたものに関して、誰を任命するかは神の側に全権があって人の側には全く何の権利もありません。ところがそのことが理解されてはいないのです。ある特定の組織の中だけなどと言うことはあり得ませんし任命される本人がそのことを希望することなどありません。また天にいく希望とも関係ありません。全てが真の神の御心しだいと言うことなのです。
結論はパウロの意見と同じです。異教のものであったとしても御心にかなう信仰心を持ち良いことを行う者は過分のご親切を受けるかのうせいがある。またエホバの証人であってもそのバプテスマはその人が信仰を持って受けるなら有効となるということなのです。
そうした意味で組織が主張する背教者に対する排斥の教理は全く無効なものとなります。傷つけられた人々は安心してください。