油注がれた者の実例?
不思議なことに日本国民、特に天皇家は真の神から守られてきたのである。その器として用いられた人物について紹介したい。
敗戦国・日本は、蒋介石の温情によって救われた。
やがて第二次大戦が終結しようとする時、蒋介石は、戦勝国・中国の総統として、
他の連合国と共に、敗戦国である日本に対する処置を決定する権限を持っていた。彼
は終戦後の日本を、どうにでも処理する権限の一端を、握っていたのである。
しかしクリスチャンであった彼は、そのときキリストの
「汝の敵を愛せよ」
の教え、またそれに基づく、
「怨みに報いるに徳をもってせよ」(以徳報怨)
の精神のもと、米国のルーズベルト大統領や英国のチャーチル首相を説き伏せ、敵
国・日本に対するまれにみる寛大な処置を実現させた。
終戦当時、中国にいた向井仙子さんは、そのときの感動をこう語っている。
「私は終戦当時、北支済南の日本人教会におりました。私の夫は向井芳男牧師(五
年前召天)、子供五人と姑の八人家族でした。天皇陛下の放送に続いて、蒋介石総統
より、
『神は愛なり、汝の敵を愛せよ。日本人に危害を加える者、また物資を奪う者は死
刑に処す』
という放送を聞き、どんなにか励まされ、力づけられ、また神に感謝をささげたこ
とです」。
太平洋戦争における日本の敗戦がもはや避けられなくなった一九四三年一一月、エ
ジプトのカイロで、連合国首脳の協議が行なわれた。集まったのはアメリカのルーズ
ベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、中国の蒋介石総統の三巨頭である。
日本の戦後処理を協議する「カイロ会談」であるが、このとき連合国の間には、天
皇の罷免や、放逐を主張する者、またソ連のように戦犯処刑という論までが渦巻いて
いた。しかし、この会談において蒋介石は、終戦後天皇制は維持し、以後はその存否
を日本人の考え方にゆだねるよう主張したのである。
かつて一九五七年に、現職の総理として初めて台湾を訪問し、蒋介石と会見した岸
信介・元首相は、そのときの思い出をこう語っている。
「私はまず、過ぐる第二次大戦の終戦に際し、蒋総統の
『怨みに報いるに徳をもってせよ』
という大見識により、天皇制の維持、ソ連の日本分割占領の阻止、日本軍民二〇〇
余万人の早期帰国、対日賠償請求権の放棄――など、歴史上例を見ない対日寛大処置
を実践してくださったことに、日本国民を代表してお礼を申し上げると共に、私自身
深い感銘を受けたことを述べた。
これに対し、蒋総統は、
『私は若い時に日本に留学し、また日本へ亡命もしたが、そのころ頭山満先生や、
犬養毅先生たちからご薫陶を受けた。
?怨みに報いるに徳をもってせよ?というのは、日本の武士道の精神で、この精神
を私に強く教えてくれたのは、これらの諸先輩です。だから、私にお礼を言われるな
ら、その言葉は諸先輩のお墓に言って欲しい』
と言われた。なんという謙虚で、奥ゆかしいお人柄か、と改めて一層の感銘を覚え
たものである」。
?怨みに報いるに徳をもってせよ?という敵への愛の心は、国境を越えて人々の心
に働きかけるものである。蒋介石は、この愛を実践するだけの、大きな心を持った人
であった。
今日、多くの日本人は、蒋介石の示してくれた日本への温情について、ほとんど何
も知らされていない。学校の教科書に、それに関する一言も載っていないのである。
けれども、ここに私が記した事柄は、すべて歴史上の事実なのだ。
最後にものみの塔の油注がれた者達とはずいぶんと違うことは言うまでもないでしょう。そして蒋介石が取り上げた武士道の武士をサムライとも言うが、その言葉のヘブライ語の意味は マイ ボディーガードであるそうだ。
不思議なことに日本国民、特に天皇家は真の神から守られてきたのである。その器として用いられた人物について紹介したい。
敗戦国・日本は、蒋介石の温情によって救われた。
やがて第二次大戦が終結しようとする時、蒋介石は、戦勝国・中国の総統として、
他の連合国と共に、敗戦国である日本に対する処置を決定する権限を持っていた。彼
は終戦後の日本を、どうにでも処理する権限の一端を、握っていたのである。
しかしクリスチャンであった彼は、そのときキリストの
「汝の敵を愛せよ」
の教え、またそれに基づく、
「怨みに報いるに徳をもってせよ」(以徳報怨)
の精神のもと、米国のルーズベルト大統領や英国のチャーチル首相を説き伏せ、敵
国・日本に対するまれにみる寛大な処置を実現させた。
終戦当時、中国にいた向井仙子さんは、そのときの感動をこう語っている。
「私は終戦当時、北支済南の日本人教会におりました。私の夫は向井芳男牧師(五
年前召天)、子供五人と姑の八人家族でした。天皇陛下の放送に続いて、蒋介石総統
より、
『神は愛なり、汝の敵を愛せよ。日本人に危害を加える者、また物資を奪う者は死
刑に処す』
という放送を聞き、どんなにか励まされ、力づけられ、また神に感謝をささげたこ
とです」。
太平洋戦争における日本の敗戦がもはや避けられなくなった一九四三年一一月、エ
ジプトのカイロで、連合国首脳の協議が行なわれた。集まったのはアメリカのルーズ
ベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、中国の蒋介石総統の三巨頭である。
日本の戦後処理を協議する「カイロ会談」であるが、このとき連合国の間には、天
皇の罷免や、放逐を主張する者、またソ連のように戦犯処刑という論までが渦巻いて
いた。しかし、この会談において蒋介石は、終戦後天皇制は維持し、以後はその存否
を日本人の考え方にゆだねるよう主張したのである。
かつて一九五七年に、現職の総理として初めて台湾を訪問し、蒋介石と会見した岸
信介・元首相は、そのときの思い出をこう語っている。
「私はまず、過ぐる第二次大戦の終戦に際し、蒋総統の
『怨みに報いるに徳をもってせよ』
という大見識により、天皇制の維持、ソ連の日本分割占領の阻止、日本軍民二〇〇
余万人の早期帰国、対日賠償請求権の放棄――など、歴史上例を見ない対日寛大処置
を実践してくださったことに、日本国民を代表してお礼を申し上げると共に、私自身
深い感銘を受けたことを述べた。
これに対し、蒋総統は、
『私は若い時に日本に留学し、また日本へ亡命もしたが、そのころ頭山満先生や、
犬養毅先生たちからご薫陶を受けた。
?怨みに報いるに徳をもってせよ?というのは、日本の武士道の精神で、この精神
を私に強く教えてくれたのは、これらの諸先輩です。だから、私にお礼を言われるな
ら、その言葉は諸先輩のお墓に言って欲しい』
と言われた。なんという謙虚で、奥ゆかしいお人柄か、と改めて一層の感銘を覚え
たものである」。
?怨みに報いるに徳をもってせよ?という敵への愛の心は、国境を越えて人々の心
に働きかけるものである。蒋介石は、この愛を実践するだけの、大きな心を持った人
であった。
今日、多くの日本人は、蒋介石の示してくれた日本への温情について、ほとんど何
も知らされていない。学校の教科書に、それに関する一言も載っていないのである。
けれども、ここに私が記した事柄は、すべて歴史上の事実なのだ。
最後にものみの塔の油注がれた者達とはずいぶんと違うことは言うまでもないでしょう。そして蒋介石が取り上げた武士道の武士をサムライとも言うが、その言葉のヘブライ語の意味は マイ ボディーガードであるそうだ。