自己紹介代わりに私に起きたことを紹介しておきます。
ある兄弟姉妹の姦淫の事実をつかみました。彼は元長老で彼女は正規開拓者でした。聖書の基準道理に先ず本人たちに悔い改めを促しました。半年もの猶予を見て反省が見られないため、証拠物件を添えて会衆に報告しました。しかしその猶予期間のうちにその元長老であった兄弟は私を背教の疑いで訴えていたのでした。彼と仲の良い長老から会衆は世の警察とは違うので証拠物件など扱わないし、そんなもので訴えたりするとかえって貴方のためにならないから捨てるようにと助言があったのです。元々彼らを助けたいとの思いからしたことですからその長老の助言に従い証拠物件を破棄したのでした。
ところがそのことを確認すると私を審理委員会に呼びだしたのです。彼らが言うことは姦淫の事実はないと彼らは主張していて自白がないから無罪であると言うことでした。ものみの塔にあるように聖書の基準に沿って事を行ったにもかかわらずこのような扱いはおかしいし、証拠物件を捨てさせてから逆に私を中傷で訴えるとはおかしいではないかと言うと。長老団はそうした事実はないと判断したのでその決定に従ってください。長老団は彼らの主張を受け入れ貴方が中傷していると判断したというのです。
そこからものみの塔誌や聖書を開いて議論となりましたが。全く非論理的で話になりませんでした。ただ最後に私に対する制限が宣告されておしまいにされたのです。
ところがさらに数ヶ月後の大晦日の晩に彼とまた別の女性が車の中で抱き合っているところに出くわしたのでした。私ひとりではまたなにを言われるか分らないので私の家族を携帯電話で呼びだし深夜に彼らが同じ車にいるところを確認させて長老団に報告したのです。ところが長老団は巡回監督まで呼び出して私を審理委員会に呼びだし議論となりました。彼らと話し合って分ったことは聖書の基準も、ものみの塔に書かれていることも根拠に話し合いができないと言う事実。彼らが従うのは神の基準ではなく組織の指示だけであるという事実でした。その審理委員会の話し合いの結果が「組織が絶対なんだという」彼らの絶叫終わるというお粗末な結果でした。
彼らは今回は中傷では裁けないため権威あるものに対する不敬な態度により排斥となったのです。その為私は彼らに悔い改めなさい兄弟たちと最後に言うことになりました。
そうした経緯と金沢問題の下記に引用した部分とは全く同じように当てはまります。
確かに彼らは聖書もものみの塔も事実上否定したからです。私の文章ではわかりにくいと思い金沢兄弟の経験も添えてみましたので、組織信者の人々はよく考えて欲しいと思います。組織を神様にしちゃって本当にいいのですか。偶像崇拝そのものでしょう。
あっそうか!...聖書無視でいいんだから彼らは困らないんでしたね。
7月11日木曜日
この日、金沢、藤原、瀬野兄弟の三人により、4時間余りに及ぶ集まりが設けられた。金沢兄弟と藤原兄弟が主に話し合い、瀬野兄弟はその内容をメモしていた。二人の姉妹たちの行状、預言の理解、本部への手紙などについて話し合われた。今回の事件に関する最大のポイントは次の点であった。
金沢: 「ものみの塔の義の基準といっても、別に特別なことではなく、最近号でも強調されているように心からのエホバの証人でいようということです。利己的な、やましい動機からではなく、純粋な心でエホバに仕えようということですが」
藤原: 「あ〜、そういう意味だったんですか。私は何か独自の義の規準を唱えているのかと思っていましたが、良く分かりました。しかしですね兄弟、それを日本で徹底したら、どんな弊害が出てくると思いますか。立ち行ける長老がいったい何人いるでしょうか。今、それを行うのは協会の方針ではありません」
金沢: 「では、ものみの塔誌で勧められていることを、どのように理解したら良いのでしょうか」
藤原: 「それはできる人はやれば良いということです。個人的にやる分には何も問題ありません」
金沢: 「会衆でやろうとすれば…?」
藤原: 「それは協会の方針に反することになります」
金沢: 「と、いうことは…?」
藤原: 「そうです。背教になりうるということです」
金沢: 「それは、間違いなく、協会の考えですか」
藤原: 「その通りです」
これは驚くべき発言であった。ものみの塔誌で公言していることをできるだけ皆で行なおうとすることが、背教になるというのである。
本来、ものみの塔誌の教えを広め、その理解を助け、可能な限りそれを行なうよう励ますのがものみの塔協会の代表者の務めのはずである。しかも、藤原兄弟は地域監督であり、1984年の暮に開かれた監督たちを訓練する王国宣教学校の教訓者でもあった。その時、ものみの塔誌の精神をできるだけ会衆に反映させるように、という指示を協会は出していたのである。さらに数ヶ月前に開かれた巡回大会で、監督たちを集め、ものみの塔誌の難しいところも可能な限り集会で扱うように、と教えたのは他ならぬ藤原兄弟自身であった。
ある兄弟姉妹の姦淫の事実をつかみました。彼は元長老で彼女は正規開拓者でした。聖書の基準道理に先ず本人たちに悔い改めを促しました。半年もの猶予を見て反省が見られないため、証拠物件を添えて会衆に報告しました。しかしその猶予期間のうちにその元長老であった兄弟は私を背教の疑いで訴えていたのでした。彼と仲の良い長老から会衆は世の警察とは違うので証拠物件など扱わないし、そんなもので訴えたりするとかえって貴方のためにならないから捨てるようにと助言があったのです。元々彼らを助けたいとの思いからしたことですからその長老の助言に従い証拠物件を破棄したのでした。
ところがそのことを確認すると私を審理委員会に呼びだしたのです。彼らが言うことは姦淫の事実はないと彼らは主張していて自白がないから無罪であると言うことでした。ものみの塔にあるように聖書の基準に沿って事を行ったにもかかわらずこのような扱いはおかしいし、証拠物件を捨てさせてから逆に私を中傷で訴えるとはおかしいではないかと言うと。長老団はそうした事実はないと判断したのでその決定に従ってください。長老団は彼らの主張を受け入れ貴方が中傷していると判断したというのです。
そこからものみの塔誌や聖書を開いて議論となりましたが。全く非論理的で話になりませんでした。ただ最後に私に対する制限が宣告されておしまいにされたのです。
ところがさらに数ヶ月後の大晦日の晩に彼とまた別の女性が車の中で抱き合っているところに出くわしたのでした。私ひとりではまたなにを言われるか分らないので私の家族を携帯電話で呼びだし深夜に彼らが同じ車にいるところを確認させて長老団に報告したのです。ところが長老団は巡回監督まで呼び出して私を審理委員会に呼びだし議論となりました。彼らと話し合って分ったことは聖書の基準も、ものみの塔に書かれていることも根拠に話し合いができないと言う事実。彼らが従うのは神の基準ではなく組織の指示だけであるという事実でした。その審理委員会の話し合いの結果が「組織が絶対なんだという」彼らの絶叫終わるというお粗末な結果でした。
彼らは今回は中傷では裁けないため権威あるものに対する不敬な態度により排斥となったのです。その為私は彼らに悔い改めなさい兄弟たちと最後に言うことになりました。
そうした経緯と金沢問題の下記に引用した部分とは全く同じように当てはまります。
確かに彼らは聖書もものみの塔も事実上否定したからです。私の文章ではわかりにくいと思い金沢兄弟の経験も添えてみましたので、組織信者の人々はよく考えて欲しいと思います。組織を神様にしちゃって本当にいいのですか。偶像崇拝そのものでしょう。
あっそうか!...聖書無視でいいんだから彼らは困らないんでしたね。
7月11日木曜日
この日、金沢、藤原、瀬野兄弟の三人により、4時間余りに及ぶ集まりが設けられた。金沢兄弟と藤原兄弟が主に話し合い、瀬野兄弟はその内容をメモしていた。二人の姉妹たちの行状、預言の理解、本部への手紙などについて話し合われた。今回の事件に関する最大のポイントは次の点であった。
金沢: 「ものみの塔の義の基準といっても、別に特別なことではなく、最近号でも強調されているように心からのエホバの証人でいようということです。利己的な、やましい動機からではなく、純粋な心でエホバに仕えようということですが」
藤原: 「あ〜、そういう意味だったんですか。私は何か独自の義の規準を唱えているのかと思っていましたが、良く分かりました。しかしですね兄弟、それを日本で徹底したら、どんな弊害が出てくると思いますか。立ち行ける長老がいったい何人いるでしょうか。今、それを行うのは協会の方針ではありません」
金沢: 「では、ものみの塔誌で勧められていることを、どのように理解したら良いのでしょうか」
藤原: 「それはできる人はやれば良いということです。個人的にやる分には何も問題ありません」
金沢: 「会衆でやろうとすれば…?」
藤原: 「それは協会の方針に反することになります」
金沢: 「と、いうことは…?」
藤原: 「そうです。背教になりうるということです」
金沢: 「それは、間違いなく、協会の考えですか」
藤原: 「その通りです」
これは驚くべき発言であった。ものみの塔誌で公言していることをできるだけ皆で行なおうとすることが、背教になるというのである。
本来、ものみの塔誌の教えを広め、その理解を助け、可能な限りそれを行なうよう励ますのがものみの塔協会の代表者の務めのはずである。しかも、藤原兄弟は地域監督であり、1984年の暮に開かれた監督たちを訓練する王国宣教学校の教訓者でもあった。その時、ものみの塔誌の精神をできるだけ会衆に反映させるように、という指示を協会は出していたのである。さらに数ヶ月前に開かれた巡回大会で、監督たちを集め、ものみの塔誌の難しいところも可能な限り集会で扱うように、と教えたのは他ならぬ藤原兄弟自身であった。