毎日が夏休み 掲示板過去ログ:#2208

昼寝するぶた

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No.2208 Re:たまにと言いつつ… 投稿者:MANA 投稿日:2004/01/12 19:31      
こんばんは。

> ここでみなさん、特に現役の方に質問です!
> なぜ誕生日を祝ってはいけないのでしょう?

◆下の引用の要点は
聖書に記録されている誕生日の祝いは異教徒のものだけであり、残虐行為が行なわれた事実と結びつけられている。
したがって、聖書は明らかに誕生日の祝いについて否定的な見方をしている。

◆訳わかんないですね。
「昔の人は誕生日に残虐なことをした」ことと、「健やかに育ってきたことを祝う」ことが、
どのように結びつくんでしょうか?


◆いちおう引用しときます:1998/10/15 読者からの質問

『エホバの証人で結婚記念日を祝う人は多くいます。誕生日は,人の生まれた日を記念する日です。
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では,結婚記念日を祝って,誕生日は祝わないのはなぜですか。』
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誕生日に特に注目することはどうでしょうか。そのような記念日に関して何かを暗示するものが聖書にあるでしょうか。

今世紀の初め,当時聖書研究生として知られていたエホバの証人は,確かに誕生日に注目していました。
彼らの多くは「日々の天のマナ」という小さな本を持っていました。その本には日々の聖句が収められており,
多くのクリスチャンは,仲間の聖書研究生の誕生日に当たる日のページにその仲間の小さな写真を貼っていました。
加えて,「ものみの塔」誌(英語),1909年2月15日号は,米国フロリダ州ジャクソンビルの大会で,
当時協会の会長だったラッセル兄弟が演壇上に招かれたことを伝えています。何のためでしたか。
兄弟をびっくりさせる誕生日のプレゼントとして,グレープフルーツ,パイナップル,オレンジが数箱贈られたのです。
このことから,かつての様子をかいま見ることができます。彼らの背景から物事を考えるために,
その時期のことを振り返ると,聖書研究者たちは12月25日をイエスの誕生の記念,つまりその誕生日として
祝うこともしていました。ブルックリンの本部ではクリスマスの晩さんまでが習慣として行なわれていたのです。

もちろん,その時と比べると,神の民は多くの面で霊的に成長してきました。
1920年代に真理の光が増し加わり,以下の点を理解できるようになりました。

イエスは12月25日に生まれたのではない。それは異教と結びついた日である。聖書は,イエスの死の日を
記念するよう指示しており,イエスやほかのどんな人についても誕生日を祝うようにとは述べていない。
そうすることは,伝道の書 7章1節のことば,および忠実な人がどんな生涯を送ったかは
その人が生まれた日より重要であるという事実にかなっている。聖書は,忠実な僕が自分の誕生日を祝ったという
記述を収めていない。異教徒の誕生日の祝いだけを記録し,そうした機会を残酷な行為と結びつけている。
では,それら誕生記念日の背景を調べてみましょう。

初めは,ヨセフの時代のファラオの誕生日です。宗教・倫理百科事典の誕生日の項はこう切り出しています。
「誕生した日を祝う習慣の形態には,歳月を数えることが,またその趣旨には,特定の原始的な宗教原理が結びついている」。
その百科事典は後の方で,エジプト学者のJ・ガードナー・ウィルキンソン卿のことばを引用しています。
彼はこう書きました。「エジプト人は皆,生まれた日やその時刻をさえ非常に重視した。そしておそらく,
ペルシャにおけると同様,各個人は大いなる歓びを抱き,社交上のあらゆる娯楽で友を歓待し,
普通を超えた量のごちそうをテーブルに並べて誕生日を祝ったであろう」。

聖書中に出てくるもう一つの誕生日の祝いは,ヘロデの誕生日です。その時にバプテストのヨハネの首が切られました。
国際標準聖書百科事典はその出来事に対する洞察を与えています。「ヘレニズム前のギリシャ人は,
神々の誕生日や著名な人物の誕生日を祝った。ギリシャ語のゲネトリアはそうした祝いを指し,
一方ゲネシアは本人が大切にしている故人の誕生記念を祝うことを意味した。マカベア第二 6章7節には,
アンティオコス4世が行なった月ごとのゲネトリアに関する言及が見られる。その際ユダヤ人たちは,
『犠牲にあずかる』よう強制された。……ヘロデは誕生日を祝った時,ギリシャ人の習慣に従って行動した。
ヘレニズム時代前のイスラエルで誕生日が祝われたことを示す証拠は何もない」。

たしかに,今日の真のクリスチャンは,一つ一つの習慣や慣行について,その由来や古代宗教との関連の可能性に
過度にとらわれることはありません。しかし,神の言葉が現にはっきりと示している事柄を無視したいとも思いません。
その中には,聖書に記録されている誕生日の祝いが異教徒のものだけであり,残虐行為が行なわれた事実と
結びつけられていることが含まれます。ですから,聖書は明らかに,誕生日の祝いについて否定的な見方をしています。
誠実なクリスチャンはその事実を無視しません。

したがって,クリスチャンが自分たちの結婚記念日に特に注目するとしても,それは全く個人的な事柄です。
しかし,円熟したクリスチャンがなぜ誕生日の祝いを避けるかにはもっともな理由があります。
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