毎日が夏休み 掲示板過去ログ:#2964

昼寝するぶた

ここでは、昼寝するぶた掲示板の過去ログを並べています。

No.2964 長〜く、くだまいちゃったゾ(^^) 投稿者:佐知子 投稿日:2005/02/08 19:16      
ひとつ訂正します。
ゲスブ1053、♪コートを脱ぐと新しい季節が動き出す…の出典が「あの微笑をわすれないで」となっていますが、まちがいでした。「息もできない」が正解です。ZARDというバンドなのか何なのかよくわからないけれど、あまったるい声の女の子がヴォーカルをとっています。

わたしは邦楽のCDってめったに買わないのですが、「あの微笑をわすれないで」という歌の歌詞が好きで、この一曲のためにアルバム買いました。ベスト盤だと思います。女性ヴォーカルではわたしはJ.ジョプリンとかキャロル・キングとかのようにハスキーなのが好きなので、こういう甘ったるい声ってあんまり好みじゃないのですが、今んとこ「あの微笑をわすれないで」はわたしの座右の銘(おおげさかな…)なんです。

キャロル・キングといえば、数年前「Love Makes The World」というCDがリリースされました。名作「つづれおり」の雰囲気そのまんまで、聴いていて懐かしさをジンと感じさせてくれる一枚でした。彼女はすでに60歳だけど、声に衰えがない。この人も自分のスタイルをしっかり持っている人です。セールスをあげるために、流行に迎合しない、そんな人たちのひとりであるキャロル・キングは大好きなシンガーです。生き方として、こんな風に生きたい、いえ、こういう風に生きる、わたしはそう決めてます。

内田久美子さんという方が対訳してくださっています。
「信じないではいられない
 愛が世界をまわしている
 あなたがわたしといてくれる限り
 何があろうとくじけない」

流行歌をもとにしてお説教みたいな口利くのは陳腐でみっともないことであるのは十分心得ています。それでもあえてわたしは言いたい。ずたずたに傷ついたり、人間不信になったり、恨みや復讐心に取りつかれたりしたとき、そんな気持ちや感情をインターネットという場所で、同じ経験をしてきた人たちの中で吐き出すのもいい。
でも癒したいと思うなら、やっぱり生きて動き、表情をあらわす生身の人々の中に入ってゆくことだと、身近な人たちの中で顔と顔を向かい合わせて人間関係を営むことだと、今は心底そう思うのです。

「人間関係とは、もっとも成長を早めてくれるもの。いまの人間関係の問題を解決するために母親を許しましょう(傷つくならば、それは“愛”ではない/チャック・スペザーノ著)」この本はわたしにとっては天恵でした。「心が傷つくのは、パートナーはかくあるべきだという期待や、あなたの“ルール(方針、信条)”を手放していないからです。“傷”とは、あなたを傷つけたその関係が、あなたの思うとおりに進行してほしい、相手の人にもあなたの望みどおりに行動してほしいという、ことばに出さない要求であるのです。相手への暗黙の要求であるあなたのその期待をあなたが手放したとき、気持ちが通じるドアが開かれるのです」。

「傷つくならば、それは愛ではない。
あらゆるラブソングや恋愛小説・映画が語っていることとは違い、愛は傷つけません。自分の欲求を愛に見せかけて、自分の欲求をほかの人に応諾させようとするから拒絶され、それで傷つきます。傷つくのは望みが満たされないとき、ほしいものが得られないとき、過去の痛みにふれられたときです。自分が傷つけられたとか、拒絶されたと感じるのは、何か「してあげている」ふりをしながら、じつは相手から認められることや賞賛や自分のほうだけを向いてもらうこと、2や3の地位、その他もろもろのものをもらおうとするからです」。

だから、「あなたが何も要求しなければ、だれもあなたを拒むことはできません。人に与えることであなた自身が満ち足りていれば、拒絶されることはありません。自分の内心の欲求を満たすために、自分のやり方を押し通そうとしないときは、相手がどんなふるまいをしようがそれはあなたにとってまったく何の問題にもなりません。ただ与えることによって愛したいというのがあなたの望みであれば、それを止めたり拒絶したりできる人はだれもいないのです」。

この本を読んだわたしの率直な感想は、サイコセラピーの最前線はまるでキリストの教えのようだ、というものです。わたしは今でもエホバの証人の擁護派の肩を持つつもりは髪の毛一本ほどもありません。エホバの証人は宗教カルトであって、キリスト教ではないと考えています。ではわたしは今キリスト教を支持しているのでしょうか。いいえ、正確に言うと、イエスの教えは人間関係を豊かにし、さらにサイコセラピーの効能をも大いに有するもの、と思っています。宗教は個人で奉ずるものであって、徒党を組むものではないと考えます。

「でもイエスは集まりあうように命じた」って? 集まりあうことを宗教団体を設立するというふうに解釈する必要はないというのがわたしの考えです。イエスは誰かが教え手になるとは言いましたが、教えられたものはみな教え手のようになるとも言いましたし、教え手は支配者のようになってはならず、しかし狼のような支配者に変質するだろうと「背教」の可能性を述べました。宗教団体はほとんどいつも絶対的な権力を持つ独善的な指導者を持つようになります。ですから宗教団体を設立した段階で、そのキリスト教愛好者たちは背教したのだと考えています。

エホバの証人だった自分をふりかえって思うのですが、世の終わりなどを信じるのは、自分が社会に解けこめず、それでも自分の居場所がほしいという気持ちがあるからじゃないでしょうか。自分を受け入れてくれる人たち、自分を認めてくれる人たち、そういう「居場所」がほしいのです。世の中で自己実現してゆく自信がないけれど、自分を認めさせたいとか思っていると、自分を失望させ、思い通りに認めてくれなかった世の中を恨むのだと思います。それで公害とか戦争とかいう、社会の不具合な面だけを強調して、このままでは滅ぶという話を信じてしまうのかもしれません。それは自分を認めてくれない社会なんてなくなっちゃえっていう気持ちの表れだと思います。しかもその滅びは自滅ではなくって、神さまによる裁きだという話でした。だから、神に従えば自分を認めてくれる居場所を、つまりキリストの王国での市民権を獲得できるなどという話を信じれたのではないでしょうか。わたしは、少なくとも両親を見ていてそう思います。

大人となった今、そんな親に何かできるかと考えてみました。もしあの人たちが自分の居場所を求めているのなら、少なくとも肉親については日ごろから容認のたいどを注意深く示してあげれるのではないかと、今は思います。王国でなくても、エホバの証人の社会ではなくても、この世の中で、この家庭で十分居場所を得られるってことを実感できれば冷静な考え方を持つようになるのではないでしょうか。あなたの考え方をちょっと変えれば、あなたの話し方、あなたの行動の仕方をちょっと変えれば、あなたはみんなからかまわれるようになるのですよっていうことを実感させてあげるのがいいのではないでしょうか。だって、最新のサイコセラピーはイエスの教えそっくりです。エホバの証人の人たちに受け入れられやすい話です。

でもエホバの証人として経験を重ねてゆけば、忠誠心はキリストよりも組織や指導者のほうへ移ります。友人も会衆の外にはいません。やっぱりむつかしいのでしょうね。ただエホバの証人の生き方に疑問を持っている人、エホバの証人は自分の気持ちを大切にしてくれなかった。それどころかことごとく否定されてしまった。でも自分なりに懸命に従ってきたのに結局こちらが満足できるほど愛してくれなかった。だからもうこんな宗教は見限ったと思える人なら、思い切って出てゆけるんじゃないでしょうか。…そんな簡単じゃないですよね。わたしもそうだったし…。なかなか気持ちは切り替えられなかった。

わたしは憎しみ、悲しみ、恨みの気持ちにとらわれていて、そんなにかんたんには切り替えられませんでした。でも先ほどの本によると、拒絶され、傷ついたのは、自分が求めていたものを十分に与えられなかったからです。自分の意欲、願望を親に応援してほしかった。でも頭ごなしに否定された。エホバの御意志じゃないから…。ほんとうは恋もしたいし、スポーツもしたい。年をとらないうちに結婚だってしたい。でもそんなそぶりを見せれば、長老は下卑た笑いを口元に浮かばせ、コリント第1の7章を(わたしはこの部分に恐怖を抱いていました)引用してお説教される。こういうのって自分自身の全部を否定されたって感じで、あとあと鈍い不満や怒りを覚えます。でもわたしは怒りを感じました。怒りを覚えれたのならまだ見込みがあります。過剰に適応してしまって、完璧な模範生になってしまう人は、バーン・アウトします。うつ病にまで突き進みます。

ただその悔しさや怒りを解消させるのは以外にも仕返しという方法じゃなかったんです。
「被害者の立場に陥らせるもっとも強い、隠された原動力は復讐心です。そして被害者であることをやめ、そのようにして傷を癒す最良の方法は復讐心を棄て去ることです。復讐とは主導権争いのひとつであり、自分自身を傷つけて誰かを情緒的に脅迫したり、仕返しをしようとするものです。しかもこれは常にうまくいきません。たとえ主導権争いに勝ったとしても、あくまであなたの主張を完全に相手に理解させようとすれば、究極的には被害者として自分を葬るほかなくなってしまうでしょう。たとえ加害者として相手を葬っても、その行為があなた自身を葬ることになるのです(前掲書)」。
たとえ自分を滅ぼしてもあの人たちは理解しないでしょう。「エホバを捨てた無信仰の人のなれの果て」で片付けられるのが落ちです。

聖書のエレミヤ書は水のないところに井戸を掘ることの愚を述べています。何を言ってもあの人たちには何も通じません。自己満足で精いっぱいなので、こっちの気持ちの機微なんて察する余裕がないのです。親の資格が整わないうちに親になってしまった人たち、教師の資格もないのに教師になってしまった人たちです。自分を救うには人間関係の大掃除が一番です。被害者をやめること、やられっぱなしの人生に終止符をうつのは報復行動で彼らに関わり続けることじゃなく、関わりを切断することでした。

「物事を効率的にするために、不要なものを棄てるということは、以外に重要なことである。自分自身を知り、自分が築きたい人生のイメージを得るにつれて、不要なものがはっきりしてくるものだ。それは例えば人間についても言える。あなたの貴重な時間をつぶし、あなたの努力を妨げ、あなたを管理しようとする人間との関係を、あなたは断ち切らなくてはならなくなるときが来る。むろん、そういう人たちを敵にまわすことはないが、自分自身の人生のために、切るべき人間は切るという勇気は持とう(成功哲学/N.ヒル)」。

世間知らずでも世の中でやっていけます。うまくやってのけようとか、世間知らずを知られないようにしようとか構えたりしなければ、やっていけます。自分を目立たせようとか、自分が中心になろうとかしなければ、友人はできます。早く結婚しようと焦るとヘンなオトコにつかまります。自然な流れにまかせていればちゃんとした友人はできます。イエスの教えにそって、見返りを求めずに与えることというのでやってれば、きっとやっていけます。自分が楽しければみんなも楽しいんですから、特別なこともしなくていいんです、世間では。もう人一倍奉仕しなければ喜ばない神とは縁を切ったのですから、気を張らなくていい。わたしは今だって、キャロルの歌のようにいつかきっと「あなたがいてくれるなら、何があろうとくじけない」って言うようになることを目指しています。人間と付き合うのが一番のいやしだから。

わたしはししっぱちさんのようにやさしくはないから、誰かの支えになろうなんて思わない。自分のことは自分でやってくれというのが本音です。でもここ半年ほどインターネット離れて思ったのは、人付き合いの重心は圧倒的に生身の人間のほうにおくべきで、コンピューターに張り付いて泣いていてはいいほうへは向かわないということです。かなり大脱線しましたが、わたしの現在時点の「霊的状態」を述べさせていただきました。よく「月並みだけれど、焦らないで、自分流でね」なんて言われます。言われたほうは「こっちの気も知らないでかってなこと言ってる」なんて思ってしまうものですが、「月並み」にはきちんとそれなりの根拠があったんだなあと今は思います。

なんだか長々としゃべってきて、かえってがっかりさせちゃいました? 見てなさいって。今どん底の人だって、世の中でなんとか自分のペースを持てるようになれば、きっとこんな風なことを言うようになりますよ。

おそまつでした、シェー!(ってわかりませんよね?)
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